マイケルとヒップホップ(4)

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(3)の続き・・・


『Dangerous』前後に起きた様々な変化、ビジネス、政治・社会状況について、主に『ヒップホップ・ジェネレーション』を参考にしてまとめてみました。


◎ヒップホップとビジネス


世界的なメディア業界における消耗品としてのヒップホップと、地域のアンダーグラウンドを結ぶ、広大なネットワークの中で力強い生命線となっていたヒップホップ。

この二つの役割の間にあったクリエイティブな緊張状態は、90年代中盤になると、メディア独占企業側に一気に傾き始めた。脱白人ポップカルチャーに対する世界的需要に企業側が気づくと、ヒップホップは世界規模で統合されたメディアの主要コンテンツとなった。


ナイキや、アディダス、ペプシといった企業は、白人ベビーブーマー(1946~1964年頃までに生まれた世代)以外の新市場の開拓に乗り出すと、都市部に住む有色人種に目をつけた。これまではニッチとして無視されていた彼らだが、一般の認識以上にブランド志向を持ち、実際はブランドをリードしている層であることがわかったのだ。


1980年代、ブラックミュージックを流すラジオ局は、自らを「アーバン・ラジオ」と称するようになり、ライオネル・リッチーや、マイケル・ジャクソンがアーバンだった80年代から、90年代になると、ヒップホップが「アーバン」の象徴になる。


1986年、Run-D.M.Cは「My Adidas」で、アディダスを一躍ヒップホップ・ブランドに変貌させ、その二年後、スパイク・リーとマイケル・ジョーダンは、ヒップホップを使ったブランド戦略をより高い次元へと押し上げ、1992年の「The Chronic」リリース以来、スヌープとドレーは2年間ヴィデオとラジオを独占し、ラップ業界は、音楽業市場の10%を占めるようになった。



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ロス暴動後、ヒップホップ世代の創造性が爆発した一方で、競争は熾烈を極めるようになり、雑誌に取り上げられ、高い評価を得られるかどうかをめぐって、編集者やライターが、ラッパーから脅迫をうけることもめずらしくなく、誰もが生き残りを賭けて、しのぎを削っていた。


1988年にハーヴァード大学のユダヤ系の学生によって創刊されたインディーズのヒップホップ専門誌「The Source」の発行部数は14万部に達し、ラップ業界の代弁者の域を超え、あらゆる文化や、政治も扱うようになった。ファッションのページには、その後、黒人初のスーパーモデルと言われるようになるタイソン・ベックフォードと共に、Bad Boy Recordsを設立したショーン・コムズ(パフ・ダディor ディディ)が登場し、1993年には、「The Source」の広告主は、レコード会社だけでなく、ナイキ、リーボック、セガなどにも広がった。平均的な読者層は21歳男性。そのうちの半数がブラック、4分の1以上が白人だった。



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一方、TV界では、これまで視聴者を独占していた三大ネットワークのABC、CBS、NBCは、ケーブルTVなどによる視聴者の細分化によって視聴率が減少し、ビルボートのランキングに、バーコード読み取り方式の購買情報管理システム「サウンドスキャン」が取り入れられ、実際のセールスを集計するようになると、インディーズで配給されたNWAの『Efil 4 Zaggin』が、初登場第2位を記録。

マイケルが、黒人として初めてMTVに登場したと言われた「Billy Jean」から5年後の1988年、MTVで最も人気番組になっていたのは、ドクター・ドレもホストとして参加していた「Yo! MTV RAPS」。MTVはラップ・ヴィデオがほぼ皆無な状態から、1日12時間もラップを放映するチャンネルとなっていた。

マイケルとの共同制作関係を解消したクインシー・ジョーンズは、『Dangerous』発売と同年の1991年、「The Source」を買収しようとして失敗するものの、その後タイムワーナーからの出資を受け、高級志向のヒップホップ雑誌「VIBE」を創刊。記事の質の高さだけでなく、エレガントな写真と画期的なデザインによる高級紙は、ジャンニ・ベルサーチや、アルマーニ・エクスチェンジなどの広告も掲載され、商業的にも大成功する。



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ホワイトネスからブラックネスへ、ベビーブーマーから若者へ、そして、郊外から都市部へ。「The Source」がシーンに登場した頃、エンターテイメント業界と、メディア業界は、空前絶後のパラダイムシフトを経験していた。


80年代の多文化主義を提唱する人々は 、社会が数々の文化を取り込み 、それぞれを尊重することを求めていた。この種の融合はあらゆる人々を幸せにできると考えられていた。しかし、『The Chronic』以降の企業の多文化主義は 、それとは逆の概念を持ち、アーバン・マーケティングは 、人種隔離と差別の現実を維持しながら、文化融合の欠点をも引き出した。


歴史学者のロビン・D G・ケリ ーと、学者のヴィジャイ・プラシャドは、「多文化主義」という概念は 、政府や資本主義によって作り出されたと言い、ナオミ ・クラインは、90年代中盤、トミー・ヒルフィガーが、ラルフ・ローレンの偽物というイメージから、アーバン・クールの権化というイメージへ大変身を遂げた理由について、「アメリカの人種関係の核心にある距離感を利用したのである ― 白人の若者に対しては 、ブラック ・スタイルに憧れる心を利用して売り込み 、黒人の若者に対しては 、白人の富に憧れる心を利用して売り込んだのだ 」と(『ブランドなんかいらない』)。



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「VIBE」に掲載された広告(1993)


リアルであり続けることと、成功を収めること。メディアがヒップホップの商業化に加担したことに対する、究極の代償のように、ヒップホップシーンに混乱状態がおとずれた。



《参考記事》1990~1993年までの「The Source」の広告


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by yomodalite | 2017-05-09 00:23 | MJ考察系 | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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