HIStoryと黙示録:『地獄の黙示録』⑤

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④の続き・・・


前回、ルーカス監督が、ジョーゼフ・キャンベルの神話学から『スター・ウォーズ』を生み出したことを書きましたが、コッポラの映画には、神話学において、キャンベルの先達であるジェームズ・フレイザーの『金枝篇』と、ウェストンの『祭祀からロマンスへ』が効果的に使われています。


エンディングを間近にして、この2冊が登場した意味を解説するために、騎士物語について、もう少し説明しますね。



◎アーサー王物語と、聖杯伝説


アーサー王は、ブリテン王である父が、魔法使いマーリンの助けで貴婦人と同衾して誕生したと言われ、若くしてブリテン王となったアーサーは宝剣エクスカリバーの力で諸国を統一すると、貴族の娘グィネビアと結婚し、これを甥のモドレッドにゆだねてローマ遠征の途につくが、留守中、モドレッドが反逆し、王位と妃を奪われてしまう。アーサーは遠征を中断して帰国し、モドレッドを討つが、自らも致命傷を受け、不思議な島アバロンに去った。


アーサー王の城(キャメロット)には、大勢の円卓騎士たちがいて、彼らによる建国物語や、武功と愛の物語、また、キリストが最後の晩餐に用い、十字架上のキリストが流した血を受けたとされる聖杯(Holy Grail)の行方を探求するのが騎士の使命であるという「聖杯探し」の要素も織り込まれ、これらすべて総称して「アーサー王伝説」と呼ばれている。


アーサー王物語はさまざまに発展し、円卓騎士たちの物語である、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の悲恋物語や、『ランスロット』などの騎士ロマンスだけでなく、キリスト教神秘思想を導入したクレチアン=ド=トロワの『ペルスバルまたは聖杯物語』や、ドイツの詩人ウォルフラム・フォン・エッシェンバハの『パルツィヴァール』などのように、騎士たちが、血を流す槍と、聖杯を発見すること。このふたつによってその国が栄えるという聖杯信仰をも生み出しました。



◎病める王と荒地(Wast Land)


騎士ペルスバル(パルツィヴァール)は、漁夫王(漁師の親方ではなく、王様の名前w)の城で、血の滴る槍と、光る聖杯について見聞きしたものの、心に抱いた質問を口に出すことはなかった。これが失敗の原因だったと後で知ったペルスバルは、聖杯探索の旅に出る。《漁夫王》(Fisher King)は、癒えない負傷を得たことから、不具の王、病める王とも呼ばれ、王が病むことで、王国も病み、肥沃な国土は《荒地》(Wast Land)へと変わってしまう。勇者である騎士たちは、王の病を癒すために《聖杯》を探しに行き、それを持ち帰ることで、王と王国を癒そうとします。


騎士物語にあるふたつの重要な要素は《戦い》と《探究》なのですが、騎士は、聖杯を探すだけでなく、《ある問いを正しく問う》ことも重要なんですね。


しかし、キリスト教国の現実においては、美しく彩られた騎士物語は、各地で残虐な殺し合いをする兵士や、海外の品々を奪い取って持ち帰る商人たちに、肉体も精神も知識も優れたもっとも素晴らしい民族という意識を与えることになり、自分たちが、その精神によって世界を支配する、ことに疑いをもつことなく、異文化の人々への野蛮な行為を助長する手助けにもなっていました。


そういったヨーロッパの裏面に触れ、通俗小説として描いた最初期のものが、『地獄の黙示録』の原作である『闇の奥』(Heart Of Darkness, 1902出版)であり、20世紀最大の詩人と言われるT.S.エリオットの長編詩『荒地』(Wast Land, 1922年出版)は、第一次大戦後、ヨーロッパそのものを《荒地》と表現し、その少しあとに書かれ、映画の中でカーツが朗読していた『空ろな人間』という詩は、『闇の奥』の登場人物、Mr. クルツが、死んだ。から始まるものでした。




◎『金枝篇』と『祭祀からロマンスへ』


そして、コンラッドの『闇の奥』と、T.S.エリオットの『荒地』に大きな影響を与えた研究書が、カーツの部屋にあった2冊の本、ジェームズ・フレイザーの『金枝篇』(初版1890年)と、ウェストンの『祭祀からロマンスへ』(1920年出版)です。



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『金枝篇』について、ターナーの描いた美しい絵だとか、金枝とはヤドリギのことで・・ネミの森がどうしたこうした・・なんていう説明をすればするほど、『地獄の黙示録』との関係がわからなくなるので、結論部分のみ、超あっさり風味で説明すると、


イエスが十字架に架けられた後、復活したという奇跡の物語は、世界各国の未開部族における生贄の儀式(祭祀)や神話と同じであり、人々は、常に、神(王)を殺すことで、その地を再生してきた。


ということ。これは、もっとも優れた民族で、未開部族を自分たちが啓蒙することで目覚めさせようという意識でいた、当時のキリスト教文化圏の人々にはショッキングな結論だったのですが、フレイザーの研究に多大な影響を受け、その祭祀についての見解は、聖杯ロマンスも同じであると結論づけたのが、ウェストンの『祭祀からロマンスへ』で、ウェストンの結論をこれまた超訳すると、


王が病むことで、王国も病み、荒地(Wast Land)へと変わってしまう。それを癒すために、「聖杯」を探して、王と王国を建て直そうとするヨーロッパの基本となった騎士たちの物語は、病んだ王を殺すことで、国が病むことを防ぐ。新しく王となる者は、その聖なる力を受け継ぐために、王が自然死を遂げる前に殺さなくてはならない。そして、王を殺した者が、次の王となる。という、未開の村のシステムの中で、王を殺す勇気をもった若者と、それを望んだ人々の気持ちを癒すための儀式が基になっていた。


ということです。


こういったことは欧米の本を読む習慣のある知識レベルの人々にとっては、知っていて当然のことなんですが、これらは、カーツが単純に騎士道精神を信じていたわけでなく、彼がどれぐらい自己探求をしていたか、を示すための「小道具」であり、また、エンディングのウィラードの行動を予告するものにもなっています。



◎カーツとウィラードの狂気と嘘と欺瞞


カーツは、他者のために自分を捧げるという英雄に憧れていた。彼が38歳で空挺部隊を希望した理由には、キルゴアのシーンで見られたように、奇襲作戦しかない現代の騎兵隊に、自分なら戦闘の合理性や美しさをも指導できるという思いからだったのでしょう。しかし、彼の作戦は、上層部に独断的行為とのみ受けとめられ、戦争の中での「殺人罪」という理不尽な罪を負わされる。それは、現実社会が認める以上の、つまり、神話的な英雄レベルの苦悩で、地獄を知らぬ者に、何が必要かを、言葉で説いて分からせることは不可能だ」という彼の言葉には、それがよく表れています。ただ・・・


カーツは、ウィラードに「君のような人間が来ると思っていた」といったとき、


1)司令部の偽善的倫理を超えて正しいことをした自分を理解してくれる人間が現れて、自分の真実を息子に伝えてほしい。


2)村で、今や「病める王」となった自分を殺し、その若者に新たな王になって欲しい。


という、2つの希望をもっていた。


一方、ウィラードは、司令部の人間に、


この戦争ではいろいろな混乱が生じている。権力と理想、古い道徳観と現実の作戦行動、彼は現地人の間に入り、自ら神となる大きな誘惑に負けた。人間の心には戦いがある。合理と不合理、善と悪、善が勝つとは限らぬ。誰にも理性の限界がある。君にも、私にも。カーツは限界に達し、完全にイカレてしまった。彼の行動は良識による抑制を失い、人間の行ないとしていささかの容赦の余地もない。カーツの情報を集めながら、その行方を追い、発見次第、いかなる手段を使おうとも、「抹殺するのだ。私情を捨てて」


と言われ、戦場の英雄を「殺人罪」で処刑しようとする司令部に疑問をもったものの、命令を拒否することなく、カーツを追って旅にでる。しかし、カーツの経歴を辿っているうちに、彼が自分の損得からではなく、軍に復帰していることや、司令部が不健全だといったカーツの作戦が、的を得たものであったことがわかり、腐っているのは、司令部やさらに上の人々だと感じ、カーツへの共感が増す。


しかし、様々な困難を乗り越えて、カーツの王国に到着すると、


「君は考えるか? “真の自由”とは何か 他人の意見にとらわれぬ自由、自分からも解きはなれた自由とは何かを?」


と質問されても、ウィラードは命令だとしか答えられず、また、これまでカーツのことを考えてきたにも関わらず、なにも質問することができない。


カーツは、自分がたどり着いた地点を理解してくれる人間に、あとを継いで欲しいと思っている。でも、カーツが自分を殺す者を待っていたのは、本当に自分の王国の行く末を心配しているからだと言えるでしょうか? 


「息子よ、頼りが途絶えて、母さんも心配しているだろう。面倒なことになった。私は殺人罪に問われている。4名の二重スパイを処刑したからだ。我々は数ヶ月かけて証拠を固め、その証拠をもとに軍人として行動した。告発は不当だ。この戦いのさなかに、どう考えても正気の沙汰とは思えない。戦争には憐れみの必要な時がある。また冷酷で非常な行動が必要な時もある。だが多くの場合に重要なのは、なすべきことを冷静に見きわめて、沈着にためらわず、すみやかに、行動することだ。お前の判断で母さんに伝えてくれ。私は告発の件など気にしていない。私は彼らの偽善的倫理を超えたところにいる。ーー 私が信頼する息子へ。愛する父より」


カーツが息子に書いた手紙で、息子に「なすべきこと」だと言っているのは、軍人としての正しい行動を指していて、彼が軍服や、名誉勲章を大事にとってあったのも、自分のこれまでの戦いをまちがっていたとは思っていないことを示している。おそらく、非常に知的で、人格にも申し分のない軍人だったカーツに欠けていたのは《政治力》で、それは、戦争の意味や勝敗を常にわかりにくくする・・・


ナポレオンのしたことは、当時のフランスの栄光のためだった。しかし、ナポレオンが、ヨーロッパ全体にもたらした荒廃はひどいものであり、それは、ヒトラーにも同じことがいえる。カーツの判断が、軍人としての範疇にとどまるなら、それは、時と場所を越えれば、必ず矛盾をはらんだものになり、彼自身、ベトナムや、カンボジアの人々の方に理想の軍人を見るようになっていく。


そして、教義とか、政治信条だけでなく、選んだ職業倫理や、幼い頃から「こうしなくては・・」と思っていることが絡みあい、「絶対こうしなくてはならない」という結論を見出してしまうんですね。人というのは・・・


カーツは、自分を理解してくれる者を求めているが、その苦悩に魅せられ、自分に従おうとする者ばかりが増えていく。しかし、カーツは彼らを指導することに、もう未来を感じることができない。なぜなら、彼にはもう戦う目的がなくなっているから。彼が軍の理想を書きつらねた文章にあった「爆弾を投下してすべてを殲滅せよ」の文字には、その気持ちが表れている。カーツはこのジレンマを解消するために、《王殺し》を行う若者を待っていた。そして、自分を追ってきたウィラードに最後の期待をかけるものの、彼の答えは、カーツを満足させるものではなく、“ただの使い走りの小僧” だと失望する。


でも、ウィラードも実際のカーツを見て失望していた。彼は、なにかはわからないものの、カーツに期待していた。しかし、カーツがウィラードに言った言葉・・


「私を殺す権利はあるが、私を裁く権利はない。言葉では言えない。地獄を知らぬ者に、何が必要かを、言葉で説いて分からせることは不可能だ。・・・恐怖とそれに怯える心、両者を友とせねば一転して恐るべき敵となる。真に恐るべき敵だ・・・持つべき兵は、道義に聡く、だが同時に何の感情も感情も興奮もなく、原始的な殺人本能で人を殺せる男たちだ。理性的な判断を持たずに、理性的な判断が敗北を招く」


それは、司令部が自分に言ったことと同じ。ただ言い方を変えただけだった。


ウィラードはカーツの王国にたどり着き、その混乱した世界に言葉を失う。これまでの戦場と同じように死体があふれていただけでなく、もっと理解のできない不気味な世界は、ウィラードをこれまで以上の不安に陥れた。それで彼は、当初は疑問に思った司令部の命令を遂行することで、この旅を終わらせようとする。彼は、自分自身を探究して結論を出したのではなく、誰もが、そしてカーツ自身も望んでいるのだから・・と納得する。


つまり、ウィラードは、疑問を感じた、司令部にも、カーツにも《ある問いを正しく問う》ことをせずに、王殺しを行ってしまったのだ。カーツ殺しは、ウィラードの原始的本能を目覚めさせ、殺人は古代の儀式のように行われる。でも、彼は、その儀式に込められた《破壊と再生》を信じていないし、それは、神話に似せただけの行動で、そこには「光」がない。



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カーツの最後の言葉は、「horror horror(地獄だ、地獄の恐怖だ)」


殺されることを待っていたカーツには、死への恐怖はなかったはず。いざ、死が目の前に迫ってみると急に怖くなった、というのとも違うでしょう。「horror horror」は、カーツ自身が「恐ろしい」と感じたのではなく、人が生きることや、行動原理は、恐怖に基づいていて、人生はホラーに等しい、という意味ではないでしょうか。


そして、結局ウィラードが、カーツ殺しを決めたのも「恐怖」からだった。ふたりは、自ら戦場に魅せられて行ったはずなのに・・



◎「解読『地獄の黙示録』」との解釈の違い


4年ほど前に、立花氏の本を読んだとき、わたしはまだ、聖書も、『闇の奥』も『金枝篇』も『祭祀からロマンスへ』も、エリオットのことも、『地獄の黙示録』との関連がわかるほど理解していなかったのですが、数年かけて、これらの本を読み、ようやく少しはわかるようになったと思い、それで、この⑧を書く前に、あらためて、立花氏の本を読んでみたところ、氏が言っていることは、たしかに「知ったかぶり」ではないことがわかり(何様ww)、何度も「誤訳」を強調する割には、全然正解訳を書かないとか、その他いろいろ卑怯wだと感じる点は以前と変わらずあったものの、意外にも自分が理解したことと一致している点も多くて、驚いたり、がっかりしたりしたんですがw、エンディング部分の解釈で、どうしても納得できないという箇所が・・(嬉w)


・・・チャールズ・マンソンの大量殺人とカーツ王国のどちらも、weird という言葉で、シェフは表現するが、カーツが原始的本能を使って、シェフの首を斬り、その生首をウィラードのひざの上に投げ出す場面の、あのカーツの顔と、決意の場のウィラードの顔がいかに質的にちがうか、説明の必要はあるまい、ウィラードは、最後まで人間としての正気を保ってカーツを殺したのである。(p114)
カーツ殺しを果たして、寺院の前に出てきたウィラードは、民衆から、新しい王として迎えられる。カーツの子供たちは、いまやウィラードの子供たちになったのだ。・・彼は何を迷ったのか。彼もまた、自分が神になれる可能性を前にして、その誘惑に動かされたのだ。しかし、騎士に与えられた最後の試練もまたウィラードは切り抜ける。彼は無言で武器を投げ出し、即位したばかりの王位から退く。・・つまりコッポラは『荒地』を下敷きとしながら、これもまた根本的なところで換骨奪胎してしまったわけだ。彼にとっては「荒地」はカーツの世界なのである。(115 -116)


ウィラードが人間として正気? 騎士として正しい行動をとった?


人間の顔はいかなるものより多くのことを表現するという。あのウィラードの顔にこめられたものが、コッポラの観客への最大のメッセージなのである。そして、それが「荒地」への雨をもたらしたというのが、彼の寓話である。(p118)


私も、この映画は『闇の奥』よりも、構造的にエリオットの『荒地』に似ている部分が多いように感じますし、黒澤明をこよなく尊敬するコッポラが、雨のシーンに思い入れがあるのも間違いないと思います。そして、殺しに向かうウィラードが決意を固めた戦士の顔であったことも間違いないでしょう。でも、殺しを終えて、船に戻ってきたウィラードの顔に、光があったでしょうか? 上記に書いたように、私は、ウィラードは、「ある問いをきちんと問わなかった」ことで、騎士として失敗していると思います。エンディングで、オープニングと同じドアーズの「THE END」が流れ、ウィラードは翌朝、オープニングとまったく同じように目覚め、これからも覚めない悪夢を繰り返す姿が見えないでしょうか。そこには、終わりのない地獄しかない。


彼は命令を果たし終わったことで、また《空ろな人間》になってしまった。そして、雄々しく刀を振るった彼に、司令部からの通信が響く「こちらオールマイティ、哨戒艇ストリート・ギャング、応答せよ」



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カーツを神となる誘惑に負けた狂人だという司令部は、自らを「全能(オールマイティ)」だと言ってはばからず、地獄の底まで旅をしたウィラードは「チンピラ(ストリート・ギャング)のまま。もう一度繰り返される、カーツの最後の言葉「horror horror」は、ここでは、ウィラードの言葉のように聞こえる・・「彼の物語は、俺の物語、彼の物語が懺悔録なら、俺のも同じだ」。冒頭の、事を成し遂げたあとの独白でも、ウィラードはそう言っていた。



立花氏は、この雨の意味をさらにこう解釈している。


ラストシーンで、カーツを殺したウィラードは、群衆の中にわけいり、原住民の中にいたランスの手をつかんで、引き出し、いっしょにパトロールボートに乗る。そのとき雨が降ってくる。ランスは雨に顔をぬらして喜ぶ。・・このシーンは病める漁夫王が癒されて、「荒地に雨が降り、世界が救済される」という神話のシンボリックな表現である。ここで、「L.B.ジョンソン」の名前が意味を持ってくる。L.B.ジョンソンこそ病める王だったのである。L.B.ジョンソンが戦争の狂気から抜け出したときに、世界は救済され、雨が降ったのである。

病める漁夫王が癒され、荒地に雨が降り、世界が救済される。というのが、神話のシンボリックな表現なのはわかるつもりですが、このシーンがそうだと言うなら、何が救済されたと、立花氏は言っているのか?

このあと、1965年にベトナム戦争が本格化し・・・1968年にジョンソン大統領が北爆を停止し、北ベトナムに和平交渉を開始することを提案するとともに、次期大統領に出馬しないことを言明した。実際にはそのあともベトナム戦争は続き、次期大統領のニクソンもベトナム和平を公約したにも関わらず、すぐには終結させず、その後4年にわたって、北爆再開、ラオス、カンボジア進行など悪あがきを続け、死傷者が30万人を超え、国内の反戦運動が百万人単位の人を集めるようになり、ソンミ虐殺事件の報道、ペンタゴン秘密文書のスッパ抜きなどで、戦争支持者は激減し、財務破綻の末、ついに73年、和平協定に調印した。


という上記の文章は「L.B.ジョンソンが戦争の狂気から抜け出したときに、雨が降ったのである」のすぐあとの文章なんですけど、、で、何が救済されたんですか??? カーツの王国が「荒地」だったら、カーツが病める王で、漁夫王でしょう? 



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(雨はランスの血で汚れた顔をぬぐっただけ・・・)



この雨は、コッポラが映画の結末に悩み抜き、最後まで、島の爆破計画も捨てきれない中、なんとかエンディングを撮り終えた自分に降らせた雨ではないでしょうか。そこには、牛殺しの儀式の血や(これは村人の実際の儀式)、現実の戦争の傷を、洗い流したい、コッポラの気持ちが込められていたのかも・・・



◎コッポラの主題は・・・


脚本家のジョン・ミリアスが、これを書いたとき、コッポラは自分が監督をやるとは思っていなかったのに、監督と、出資者になり、本当に最後の最後まで、エンディングを決められなかっただけでなく、さまざまな部分に、大勢の人の意見が取り入れられているようなのですが、エンディングに、大きな影響を与えた『金枝篇』と、『祭祀からロマンスへ』は、カーツを演じたマーロン・ブランドと同じように、あとから現場に来た、デニス・ホッパーのアイデアで、急遽盛り込まれたものなんですね。

私の解釈は、最初からこの2冊の本ありきなので、エンディングからオープニングを遡って解釈するなら、整合性がとれていると思いますが、実際の現場では、最後までどうなるかわからないことだらけで、計画的ではなかった部分がたくさんあったようです。コッポラのコメントは全体的に、これは奇跡的に完成した映画であって、名作となった箇所のほとんどが、自分のディレクションではない、と言っているようにも感じられるのですが、その中でも、監督自身の気持ちが伝わる部分をDVDの監督コメンタリーから抜粋すると、


撮影中、何度も『闇の奥』を読み返し、この映画が戦争映画ではないことに気づいた。主題は道徳観だ、と。我々は嘘をつき、それが潤滑油となり、さらにひどいことが起こる。真実を言えば、いくらかの行動が不可能になる。すべてが機械化され、テクノロジーは広がり、嘘は極端に異様で、破壊的なものを生み、そして同時に美が備わる。・・・戦って守るというのは、『ゴッドファーザー』と同じ主題だ。マイケル(コルレオーネ家の三男)がやったことは、彼の家族を保つためだが、そのために家族は抹消される。

殺人と破壊と森林除去のために、金と努力と近代的な資源をたくさん使い、同時に安易に道徳観念を論じられるのか。少し考えるだけでも頭痛がする。これが『地獄の黙示録』の主題で、これを反戦映画だと考えたことはない。



◎原作『闇の奥』との違い


『地獄の黙示録』の意味がよくわからない、という理由で、原作『闇の奥』を読んでみたという人は多いと思いますが、それで、『地獄の黙示録』がわかったという人は少ないと思います。『闇の奥』は、植民地コンゴが舞台。そこは戦場ではなく、象牙や黒人が堂々と売られている世界で、クルツ(映画ではカーツですが)も軍人ではなく商人で、また、クルツは、カーツのように殺されたわけではありません。文学作品を原作とした映画の場合、その魅力のほんの断片の映像化であったり、原作よりも単純化されたものになっていることがほとんどなのですが、この映画に関しては、『闇の奥」は原作というには、話が違いすぎ、映画はかなりの「翻案」がされています。


特に、映画のカーツを、原作のクルツから探ろうとするのはお勧めできませんし、原作の語り手であるマーロウと、映画のウィラードの人物造形もかなり異なっています。曖昧なところは、原作も曖昧で、映画では、俳優、スタッフ、大勢のすばらしい映画製作者たちが、それぞれ肉付けしたことで、『闇の奥』にはまったくない別のテーマが、『地獄の黙示録』にはあると思います。



◎まとめ・・・


歴史は勝者が作る、と言いますが、歴史の最初から一貫して勝利している者などひとりもいませんし、王者は常に移り変わっています。だから、歴史は「王たちの物語」とは言えるのかもしれません。一握りの王たちが勝ったり、負けたりしていることが記述されている。では、王ではない、私たちは、その歴史にただ翻弄されてきただけなんでしょうか? 


この映画のフォトジャーナリストのように、状況を解説し、判断し、先導する人間がいて、私たちは、ヒトラーを熱狂的に支持し、ドイツが負けると、彼を葬ったように、日本でもなんども同じことが起きています。私たちは、王に力が無くなったと感じると、それを殺す側に参加する。


コッポラがベトナム戦争を描いた映画で、ウィラードを主役にしながら、彼だけでなく、どんな英雄も登場させなかったことで、この映画は、戦争の原因や責任を問う映画ではなく、「わたしたち」の映画になったのだと思います。カーツも、ウィラードも、嘘と欺瞞を憎んでいた。それなのに、


我々はみんな嘘をつき、それが潤滑油となり、さらにひどいことが起こる・・・



さて・・


マイケルの最初のショートフィルムと言える『ビリー・ジーン』も、最後の『ユー・ロック・マイ・ワールド』にも、マーロン・ブランドが強く影響していました。


「ホラー、ホラー」で終わった《王殺し》の映画は、《スリラー》で《王》になり、《スリテンド》でアルバム創りを終えたマイケルと、どう繋がっているのか、いないのか?


次回から、ようやく「ティーザー」の解読します!

HIStoryと黙示録:マイケルと神話 ①







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Commented by 矢野 at 2016-02-11 15:11 x
スターウォーズと地獄の黙示録が、父殺し、王殺しの神話構造を共有した双子のような関係にありつつ、スターウォーズのエピソード6がハッピーエンドの印象が強いのに対し、サルヴェージョンの話のはずの地獄の黙示録にちっともそんな印象がないのは何故か、アメリカが、ポストベトナムでアジアとどう向き合うかのベクトルが二つの映画で正反対だからと思います。スターウォーズが、インドや中国の意匠をシーンに面白そうに取り入れているのに対し、地獄の黙示録の特別篇のポスターは、朝日を背にヘリコプターで編隊を組む現代のcavalry、その真下に、ベトナムのジャングル。ヘリコプターの編隊の構図は、トラ・トラ・トラの日本海軍の航空隊空母発艦シーンのポスターのそれと瓜二つで、ベトナムのジャングルと言えば、ホーチミンの指揮するゲリラ戦術。アメリカが心底味わったhorrorは、アフリカでもヨーロッパでもなく、アジアにもたらされた。このhorrorは、スターウォーズには全く感じず、ブレードランナーに共有されている気がします。
Commented by yomodalite at 2016-02-11 20:01
矢野さん、コメントありがとうございます。

>サルヴェージョンの話のはずの地獄の黙示録にちっともそんな印象がないのは何故か、

うーーん、地獄の黙示録は「サルベーション」の話ではないですよね?「Apocalypse Now」ですからね。現実を映画の中で表現することは、よくあることで、アメリカ映画には、政治オンチの日本人には、ピンとこない政治的な意味が反映されていることが多いのは確かですが、ルーカスの映画はそうではないですね。

聖書を基本とする世界の現実は、領域内と領域外とではルールが違います。「敵を愛せ」「殺すな」というルールは領域内のもので、領域外(外国)では、男は剣で倒し、女は奪い取っていいと、旧約聖書には書いてあるんですよ。それは、民族の結束によって生き抜いてきたユダヤ人や、常に隣国が攻めてくる恐怖と戦ってきたヨーロッパの歴史には重要なものだったと思いますが、アメリカの難しい点は、最初から移民国家で、長い間同一の民族によって構成されていた文化社会にある、多くの不文律や、黙認されているルールを適用できない、という問題点があります。それで、アメリカは銃や暴力と、法律がとても重要視されるんですが、、ルーカスは、キャンベルの神話学から、ユダヤ・キリスト教も、東洋思想も根元は同じだということを学んで、民族も、肌の色も、出自もちがうアメリカという国をひとつにするために、新しい「神話」を創ろうとしたんですよ。それで、日本や中国のアジア風味を重要視しているんですね。

>アメリカが心底味わったhorrorは、アフリカでもヨーロッパでもなく、アジアにもたらされた。このhorrorは、スターウォーズには全く感じず、ブレードランナーに共有されている気がします。

おっしゃっていることは、よぉーーくわかりますが、

コッポラの映画は、ベトナム戦争の政治的原因とは距離をおき、道徳観をテーマにしています。それで、オリジナル版では、フレンチプランテーションの場面を省くという決断をしたんですね。④の最後に書きましたが、地獄の黙示録の特別編は、ブレードランナーの最終盤や、ディレクターズカット版とは違います。
とにかく、コッポラもこれは戦争映画ではない、と言っていますし、「自分の中のウィラード」「自分の中のカーツ」という視点で、一度ご覧になってみてください。
Commented by 矢野 at 2016-02-13 09:32 x
>領域外(外国)では、男は剣で倒し、女は奪い取っていいと、旧約聖書には書いてあるんですよ。
ヨシュア記のことでしょうか。エリコの壁が崩れ落ち、エリコの人々は虐殺されたという話。M.ウェーバーの「都市社会学」で、都市には城壁が必ず築かれた(日本だけが例外)とありますが、マンガ「進撃の巨人」は、日本人には馴染みのない、城壁に囲まれた都市国家で壁外の巨人という脅威と戦う人々を描いています。また佐藤優氏が「知の巨人」を襲名しつつあるなど、世間は宗教、殊に一神教のことをもっと知ろうという空気になってます。地獄の黙示録は十代の頃が初見ですが、当時から理解に苦しんだチーフの「ラザロのボートか」のセリフやランスの紫の煙幕を焚くシーンの意味を聖書を引用し、鮮やかに解釈されるyomodalite様には敬服する次第。
>法律がとても重要視されるんですが
一昨年に、ピケティの「21世紀の資本」を受け、スティグリッツコロンビア大学教授がNTで格差社会論の記事を担当していましたが、そこで教授が展開した政府の政策批判(氏の渾名はprophetだそうです)で、驚くべき法律論を述べていました、結局日本では、法律のことが何も理解されてない、科学とか民主主義でアメリカに遅れをとるのも宜なるかなという位。地獄の黙示録が、欧米のインテリ層が共有している教養のあるなしで、理解に雲泥の差が生じることは氏のブログでダメ押しされてると思いますが、宗教、法律が水と油の日本とアメリカは、政治家が軽々しく「民主主義の価値を共有」とかいえる関係ではないと再確認できました。
Commented by 矢野 at 2016-02-13 09:51 x
>コッポラの映画は、ベトナム戦争の政治的原因とは距離をおき、道徳観をテーマにしています。
日本で道徳観をテーマにした映画は浅学にて思い付きませんが、文学なら三島「英霊の聲」、大岡「野火」といったところか。そういう作品の創作意欲を掻き立てるのは戦争、それも負け戦ではないか。アメリカ人のコッポラは、我々はエリコの壁の中の不道徳を糺すのだ、というマインドコントロールを自ら解かねばなりませんでしたが、聖書他、手掛かりとなるテキストはありました。日本の道徳観は、尊皇攘夷、共産主義、日蓮宗、陽明学のミックスと勝手に思ってますが、日本が唯一経験した負け戦を舞台に、靖献遺言、資本論、立正安国論、西郷南洲遺訓をテキストにした映画を撮れる映像作家は現れるでしょうか。

貴ブログでは、地獄の黙示録は、MJのショートフィルムの解題のlemmaの扱い、勝手なコメを羅列し、失礼しました。
Commented by yomodalite at 2016-02-14 16:31
素敵なコメントを再びありがとうございます!

私は「進撃の巨人」未読なんですが、アニメ、マンガ、ゲームのストーリーを考えている人たちは、聖書も神話も「ネタの宝庫」としてよく勉強されているようですね。


>結局日本では、法律のことが・・・再確認できました。

同感です。戦後の日本の知識人は、西洋の「政教分離」の意味を勘違いしていたみたいですね。日本人にとって宗教としてのキリスト教に魅力がなくても、一流大学はリベラルアーツを必須にして、理系と文系なんておバカな分け方をするべきじゃなかったですね(私は落ちこぼれの美系でしたがw)


>また佐藤優氏が・・世間は宗教、殊に一神教のことをもっと知ろうという空気になってます。

それは、読者だけでなく、呑み込もうとしている側の事情もあって本格化しているんじゃないでしょうか。最近もスクープを連発し、昔からCIAの手先として知られるw「文春」のSPECIAL 「ニュースがわかる!世界三大宗教」も、これまでのこういったムック本とは比較にならないぐらいレベルが上がっていましたし・・


>文学なら三島「英霊の聲」、大岡「野火」・・

私はマイケルに現実に生きた「christ」を見ていますが、戦後の日本で「prophet」だと言える人は、三島以外には知りません。でも、小説の方はほとんど覚えていませんが、昨年映画館で「野火」を見たときは、途中で退席したくて仕方がありませんでした。経済のために、戦争が期待されている時代、その映画が示したものといえば、知性も、創造も、美しさも、醜ささえもなく、ただ、《反戦市場》という才能の墓場のような「荒地」だけでした。

コッポラのコメントは、DVDのオーディオコメンタリーで、字幕訳ということもあり、道徳観という訳語が相応しいのか疑問ではあるものの、私には『野火』は《飢餓》の話としか思えませんでした。
Commented by yomodalite at 2016-02-14 16:31
>マインドコントロールを自ら解かねば・・・手掛かりとなるテキストはありました。

私たちには今もうなにも残されてなくて、「反戦」しかない。でも、科学や無神論も神学からの枝分かれである、キリスト教の国々とちがって、私たちの国の「反戦」は、まさに「領域内」限定で運用されてきたものです。原発にも同じことが言えますが「反・・」というもので、世界は動かないし、それは「思想」足り得ない。


>日本が唯一経験した負け戦を舞台に、・・映像作家は現れるでしょうか。

西欧文化の「血と肉」以外の、平和的で友和的なカルチャーをもっとも世界に発信してきたのは日本だったと思います。善が悪へと変わるだけでなく、悪にも善の心があって、絶対悪は存在しない。という考え方は日本特有だと、欧米にも見られてきましたが、ここ何十年かの格差社会で、そういった日本人の美質はずいぶんと影を潜め、日本の物語作家たちは、海外市場を見据えて、あまり変わりばえしない作品を創るようになっているような気がします。

矢野さんのような方に目を留めていただいて、山積みの資料と格闘しながら書いた甲斐がありました。また、機会がありましたら、是非お気軽にコメントくださいませ。
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by yomodalite | 2016-02-09 14:12 | ☆MJアカデミア | Trackback | Comments(6)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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