安保条約の成立 — 吉田外交と天皇外交 (岩波新書)/豊下楢彦

安保条約の成立―吉田外交と天皇外交 (岩波新書)

豊下 楢彦/岩波書店




久しぶりの岩波新書。著者は今年「昭和天皇・マッカーサー会見」で更にこの論を深めているらしいのだけど、まずは96年のこの著作から読んでみました。『昭和天皇・マッカーサー会見』も読了しての感想を一言で言えば、日本の学者は1945年の終戦の日から、63年もかけてここに辿り着いたということ。

下記は「シャンバラ」http://shanbara.jugem.jp/?eid=34 より

日本は51年のサンフランシスコ平和条約と同時に、日米安保条約をアメリカとの間に結んだ。それは確かに不平等なものであったが、坂元教授によれば、それは「日本側の外交交渉の拙劣さよりも、当時の日米の立場と力関係から説明するのが妥当ではないか」というものである。ところが、豊下教授は全く別の見解を提示している。

講和条約の交渉が始まる前年、つまり50年6月に朝鮮戦争が勃発した。49年の中国共産党による政権樹立とともに、アジアでの冷戦色が急激に強まってしまう反面、アメリカにとって日本の戦略的価値が飛躍的に高くなった。よって51年の1月末から始める日米の講和交渉において、日本としては基地提供をカードとして使用し、アメリカとの交渉を有利に行うことが”可能”であった。

しかしながら、交渉の開始とともに日本はそのカードを自ら捨ててしまう。1月30日に提出された「わが方見解」という文書に、吉田の指示にもとづいて「日本は、自力によって国内治安を確保し、対外的には国際連合あるいは米国との協力(駐兵のごとき)によって安全を確保したい」という文言が挿入されたのだ。つまり、日本の基地をこちらから”提供してあげる”のではなく、日本の要請に基づいてアメリカが"駐兵してあげる"という形式になってしまった。結果的に、日米安保条約は日本にとって相当不利な条約となった。なぜ吉田はこのような、日本を交渉において不利にするような文言を挿入させたのだろうか。

豊下教授は、そこに天皇の影響があるのではないかという仮説を展開している。天皇は日本の安全保障を確保するために、米軍の駐留を望んでいた。なぜならば天皇はソ連、もしくは国内の共産主義勢力の革命の危険性を強く認識していたからだという。革命によって政権が転覆させられ、天皇制そのものが廃止されれば、天皇も裁判にかけられる可能性がある。

しかし、マッカーサーは日本を非武装中立にするという持論をもっており、天皇の思うとおりに事が運びそうにない。そこに登場したダレスにアプローチをして、非公式のチャンネルを作ったのではないか、というものである。ダレスも天皇も米軍を日本に駐留させることを望んでおり、マッカーサーと吉田の両者をバイパスして、それを実現させようとしたと教授は推測する。吉田は頻繁に交渉の経過を天皇に報告しており、その中で天皇に「御叱り」を受けて方針転換し、日本から基地提供を申し出たのではないかというのである。(後文略)

下記は「公式 天木直人のブログ」より

豊下楢彦という国際政治学者

書評のついでにもう一つ書いておく。豊下楢彦という国際政治学者がいる。私が彼を知ったのは「安保条約の成立」―吉田外交と天皇外交(岩波新書)ーを読んだ事がきっかけであった。

その著書により、昭和天皇が、新憲法の下で政治的行為を行わない象徴天皇になってからも、単独でマッカーサーと何度も会見し、自らの保身の為に吉田茂に安保条約の早期締結を迫った事を知った。

もっとも、前段は周知の事実であるが、後段は豊下の推論である。昭和天皇とマッカーサーの会談の真相は未だそのすべてが公開されていない。おそらく今後も公開されることはないであろう。だから豊下の推論はあくまでも推論にとどまって終る。しかし彼の推論は少なくともその著を読む限り説得力はある。そしてその推論が正しければ、われわれの戦後外交のイメージは一変する。

豊下教授の国際政治学者としての一般的評価を私は知らない。しかしこのような意見を著書で明らかにする学者は、その実力や業績の如何にかかわらず、既成体制にとって容認できないということであろう。御用学者のようにメディアやマスコミなどで重用される事は決してありえない。

その豊下が、同じ岩波新書から、「集団的自衛権とは何か」という最新著を先月上梓した。さっそく購入して読了した。教えられる本だ。タイムリーな本だ。

その中で私が注目したのは、何と言っても、1960年の安保改定に先駆けて行われた重光葵外相とダレス国務長官とのやり取りの中の次のごとき米国の本音である。
・・・(1955年に行われた重光葵の訪米の目的は)日本には(全土にわたって)基地を提供する義務はあるが米国には日本を防衛する義務はない、という不公平極まりない旧安保条約の改定を要請することであった。

このため重光は安保条約にかわる相互防衛条約案を携えて臨んだ。しかしダレスは重光の提案を門前払いする。(その表向きの理由は)安保改定を受け入れる大前提として、日本がまず憲法改正を行い、集団的自衛権の行使を可能にすること(であったが、実は重光案の中には米国として受け入れがたい項目があったのだ)。すなわち、「日本国内に配備されたアメリカ合衆国軍隊はこの条約の効力発生とともに撤退を開始するものとする」という項目があったのだ。

ダレスはこれに激しく反発した・・・ダレスにとっては、日本が集団的自衛権を行使して「米国を守る」ことよりも、米国が日本の基地を特権的に維持し続けることの方がはるかに重要な意味を持っていた・・・ダレスの最大の獲得目標は、「望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利」の獲得にあった・・・

(米国にとっては)日本を独立させた以降も占領期の米軍の特権維持を保障するような条約を締結することこそが、死活的な意味を持っていたのである・・・

一般国民は、岸信介の手による日米安保条約の改定が、それまでの片務的なものから対等なものに改められたと信じ込まされている。それが岸信介の一大功績であると思い込まされている。しかし実際は安保条約の改定によって米国の一方的な基地占有が固定化されたのだ。

ついでに言えば、豊下が指摘するもう一つの重要点も見逃せない。それはいわゆる極東条項の起源についてである。

極東条項とは、極東における共産主義の脅威から米軍が日本を守ると言う意味で、米軍の軍事行動を地域的に限定する条項であると解されている。だからこそ極東を超えたベトナムや中東地域での米国の戦争に日本から米軍が出兵することが、安保条約の逸脱であると批判される。
 
ところが安保条約の交渉の経緯を検証すると、極東条項は米国の要求によって書き込まれた米軍のフリーハンド条項であるのだ、と豊下は言う。

旧安保条約は、言うまでもなく、国連による集団安全保障(特定国との軍事同盟によって安全保障を図るという集団的自衛権の発動ではなく、国連加盟国全体によって潜在的な敵に対応し安全保障を図る事)が発動されるまでの過渡的な二国間条約にしたいとする日本側の考えと、自らの安全保障政策のために在日駐留軍を自由に使いたいとする米国の間のせめぎあいの結果、日本が全面的に譲歩して出来たものだった。

言い換えれば、米軍の軍事行動を、国連憲章に縛られる事なく、米国独自の判断で一方的に行えるよう米国が要求してきた条項であった。そして、そのような米国の要求を受け入れざるを得なかった事を「汗顔のいたり」と考えた外務官僚が、その「悔恨」を背景に、岸政権下の安保条約改定交渉において削除を申し入れたところ、再び拒否されたといういわくつきの条項であった。

豊下は次のように解説する。

「日米安保条約が国連憲章の目的と原則を再確認しその遵守を謳っている以上、米軍の行動には憲章51条の規定に従い『武力攻撃の発生』という縛りをかけることが必要不可欠であった。ところが譲歩の結果この縛りを欠くことになったため、またしても国連憲章を無視した米国の「一方的行動」を想定した条約となってしまった・・」(後文略)
____________

【出版社/著者からの内容紹介】「安保再定義」が声高に論じられている。だが、そもそも安保条約とは何なのか。なぜ、一方的な駐軍協定というべきものになったのか。著者は、発見された「非公開外交文書」とダレス文書を読みぬき、「吉田ワンマン外交」に解消されない新たなベクトル「天皇外交」を見いだしていく。戦後史を考え、現代を考えるための必読の書。岩波書店 (1996/12)

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by yomodalite | 2008-08-11 12:38 | 天皇・皇室 | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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