田中清玄自伝(インタヴュー 大須賀瑞夫)

田中清玄自伝 (ちくま文庫)

田中 清玄,大須賀 瑞夫/筑摩書房

undefined



右翼、国士という印象を遥かに超えた、最大級の「大物」の自伝! 面白いことは間違いありません。

第1章/会津武士と武装共産党
第2章/昭和天皇と玄峰老師
第3章/オットー大公と田岡一雄
第4章/世界の石油と鄧小平
第5章/ハイエク教授と今西錦司教授

下記は、松岡正剛「千夜千冊」より引用。

昭和20年10月、田中清玄は朝日新聞の高野信に頼んで、「週刊朝日」に天皇制護持についての一文を書いた。「諸民族の複合体である日本が大和民族を形成できたのは天皇制があったからだ」という主旨だった。この一文を、元静岡県知事で当時は禁衛府長官になっていた菊池盛登が陛下に見せた。菊池は田中清玄を天皇に会わせたいと思った。『入江日記』によれば、12月21日に田中清玄は生物学御研究所の接見室に招かれ、石渡荘太郎宮内大臣、大金益次郎次官、入江侍従らとともに天皇に会っている。小一時間、清玄は退位なさるべきではないことを懸命に申し上げたという。
このことを聞いた安岡正篤が田中清玄に会いたいと言ってきたらしいが、田中はこれを断っている。田中は安岡や近衛文麿が大嫌いだったのである。 (中略)

〜田中によれば、GHQのアーモンド参謀長に朝鮮戦争を予言したときは、かれらは信じなかったというくらいだったという。田中は朝鮮戦争も、三鷹事件・松川事件も、ソ連の策謀だったという推理なのである。 (中略)

〜田中は島から反スターリン主義の運動思想のこと、自衛隊導入時の対策、次期委員長に函館出身の唐牛健太郎を推したいということなどを聞いていて、この連中を応援しようと思った。反代々木・反モスクワ・反アメリカが気にいった。田中の秘書だった藤本勇が日大空手部のキャプテンだったので、武闘闘争のイロハも伝授したらしい。いったいどれくらい資金提供したのかはわからない。〔機会あるたび、財布をはたいてやっていましたよ。まあいいじゃないですか、それはそれで〕。
こうした田中の動きが気にいらなかったのが、自民党の福田篤泰や右翼の児玉誉士夫だった。 (中略)

〜田中清玄が田岡一雄と仲がよかったのは、事実のようだ。
田岡は政治的なことは田中清玄さんのような人に任せ、自分はヤクザのほうを取り仕切ると決めたらしい。

ここで二人のコンビが成立したようだ。このとき児玉誉士夫が東亜同友会によって全国の右翼と博打打ちを大糾合する計画が動いていて、二人はこれに立ち向かうことになる。すでに右翼の一部とヤクザは麻薬を財源にしていたので、二人はこれを標的に「麻薬追放・国土浄化連盟」をつくり、菅原通済・山岡荘八・ 福田恆存 ・市川房枝を立ててキャンペーンに入った。 (中略)マスコミは「山口組全国制覇のための巧妙なカムフラージュ」と書き立てた。が、田中は反論している。〔これだけ麻薬がはびこったのは、警察とジャーナリズムと、そして政治家の責任だと言いたい。世の中に悪いことをやっているのはごまんとおります。暴力団にも警察官にもおる。しかし一番許せないのは政治家だ。竹下、金丸、小沢と、こういう連中に牛耳られた自民党の国会議員は、いったいどうなんだ〕。 (中略)

〜田中清玄は長らく右翼の大物とみなされてきたが、本書によるかぎりはそういう痕跡は少ない。田中自身は、私が本当に尊敬している右翼は橘孝三郎と三上卓だけだと言う。とくに児玉誉士夫には敵意を剥き出しにする。赤尾敏や野村秋介は相手にしていない。
最も田中に近かったのは四元義隆で、三幸建設を譲っている。 (中略)

〜それにしても田中清玄には意外な人物が内外を問わず親しくかかわった。オットー・フォン・ハプスブルク大公やフリードリッヒ・ハイエクもその一人である。 (中略)ハイエクがノーベル賞を受賞したとき、メインテーブルに招かれたのは日本人は田中清玄だけだった。(中略)そのハイエクと 今西錦司 が出会ったときも、田中は同席していた。今西の棲み分け理論は、田中がこれは政治や社会に適用できるのではないかと考えていた理論だったようだ。(中略)

〜本書は、田中がどのように石油買い付けの裏側で動いていたかということについても、かなり聞きこんでいる。 (中略)日本に油田をもたせないというのが石油メジャーの方針である。
インドネシアとは、すでに岸信介・河野一郎らがスカルノと組んで利権を得ようとしていた。 (中略)

〜田中はこうも言っている、〔日本には政治家はだめだけれど、財界人はいいという考えがあるけれど、これは間違いです。政治家と同じです。甘さ、のぼせ上がり、目先だけの権力欲。それを脱していない〕。
田中が認めた財界人は、池田成彬、松永安左エ門、経済同友会の代表幹事をつとめて新自由主義を唱えた木川田一隆、大原総一郎、土光敏夫くらいなものだったようだ。 (中略)

〜昭和55年(1980)、田中清玄は50年ぶりに中国に行く。鄧小平と話しこんだ。日中友好協会の孫平化会長が「そもそも天皇陛下の訪中を中国側にもちかけたのは田中清玄さんだった」と1992年にあかすまで、この事実は正確なことが伝わっていなかった。 (中略)

〜曰く、児玉誉士夫を最初につかったのは外務省の河相達夫だろうが、それに鳩山一郎・三木武吉・広川弘禅・大野伴睦がくっついたのはどうしようもない。曰く、岸信介がだめになったのは矢次一夫(国策研究会の中心人物で、岸の密使として李承晩と会談した)のような特務機関屋をつかったことだ。

曰く、中曽根康弘とは首相になってから会ったが、中国の胡耀邦と親交を結ばなかったのが落ち度だ。安倍晋三、竹下登、宮沢喜一なんかを総理大臣にしようとしたところも、瀬島龍三や越後正一(伊藤忠会長)を登用したのも、日本をだめにするだけだった。宮沢にはやってやるぞという気迫がない。

曰く、伊東正義には首相の腕を見せてほしかった。後藤田正晴にはとくに魅力を感じないが、応援演説ではアジアに関心があるかぎりは応援すると言った。 (中略)

〜曰く、日本はあと50年アメリカと組んでいくなどと言っている小沢一郎のような考え方と正面から対決していくべきだ。曰く、靖国神社に政治家が大挙して参拝するのはとんでもないことだ。まして天皇陛下の参拝を要請するなんてのは愚の骨頂だ。 (中略)

〜〔政治家なら国になりきる、油屋なら油田になりきる、医者なら バクテリアになりきる 。それが神の境地であり、仏の境地だ〕と。
このとき田中清玄は88歳だった。「今は何に関心がありますか」と問われて、田中は即座に言っている、〔いま最も知りたいことは ビッグバンがこの世に本当に存在したのか どうかということです。もうひとつは 遺伝子工学に関すること です〕と。
__________

【内 容】特高との武装闘争、昭和天皇への直言、米ソ情報機関との暗闘、山口組組長への友情、岸信介・児玉誉士夫一派との死闘、国際石油戦争での活躍、そして今…。 日本でいちばん面白い人生を送った男。


[PR]
トラックバックURL : http://nikkidoku.exblog.jp/tb/6286825
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
名前
URL
削除用パスワード

※このブログはコメント承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでコメントは表示されません。

by yomodalite | 2007-04-06 11:33 | 報道・ノンフィクション | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


by yomodalite