マイケルとチャップリンのエスペラント(1)

これは、HIStory Teaser, Part 2「独裁者」の内容への私の補足です。

エスペラント語に関する記事で、MJはなぜ、あの映像作品のオープニングで、作品のテーマを紹介するために、殆どの人が知らないような言葉を使ったのだろうという疑問が持ち上がったわよね(チャプリンが『独裁者』でエスペラント語を使ったことにも同じ問いができる)。(→ ③)

この問いについて、チャップリンの場合を先に考えてみたいんですが、

『独裁者』でエスペラント語が使われているシーンは、


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例えば、このナチを思わせる兵士たちの後ろにある看板には「TABAKBUTIKV」と大きく書かれていますが、その下左「CIGAROJ(葉巻)」や、下右「CIGAREDOJ(煙草)」がエスペラント語で、TABAKBUTIKV(Y)は、エスペラント語では変換できないのですが、TABAKは、ドイツ語その他の言語で「煙草」という意味のようです。


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こちらの写真の看板は、vestajoj = clothing(服)、malnovaj = old(古)「古着屋」と、D]olcj fresaj legomaj = Sweet fresh vegetables(甘くて新鮮な野菜)「八百屋」のようで、これ以外にもいくつかエスペラント語の看板が見られます。



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『独裁者』では、ナチスと思われる兵士や国は架空のものですが、チャップリンが演じている床屋はユダヤ人で、この場所は、ユダヤ人居留地(ゲットー)と思われますが、当時、ヨーロッパ各地にあったゲットーでは、通常、その国の言葉とイディッシュ語や、ヘブライ語が使われていて、看板に「エスペラント語」が普通に使われている場所があったのか、少し調べてみたんですが、そういった場所は見当たらず、


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(ゲットーのポーランド語とヘブライ語の看板)



私の最初の想像では、

ザメンホフの祖国ポーランドで、ナチが造った最大のゲットー、ワルシャワ・ゲットー(「ザメンホフ通り」と呼ばれる通りもあった)を象徴するために、街の看板にエスペラント語を潜ませたのではないかと思ったのですが、ザメンホフ通りにエスペラント語の看板があったかどうかについてもわかりませんでした。


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(ゲットーのポーランド語とヘブライ語の看板)


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(1940年10月のワルシャワ・ゲットーでは、
標識にドイツ語とポーランド語が書かれている)




最後のスピーチ部分や、ハンナに希望のメッセージを送っている部分などに「エスペラント語」が使われているのなら、その言語がもっていた「希望」という意味や、チャップリンの国際主義的な意識というのもわかりやすいのですが、

ユダヤ人であることをボカして表現したわけでもないのに、なぜ、ゲットーにエスペラント語が使われているのか?

そこが「なぜ、チャップリンはエスペラント語をつかったのか?」というウィラとエレノアの問いであり、私の疑問でもあったのですが、結局その答えはよくわかりませんでした。

ただ、ゲットーが「エスペラント語」で溢れているというのは、おそらく、ヒトラーをおちょくる映画として先行していた、ユダヤ人である三バカ大将の映画にはない発想だったのではないでしょうか。

私は、チャップリン自身がユダヤ人ではなかったからこそ、このゲットーを、伝統的なユダヤ色ではない風景にしたような気がします。

チャップリンのスピーチにある、

すべての人を助けたい。ユダヤ教徒も、キリスト教徒も、黒人も、白人も。

それは逆にいえば、ユダヤ人だけが被害者ではない。ということでもあるでしょう。

共通の言語があれば、民族グループの不和に苦しまず、新たなコミュニケーションの道具になると考えたザメンホフに、チャップリンは自分に近い精神を見出し、その気持ちが、伝統的なユダヤ・コミュニティではなく、エスペラント語が看板に書かれている街を創造させたのではないでしょうか?

チャップリンは「エスペラント語」に希望があると思ったのではなく、民族的・言語的な基盤が異なっていることが、憎しみや偏見の主な原因になっている。と考えたザメンホフに共感し、すべての人の団結を訴えた。

マイケルがチャプリンから引き継いだのは「エスペラント語」というよりは、チャップリンの「団結」への気持ちであり、

それが、マイケルの「JAM」になったのではないでしょうか。


ヒトラーについても、特に戦争が絡んだ歴史については、中立的な態度で学ぶのはとても困難なものですが、『The trump and dictator』というドキュメンタリー映画の製作者のひとりが、ガーディアン紙に書いていた記事に、チャップリンが『独裁者』を創っていた時期のことが少し載っていたので、要約でちょっぴり紹介します。



ヒトラーが政権を取った1933年、スタジオの多くがユダヤ移民によって経営されているにもかかわらず、ハリウッドは彼の政策を批判しなかった。


批判することでヨーロッパのユダヤ人がさらなる苦境に陥ることを懸念し、ヨーロッパでハリウッド映画が不評になることも避けたかった。また、1939年に、英仏が参戦したとき、アメリカでは90パーセント以上が参戦に反対だった。


1931年にチャップリンがドイツを訪れたとき、大変な人気だったことを、ナチスは懸念していたが、これは、チャプリンが『独裁者』を撮る発端になったかもしれない。


チャップリンは「私の映画に政治的なものは一本も無い」と語っていたが、ある意味ではすべての彼の映画が政治的だとも言える。堅苦しい社会の中で、彼の存在は「反抗」を表すものだった。ナチスが彼を嫌悪したのは、そういった権力者を茶化すような姿勢だった。


1938年、チャップリンが『独裁者』の脚本を書き始めた時、アンチ・ナチの映画はハリウッドの本流ではまだ無く、ようやく38年に出てきたときも、現実に起こっていたことを考えればリアリティはなかったが、「独裁者」の製作が発表された時、


イギリスはヒトラーを怒らせるのをさけて上映禁止にし、ハリウッドのユダヤ人プロデューサーたちはチャップリンに製作を辞めるように言ったが、当時の大統領フランクリン・ルーズベルトの介入もあって、続けることになった。


チャプリンは二役を演じることに決め、バクテリア国の独裁者ベンツィーニ・ナパロニを演じていたジャック・オーキーは、当初、Benzino Napaloniというイタリアの独裁者役だった。チャプリンの仕事は進まず、


ようやく撮影が始まったのは1939年の9月で、第二次世界大戦勃発の数日後だった。撮影は秘密裏に進められたが、最後にシーンを撮る頃は、すでに、フランスもデンマークも陥落寸前で製作を中断することも考えた。ヒトラーの存在は、もう笑っていられる場合ではなかったから。


でも、彼は中断せず、エンディングを変えた。


元々は、グリフィスの『イントレランス』にならって大々的な平和主義のモンタージュで終わるつもりだったが、撮れば撮るほど納得がいかなくなり、チャプリンは、映画をスピーチでしめることを決意した。そのスピーチは、独裁者のものでも、床屋のものでもなく、チャプリン自身のもので、スピーチは賛否両論を引き起こし、今でもそれは続いている。


映画は大当たりしたが、占領下のヨーロッパ、南米の一部、アイルランドで上映禁止となり、アメリカにおいては、チャプリンの終わりの始まりとなった。


(要約引用終了)


では、マイケルのエスペラントに続きます。。






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by yomodalite | 2015-10-29 06:00 | MJアカデミア | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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