物理学者が解き明かす重大事件の真相

物理学者が解き明かす重大事件の真相

下條 竜夫/ビジネス社



とりあげられている重大事件は、「福島第一原発事故」、「福知山線脱線事故」、「STAP細胞と小保方晴子問題」、「和歌山毒カレー事件」の4件。


ニュースでおなじみのそれぞれ一冊通して語られるような話題から、文系にはなかなか理解できない物理学の世界をちょっぴり垣間見れるという点で希少な本なのですが、第6章からは「地球温暖化問題」や「ビッグバン」を通して、現代物理学はどこまで正しいのか?という問いにも答えられ、

最終章「仁科芳雄こそが〈日本物理学の父〉である」では、物理学者が国家防衛のために生み出した兵器「原爆」とその平和利用として考えられた「原発」が、日本の物理学に与えた影響について、筆者は大学の准教授であるにも関わらず、かなり踏み込まれた話をされています。全体を通して、いわゆる陰謀論風味はまったくなく、恐怖を煽って扇動するようなところもありませんが、なかなか「危険な本」だと思いました(もちろん良い意味で)。

そんな興味深い本書の中から、

ビッグバンを疑っていたマイケルのために、第7章の「現代物理学は本当に正しいのか?」から、メモしておきます。

(省略して引用しています)

1995年ごろ、書店の科学のコーナーには、「相対性理論は本当か?」とか、「ビッグバン理論は間違っている」という現代物理を否定する本がたくさん平積みで置いてあった。相対性理論では、運動している物体と、していない物体では時間の進み方がちがうという奇妙なことが起きる。また、ビッグバン理論では宇宙の起源は138億年前であるとはっきり決定しており、それ以前は宇宙も時間も存在していなかったという。どちらも、我々の常識から大きくはずれていることもあって、この手の現代物理学を否定する本がたくさん売れた。

 

 私はこれらの本を「異端本」と呼んでいる。異端(heresy)とは、異端者(heretic)が唱えた異説のことだ。異端者は、ローマ教会に逆らって正統でない学説をとなえたために火炙りにされた。ローマ教会が正統と認める天動説に対して地動説を唱えたガリレオ・ガリレイは、火炙りにはされなかったが、まさに異端者だった。多くの物理学者が正統と見なしている現代物理学を否定する人たちは、まさに現代の異端者だ。

 

 私は物理の専門家なので、理論の初歩のところは正確に理解している。相対性理論の「異端本」のいくつかは、相対性理論の基本的な理解でつまずいていた。我々は日頃、筒単に「同時」にという言葉をよく使う。しかし、相対性理論では、この「同時」が、見る人によって違う。だから、この「同時」を我々の日常生活と同じ「同時に」として考えるとたくさんの矛盾がでてきて、相対性理論が間違って見える。つまり、相対性理論(relativity theory)とは、「時間」と「長さ」はその測定者によって違う、時問は独立しているのではなく、測定者そのものと「関係(relate)している。(×相対的ではない)という理論なのである。

 

 同じく異端本で取り上げられる「ビックバン理論」のほうはどうだろうか? 近藤陽次というNASAにいた天休物理学者が書いた『世界の論争・ビッグバンはあったか ー 決定的な証拠は見当たらない』(講談社ブルーバックス、2000年)という本がある。私はこの本を読み、ビッグバン理論は宇宙物理学者の間ではまだ正しいとは認められていないとずっと思っていて「ビックバン理論」を異端とする本には、それほど違和感はなかった。

 

 ところが、最近、高校の物理の教科書を問いて見たら、「ビッグバン理論」がすでに取り上げられていてひどく驚いた。教科書に掲載されたということは、「ビッグバン理論は正しい、ビッグバンは本当にあった」と認められたことと等しい。ビッグバン理論から派生する「インフレーション理論」も高校の教科書に掲載されていて、さらに驚いた。これも仮説の理論だと私は思っていたからだ。「ビッグバン理論、インフレーション理論は正しい理論である」と、教科書執筆者とこれを検定した文科省ははっきり宣言したわけだ。


 相対性理論や宇宙物理学などの高度な数学を使う現代物理学は、専門家以外はほとんど理解できない。私は物理学者のはしくれ(原子分子物理という分野の専門家)だが、ビックバン理論や相対性理論は間違っているのか?と聞かれても、この領域の専門家ではないので、正しいのか正しくないのか、まったくわからない、数学をつかって確かめることもできないので、ここでは「科学哲学」を使って現代物理学そのものを疑ってみる。そもそも「哲学」とは、あるものごとが正しいか、間違っているかがわからないときに、その判断の指標を与えてくれるものである。アイン・ランドが、『哲学:誰がそれを必要とするか』という本の中でそう語っている。


マッハの科学哲学

 

 パートランド・ラッセルというイギリスの有名な哲学者兼数学者がいる。彼が中心となり、「科学哲学」と呼ばれる哲学の一分野をつくった。「科学(science)とは何なのか、何をするための学問か、科学が記述することははたして正しいのか」を取り上げる学問で、もともとは科学に対しては、中立的な立場だったが、だんだんと、科学哲学は現代科学を擁護つまり賞賛するために使われるようになっている。

 

 例えば、有名な科学哲学者のカール・ポパーとファイヤ・アーベントは「反証可能性(Falsifiability)」という理論をつくった。この「反証可能性」は訳が変で、本当は「科学は間違うことができる」という理論である。科学では、間違う可能性が高い仮説ほど価値があるという考え方だ。ところが、それがなぜか、「反証する理論に対して批判が生まれたとき、それを論破して証明できれば、それは科学であり、反証することができなければ、それは科学ではない」という考え方に変わり、「似非科学」「疑似科学」を排除し、正確に科学・非科学の境界を定めることができるとされている。このやり方で科学・非科学の境界を定めると、現在、科学のようだと考えられているものでも、厳密な反対尋問に耐えられない限り、科学とは認められない。例えば、民間療法のようなものは、科学的でないとして、「似非科学」というレッテルをはられ、否定される。逆に、厳しい反対尋問に耐えられれば科学と認められるため、些細な重箱の隅をつつくような研究も、重要な研究として重宝されている。

 

 しかし、科学哲学というのは、我々が、今まさに、「これは科学であり真理である」と認めていることが、本当に正しいのかを議論する学問である。むしろ、疑いようのない立派な説を疑うための試金石であり、現代の科学が取り扱う理論そのものを疑うためのものだ。科学哲学は、「疑似科学」「似非科学」として未完の科学を排除するための学問では決してない。このことがわからないと科学哲学の偉大さが理解できないと私は思う。

 

 そこで、科学哲学を理解するために、オーストリアの物理学者で、科学史家・哲学者でもあるエルンスト・マッハという偉大な科学哲学の先駆者を紹介する。「マッハの科学哲学」がわかると、科学哲学そのものが、なぜ存在するのかがよく理解できる。前述したカール・ポパーの「反証可能性」とか、トーマス・クーンの「パラダイム理論」も、本当はマッハの科学哲学から派生したものだ。


 マッハの考え方を具体的に説明する前に、マッハが現在生きていたら現代物理学についてどういうか、逆に現代物理学者がマッハをどう思うかについて書いておこう。佐藤文隆京都大学名誉教授が書いた『職業としての科学』(岩波新書、2011年)という本には、マッハの科学哲学のことが詳細に書かれている。佐藤教授は、ビッグバンなどの宇宙物理で有名な理論物理学者だ。普通の理論物理学者であれば、マッハに言及することはできない。なぜなら、マッハが生きていたら、理論物理学者に面と向かって、彼の理論を罵倒したはずだからだ。


 エルンスト・マッハは、19世紀末・20世紀初頭のヨーロッパで流体力学、波動論(kinematic wave theory)で大きな貢献をした、オーストリア学派=ウィーン・ブント(ウィーン学団)の偉大なる創始者であるが、特に物理学者たちの間では評判がよくない。マッハは「人間に見えない原子というものがはたして存在するかどうかわからない」と断言し、そのことで原子論を唱えたボルツマンを自殺に追い込んだ、とうわさされている。そのため、マッハの科学哲学は、現在では「道具主義(instrumentalism)」だと言われ、低い評価しか受けていない。マッハの科学哲学は、いかなるものなのか。エルンスト・マッハの「力学」から引用してみよう。


 あらゆる科学は、ある事実を人間の思考の中に模写し転写することによって、経験に置きかえる。そうすることで経験を節約するという使命をもつのである。模写は経験それ自身よりも手軽に手許においておけるし、多くの点で経験を代行できる。科学のもつ、この安上がりですますことの機能こそが、科学の本質を貫いている。このことは一般的に考えても明らかとなろう(中略)私たちは事実を思考の中に模写するとき、決して事実をそのまま模写してはいない。私たちにとって重要な側面だけを模写するのである。このとき私たちは直接的にせよ間接的にせよ、ある目標をもった実益をめざしている。私たちが模写するときはいつも抽象(abstract)しているのだ。ここにもまた経済的性格(思考時間を節約している)があらわれている。 (エルンスト・マッハ『力学』)

 マッハはこのように書いている。ここに、「科学は、実験結果・経験的事実をより分かりやすく、より経済的に、より労力を節約して理解するための道具に過ぎない」としている。ここには「真理」は存在しない。さらにマッハは人間の「感覚」の大切さを力説している。


 人間の感性的諸事実こそが、こうして、物理学者のありとあらゆる思想適応の出発点であり、また目標である。人間の感性的諸事実に直接に従おうという思想は、私たちに最も馴染み深い、最も強い、最も直接的な思想である。新しい事実に直ちに従うことができない場合には、その事実に、より豊富でより明確な形を与えるべく、最も強力で最も馴染み深い思想が押し追ってくる。科学上の仮説や思弁は、いずれもこれに基づく。(エルンスト・マッハ『感覚の分析』)

 ここでマッハは、あらゆる自然科学で議論するときの「事実」なるものは、経験的に確かめたもの、私たち人問感覚でとらえることができるものであるとしている。そうでなければ、その事実は事実として認められないと述べている。マッハだけでなく、いわゆる「ポジティビスト」や、「実証主義者」と呼ばれる学者たちは、次のように考える。

 

 理論はある場合は成立し、ある場合は成立しない。しかし観測した事実、体験した諸事実は確かな科学の基礎と土台になる。だから、これらの観測した事実、体験した諸事実こそが、科学的な推測(reasoning)や推論を始める最初の第一歩でなければならない。多数の人びとに認められている理論が先にあるのではなく、私たちの目の前に確かにある事実こそが、マッハの手法の土台である。

 

 我々も日頃、経験するように、あやふやな伝聞、間違って広められた事実など、「不確かな事実」がたくさんあり、対立する複数の視点から傍観すると、同じ出来事がまったく道う出来事だったことに気づく。この手法により観客を混乱させた黒澤明監督の名作映画『羅生門』では、盗賊、武士、その武士の妻の3人の登場人物が、同じ出来事を三者三様のとらえ方をしている様子を描き出していた。


 マッハは、人間の感覚でとらえられたもの、よく体験する事実だけを真の事実とした。それ以外はどんな理論でも前提にすることはしなかった。そして、私が前述したとおり、科学なるものを、それらの諧事実を簡潔あるいは思考節約して理解するための道具として定義づけた。そうして科学の役割を明確に定義づけ、かつ限定した。ある科学理論が正しいか正しくないかよりも、その科学理論が有用であるか有用でないかのほうが世の中にとっては重要だということだ。マッハは、「実用主義(pragmatism」とアメリカの学者世界で呼ばれるようになった学問の祖である。


 このアメリカの学問世界では主流派である実用主義の考え方は、「科学とは真理を求めるためのものである」という普通の人びとがもつ考え方とは、大きなズレがある。例えば竹内薫という物理学者がいる。彼が書いた本に『99・9%は仮説 ― 思いこみで判断しないための考え方』(光文社新書、2006年)という本がある。この本に書かれているとおり、真理といわれているものは疑われるべきである。しかし、この題名には、逆に言えば「仮説として出されたものでも、反論とその再反論を繰り返すうちにいつかはO・I%の真理に辿り着く」という意味が含まれている。実はこれはカール・ポパーの反証主義そのものである。

 

 ところがマッハはこの考え方さえ取らない。「科学はもともと真理とは関係ない」とマッハは強く断言している。イギリスの代表的な英語辞書であるOxford Advanced Learner’s(OALD)にも、「科学」とは次のようなものであると、はっきりと定義されている。


 (日本語訳)科学とは、人間が実験などで証明できる事実に基づいていること。それによって証明された自然界と物理的世界の構造と振る舞いについての知識。

明確に、科学は自然界と物理的世界の構造と振る舞いについての知識にすぎないと述べてある。そして、法則(law)とは、この「自然界と物理的世界の構造と振る舞いについての知識」をもっとも経済的かつ簡潔に記述したものに過ぎない。これがマッハの主張である。


 この考え方は、今考えても、非常に過激である。マッハは「見えない原子というものが存在するか、人間にはわからない」として、原子論を唱えたボルツマンと対立し、激しい論争を繰り広げた。このことは既述した。そのために、ボルツマンはうつ病に苦しみ、白殺した。当時、すでに、原子や分子なるものが存在するだろうという間接的な証拠がたくさんあった。現在の我々から見れば、原子の存在を認めてもいいと思う。それに対し、マッハは「感覚する(見る、触る)ことができなければ、それは存在するかどうかはわからない」として原子の存在を認めなかった。恐るべき頑固さである。

 

 マッハが生きていたら、「ビッグバンが本当にあったというのなら、実際に起こして私に見せてくれないか? できないのか、じゃあ、あったことがどうしてわかるんだ?」と本当に言ったと思う。これがマッハという希代の大天才学者が築き上げた科学哲学である。マッハは「実際に人間の五感で確かめられないものは、存在しない」といった。だから、マッハの目からすれば、ビッグバン理論やそこから派生した宇宙生成時のインフレーション理論も空想や戯言に過ぎない。

 

 現代物理学の最高峰とされる素粒子物理も同じだ。もし、マッハが生きていたら、「クオークという素粒子が存在するというのなら、ここでそれを見せてくれないか」と必ず言ったはずだ。クオークは、陽子、中性子などの素粒子を構成している究極の物質だとされている。しかし、クオークという素粒子は、検出することができない。クオークは実は架空の粒子で、今でも観測されていない。「存在する」と仮定すると、存在する素粒子(陽子、中性子、中間子)の性質が実にうまく説明できる。だから、その存在が世界の物理学会で認められている。矛盾する実験結果もない。ところが、不思議なことにクオークそのものは、どんな実験装置を使っても今なお検出できていない。観測できないのはクオークが「色」の性質をもっており、合わせて「白色」にならないと観測できないという理論までできている。

 

 理論的にはあるが観測できない。つまり、人間の五感では確かめられないということだ。そのような粒子は、マッハに言わせれば「存在しない」のである。しかし、現代物理学では、直接に検出不可能なものであっても、数学的にその存在が証明されていれば、存在していると認められている。2008年にノーベル物理学質を、南部陽一郎、小林誠、益川敏英の日本人3人が受賞した。小林・益川の理論は、新しいクオークを予言したことで有名だ。「CP対称性の破れ」という実験結果から、クオークは3つではなく、さらにもう3つなければ実験結果とあわないと数学的に証明した論文が認められ、ノーベル物理学賞を受賞した。この6つのクオークはあくまで数式の中でのみ存在する。実在することを、直接、確かめるのに成功した実験はない。


 現代に生きている我々からすると、マッハの哲学は、「それじゃ、先生。それが本当に有ると言うのなら、ここで見せてくれませんか」と、酔っ払いがくだを巻いて言いそうなことで、彼の属する学派の考えを大きく理解しないと、マッハがいったい何を根拠にしているのかが理解できない。そこでマッハの属する学派である中世のノミナリスト(唯名論者、個物派)について説明する。


 ヨーロッパでは、14世紀に普遍論争(universalienstreit)と呼ばれる神学論争が行われた。ノミナリストと、これに対抗するイデアリスト(観念論者)の間で繰り広げられた論争である。ノミナリストは「実在するのは個物だけである。すなわち、ものは、ただ個々のものとしてあるだけだ」と主張した。それに対し、イデアリストは、「個物に先立って、普遍なるものが実在する。この世界には普遍的なもの、すなわちイデアなるもの(観念や理論)が存在する」と、強く主張した。だから普遍戦争とは、「普遍は、個物に先立って実在する(実念論)」のか、あるいは「個物の後に人間がつくった名辞(唯名論)に過ぎない」のかという中世スコラ学中の最大の論争である(英語で言えば、定冠詞〈the〉と不定冠詞〈a,an〉の違いに相当する)。

 

 つまりマッハが属するノミナリストの系譜の思想(ノミナリズムという)は、「ひとりひとりの信者(個々の人)」を優先する。それに対して、イデアリストの系譜には「いつ、どこでも変わることなく有る(普遍としての)教会」がある。カトリックという言葉そのものが「カトルー(普遍)」という形容詞に由来するからだ。彼らイデアリストは普遍主義であり、体制派である。教会およびローマ法王擁護の立場であった。これを否定する思想がノミナリストということばに含まれていた。だからこの論争のあった14世紀では、ノミナリストの思想はイデアリストの体制派(トーマス・アクィーナスなど)と対立する過激かつ危険な思想だった。


 ノミナリストの思想は、このように、人間ひとりひとりとしての個体を認める思想だ。だから、当然、個人を尊重する啓蒙思想(enlightenment)や、近代思想(modern thought)につながっていく。そして、マッハの哲学は、このノミナリストの思想を、20世紀の現代科学において極限まで追究したものだ。

 

有名なドイツの大哲学者、マルティン・ハイデガーもノミナリストに分類される。ハイデガーはマッハと同じことを別のことばで書いている。『存在と時間』の一節から引用する。


ニュートンの法則も、矛盾律も、一般にいかなる真理も、現存在(引用者注:人間のこと)だけが存在している間だけ真であるのである。現存在がまったく存在していなかった以前には、そして現存在が、もはやまったく存在しない以後には、いかなる真理も存在していなかったし、いかなる総理も存在していないであろう。

ここで「現存在」とは、死んでしまう我々人間のことだ。人間は死んでしまうので存在が「現(いま)」に限定されている。そこで無限(永遠)の存在(神)に対して、現存在という呼び方をしている。


 「我々人間(人類)がこの地上からいなくなったとしても、ニュートンの法則などの物理法則はそのまま存在する」と考えるのが普通だ。一般的な日本人が持っている考え方だ。しかし、ハイデガーは、それをきっぱり否定した。「我々人間が死に絶えて滅びれば、そもそも、ニュートンの法則などは存在しないのだ」と彼は主張した。だから、ハイデガーの主張はエルンスト・マッハの言論とそっくり同じであり、同じ学派なのである。

 

 ノミナリストは、「自分が死んだら、世界そのものが終わる」と考えている。つまり、人間の感覚と思考そのものが、極限まで高く評価されている。言い換えれば「人間が死ぬとはその感覚と思考が停止すること」であり、死ぬと「世界が終わる」のである。さらに、人間の感覚と思考に反する絶対的なもの、つまり絶対神とか、この世を支配する自然法則を、人間が勝手に頭で考えた妄想(それはただの「名前」である)として、認めない。ノミナリストの思想は、ヨーロッパ全体を支配するローマ教会という体制派の神学との激しい戦いの中から生まれてきたので少々のことでは揺らがない。


 このようにエルンスト・マッハは観測可能なものだけが実際に存在する、すなわち実存していると考える。これが西洋哲学の基本にある考えである。かつ同時に最高級の考え方でもある。今でもこれ以上のものはない


 だから、エルンスト・マッハの科学哲学にしたがえば、現代物理学および現代科学には大きな欠点があることになる。では、具体的には、どこに問題があるのか? 本当に現代物理学が間違っている可能性があるのか? もし間違っている可能性があるとしたら何なのか? このことを、「ビッグバン理論」を対象にして考えてみよう。

              

 あまり知られていないが、ピックバンを否定する実験事実は、実は昔からたくさんある。特に天体観測の実験結果と矛盾するそうだ。最近でも、日本が誇る天体望遠鏡「すばる」によって、宇宙の果て130億光年ぐらい先のところに古い銀河があるという事実が得られた。このことはビッグバン理論と矛盾する実験結果だ。「ビッグバン(宇宙の始めの大爆発)が起こってから銀河ができた」とされているのに、古い銀河が宇宙の果てのほうにあると、ビッグバン以前にすでに銀河があったことになってしまう。次に引用する文は、佐藤文隆という京都大学名誉教授でビッグバン理論を長い間研究してきた宇宙物理学者に対して行われたインタビュー形式の文章である。あらかじめ断っておくと、引用する文の前では、ビッグバン理論がいかに正しいかを佐藤教授は述べていた。ところが佐藤教授自身が論調を急に変えた。佐藤文隆教授が、口を滑らして本音が出たと私は思う。


 ビッグバン批判の記事に書かれていることは、大半がもっともである。逆にいうと、批判としては何も目新しいことを言っていない。だがこのような批判があるにもかかわらず、私たち多くの専門家はなぜ「ビッグバン宇宙はもう駄目だ」と思わないのか。宇宙論に興味のある人は、まずこの事実にこそ注目すべきである。それが宇宙論の理解を一番早める。

佐藤教授が考える理由は、ここで話題になっている宇宙論の研究が物理学の一環をなしているという事実である。つまり、宇宙論での“もっともらしさ”の判定基準は、物理学全体の体系との整合性にあるといえる。宇宙論という言葉は本来は、人類が自分たちの住む世界を描写しようとする試みを意味する。これに対して、私がここで問題にしている宇宙論は「物理学の宇宙論」である。天体宇宙を餌食にして物理学の宇宙論を謳歌しているのである。


 実験物理のようにゴチャゴチャしていない何かスッキリした教えが宇宙論にはあるかもしれないと読者が期待しているなら、この分野はそれとは無縁である。宇宙論では物理学の応用が行われているのであり、また物理学の基礎はこのような応用で、より広範な普遍性が確かめられたのである。(佐藤文隆京都大学教授「ビッグバンのみが科学理論だ!」学研『大科学論争』所収、1998年)

 佐藤教授の発言の中で最も重要なのは「宇宙論での宇宙論での“もっともらしさ”の判定基準は、物理学の体系との整合性にある」という部分だ。実はビッグバン直後の理論と高子不ルギーの素粒子の理論の2つはうまくあう。つまり物理学全体の体系がうまく整合しているのである。これをわかりやすく説明すると、「ビッグバン理論と天体観測の結果は、いくら矛盾を起こしてもいい。ビッグバン理論を否定する天体観測結果がたくさんでても構わない。それだけではビッグバン理論は間違いであるとはならない。既存の物理学の諸法則と宇宙物理学の理論とが矛盾を起こしたときにだけ、そのときだけ、ビッグバン理論は否定される」。

 

 それでは、もしビッグバン理論が間違っているとしたら、既存のどの物理法則が否定されるのだろうか? 考えられる例をひとつだけ挙げておく。シカゴ大学にウィリアム・マクミランという物理学者がいる。彼は「光が長い距離を走る際には、その光は徐々に自分のエネルギーを失って、波長を変えるのではないか」と述べた。たったこれだけの理由付けでも、赤方偏移という現象が説明できてしまう。だんだん波長を変えるので、遠くから来る光はその波長を大きく赤いほうにずらす。つまり、光の波長がずれるのは、光そのものの性質でドップラー効果ではない、ということだ。しかし、このことは現代物理学では簡単に否定できる。なぜなら「エネルギーを失って」と述べているように、これは「エネルギー保存の法則」と矛盾するからだ。つまり、真空中を走る光は、常に一定の波長にしかならない。だから、このような「エネルギー保存の法則」に反することがないかぎり、この理論は成立しない。

 

 このように現代物理学は、既存の物理の定理、法則、原理の上に成り立つ。まさに、佐藤文隆氏が言うように、“もっともらしさ”の判定基準は、物理学の体系との整合性にある」の通りだ。


数学的にだけ証明されている現代物理


 「自然という偉大な書物は、数学という言語で書かれている」という有名な言葉がある。これは、ガリレオ・ガリレイの『贋金鑑識官』という書の中の言葉だ。現代物理学は「自然は数学という文字で書かれている」から、さらに進んで、「現代物理学は、数学的に証明されている」に、そしてついには「現代物理学は、実は数学である」となってしまったように私には見える。数学という学問には必ず「公理(axiom)」がある。公理とは、論証がなくても自明の真理として数学者たちに承認され、他の命題の前提となる根本命題であり、前提条件とされるものだ。数学は、この公理をもとにして、いろいろな定理を証明していく。前提となる公理が変わると、まったく違う数学体系となってしまう。公理として、一番有名なのは、「ユークリッド幾何学」と「非ユークリッド幾何学」だ。「2つの点を結ぶ直線はただ1つ引くことができる」あるいは「平行な直線は交わることはない」を公理としてできたものが「ユークリッド幾何学」で、逆に「2つの点を結ぶ直線は無数に存在する」「平行な2つの直線であっても交わる」を公理としてできたものが「非ユークリッド幾何学」だ。このようにしてある公理が否定されると、まったく別の新しい数学体系ができあがる。

 

 このことが、現代物理学にもまったく同じようにあてはまる。物理学にはさまざまな法則、原理、理論がある。これらは、まさに、数学の「公理」に相当する。例えば、この章の最初に取り上げた「相対性理論」は、完全に「光速度一定の法則」という「公理」によって、ビッグバン理論は「エネルギー保存の法則」を前提にして成立している。逆から言うと、前提となる既存の物理法則や原理がひっくり返ると、ビッグバン理論も素粒子理論も揺らいでしまう可能性がある。それが現代物理学だ。2012年に光速度以上で走るニュートリノがあると話題になった。ニュートリノは素粒子のIつで、1987年に物理学者の小柴昌悛氏(2002年ノーベル物理学言受賞)が観測に成功し、有名になった。ニュートリノが光速度を越えるとして世界中で話題になったわけだ。しかし、光速を越える物質の存在は「測定の間違い」で決着がついた。

 

 このような実験結果で出ると、体系がその土台から崩れてしまう可能性が本当にあった。結局間違いだったということだが、ここで私が説明したように、基本定理(数学上は公理)に間違いがあると、すべての理論がちゃぶ台をひっくり返したように怪しくなる。だから物理学者の多くが疑心暗鬼におちいりながらも、この実験の結果の正否を固唾をのんで見守っていたのである。


(引用終了)


◎[Amazon]物理学者が解き明かす重大事件の真相


第1章 理科系の目からみた福島第一原発事故(1)ー 福島第一原発事故の放射性物質放出量の過大評価とそのねらい


第2章 理科系の目からみた福島第一原発事故(2)ー マスコミが伝えない原発事故の真実


第3章 福知山線脱線(尼崎JR脱線)事故は車両の軽量化が原因である ー 理系の目から事件の真相を解明する


第4章 STAP細胞と小保方晴子氏について ー 緑色に光る小さな細胞は本当に存在する


第5章 和歌山毒カレー事件の犯人を林眞須美被告と特定した証拠は本物か?ー 理科系の「科学的に証明された」ということばが、いつも正しいとは限らない


第6章 排出権取引に利用された地球温暖化問題 ー 科学では地球の未来はわからない


第7章 現代物理学は本当に正しいのか?ー 正さの判定基準は、物理学の体系との整合性にある


第8章 仁科芳雄こそが「日本物理学の父」である ー 政治的に葬られた日本の物理学の英雄をここに復活させる


下條竜夫(げじょう・たつお)/兵庫県立大学理学部准教授。理学博士。専門は原子分子物理、物理化学。1964年、東京生まれ。1987年、早稲田大学理工学部応用物理学科卒業。チューリッヒ大学物理化学研究所、分子科学研究所を経て、現在兵庫県立大准教授。『放射能のタブー』(「福島第一原発から大気に放出された放射性物質のベクレル量はチェルノブイリの1000分の1」)、『フリーメイソン=ユニテリアン教会が明治日本を動かした』(「ジャーディン=マセソン商会が育てた日本工学の父・山尾庸三」)


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by yomodalite | 2016-04-27 17:04 | 科学・環境問題 | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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