オウム真理教の精神史ーロマン主義・全体主義・原理主義/大田俊寛

オウム真理教の精神史―ロマン主義・全体主義・原理主義

大田 俊寛/春秋社




『ヒストリー』20周年で、アメリカだけでなく、日本の1995年を思い返しているのですが、その年は、阪神大震災が起こり、オウム真理教によるサリン事件があった年でした。

20代から30代までグノーシス主義の研究に専念したという著者は、2011年に出版された本書で、これまでに出版されたオウム関連書籍を、元信者、ジャーナリスト、学問的著作に分類し、特に、学問的分野において、適切に論じられているものがなく、


・中沢新一『「尊師」のニヒリズム』

・宮台真司『終わりなき日常を生きろーオウム完全克服マニュアル』

・大澤真幸『虚構の時代の果てーオウムと世界最終戦争』

・島薗進『現代宗教の可能性ーオウム真理教と暴力』

・島田裕己『オウムーなぜ宗教はテロリズムを生んだのか』


著者は上記の代表的な五点の問題点を

オウム事件の原因を70年代後半から80年代以降の日本社会、すなわち、高度経済成長を達成した後の日本社会の問題に帰着させていることである。このような着眼はまったく間違っているというわけではないが、端的に言って、視野が狭すぎる。現代の日本社会においてオウムのような「カルト」が発生するに至ったのは、それに先行するさまざまな歴史的要因の蓄積があり、学問的分析においては、そのような要因をも視野に収めなければならない。
それとは逆に、仏教研究を専門とする学者によって執筆された論考にしばしば見られるものだが、オウムの問題を、例えば仏教史全体から考察しようとすることは、視野が広すぎる。宗教のあり方はそれぞれの時代によって大きく異なっており、近代以前の仏教の教義とオウムのそれを比較することは、両者の根本的な差異が大きすぎ、有効な分析にはなりえない。オウムはしばしば原始仏教へと回帰することを訴えたが。その精神史的ルーツが本当に仏教にあるのかということ自体を疑問に付す必要があるだろう。


という。このあと、オウムの教義が近代宗教の特質を備えていることを確認すると、「第1章」では、そもそも「宗教」とは何なのか、について、キリスト教の成立から、主権国家と政教分離に至るまで。といった内容が展開され、やはり「視野が広すぎる」のでは? と思うものの、


そのあとの第2章で、サブタイトルにもあるように「ロマン主義」、第3章で「全体主義」、第4章で「原理主義」と、近代宗教や精神史の総括が簡潔にまとまっているので、オウムのみならず、宗教やスピリチュアル、オカルト、陰謀論を考えるうえでは、ちょうどいい視野と言えるのかも。(ただし、本書の「ロマン主義とは何か」という説明は、宗教のなかの「ロマン主義」を説明する文章であって、精神運動全般としてのロマン主義を誤解させかねない点は要注意)


下記は、神智学、ニューエイジ思想、トランスパーソナル心理学、チベット仏教、インドの導師・・など、現在のスピリチュアルの根源が数多く登場する、


第2章「ロマン主義ー闇に潜むわたし」から(省略・要約して抜粋)


近代においては、主権国家の枠組みのもと、科学力・経済力・軍事力等が歴史的に類を見ない速度で発展し、またそれに伴って、社会の巨大化と流動化と複雑化が右肩上がりに進行していった。それではこのような社会において、人々が心理的に求めるものとは何だろうか。それは、世界の全体像を知りたい、ということである。


今や社会はあまりにも巨大化しており、事実上、誰もその全体像を一つの視野に収めることができない。また、社会はあまりにも高度に複雑化しており、誰もその詳細を見通すことができない。誤解してはならないのは、社会の全体像を把握することができないのは、それが非合理的な存在だからではなく、合理的に組み上げられたネットワークそのものが、今やあまりにも巨大で複雑なものと化しているからである。しかし人々は、自分が生きている世界の構造を知り、その全体像を見渡したいという欲望を断念することができない。そこから、幻想的な「世界観」が生まれることになる。

 

そして次に、自分が生きている意味を知りたい、ということである。啓蒙主義は、万人には平等な理性が与えられていると説くが、このような主張は実は、群衆社会に生きている人々にとっては、不安や恐怖の原因でしかない。なぜならそれは、自分自身が他の誰とでも交換可能な存在に過ぎないということを示すものだからである。人々はむしろ、自分がかけがえのない存在であり、自分の人生に固有の意味があるということを実感したいと欲する。複雑な社会のなかで一つの部品のように生きている自分は「偽りの自分」に過ぎず、「本当の自分」は見えないところに隠れている、と考えるのである。

 

近代人のこのような心理的欲望から、多種多様な幻想が析出されてくることになるが、ロマン主義という思想は、その主なものの一つである。


ロマン主義的宗教論の系譜をたどる上で、最初に取り上げておきたいのは、ドイツの神学者フリードリッヒ・シュライアマハーが著した『宗教論』という著作である。1799年に初版が公刊された『宗教論』は、副題に「宗教を軽んずる教養人への講話」と記されており、もはや人間は宗教という迷信にすがる必要はないとする、当時の先進的知識人に向けた反論として執筆された。


彼は、心のなかに湧き上がる宗数的感情を「宇宙の直観」と呼ぶ。『宗教論』では、究極的存在者を「神」という言葉でなく、「宇宙」や「無限(者)」という用語が使用される。『宗教論』という著作は、キリスト教の本質を捉えることを目的としているが、それ以上に、個別宗教としてのキリスト教やその人格神の観念を突き抜け、宗教一般の本質へと到達しようとしたものなのである。そして彼が言う「宇宙」とは、目に見える宇宙の背後に、あるいは人間の心の深部に存在する、不可視で精神的な「宇宙」なのである。


『宗教論』という著作は、美しい文体と説得力のある論理の運びによって多くの読者を獲得し、後世にも長く影響を与えた。しかし、実際に、シュライアマハーが提唱したことをそのまま実現しようとすると、オウムのような「カルト」的傾向を帯びた宗教が立ち現れることになる。また、人間の心の中には「宇宙」という無限の世界が広がっており、それに触れて自己を変革することに、宗教の本質があるというアイデアは、その後、数多くの心理学者たちによって具体的に展開される。(→ウィリアムズ・ジェイムズ『宗教的経験の諸相」~P63)


* * *


19世紀にヨーロッパで生まれたロマン主義という潮流は、20世紀後半のアメリカ・ニューエイジ思想においてヴァラエティに富む表現や実践方法を獲得し、60年代以降、日本では「精神世界」というカテゴリーが作り出され、ニューエイジ思想以上に雑多な内容のものがそこに放り込まれた。具体的には、東西の神秘主義、錬金術、魔術、ヨーガ、密教、禅、仙遊、輪廻転生、超能力、占星術、チャネリング、深層心理学、UFO、古代偽史などであり、一見したところ相互にどのような関連を持っているのか見分けがたいが、その大枠は、何か「宇宙的なもの」を感じさせてくれる対象の集まり、ということになるだろう。


シュライアマハーは「心のなかの宇宙」に触れて本当の自分に目覚めることを宗教の本質とし、宇宙を経験するために古今東西のさまざまな宗教について学ぶべきであると提唱したが、日本の「精神世界」論は、ポピュラーな水準でそれを具体化したもので、オウムもまた、こうした精神世界論のなかから生み出されたものの一つだったのである。

 

日本にヨーガを持ち込んだのは、心身統一論で知られる中村天風、神智学系のヨーガ団体の竜王会を主催した三浦関造、ヨーガ教典の翻訳に努めた佐保田鶴治などがその先駆けとなるが、クンダリニー・ヨーガを広く社会に浸透させたという点から考えると、超心理学を提唱した本山博、阿含宗の教祖である桐山靖雄に注目する必要がある。

 

本山博(1925~)は、霊能者の母を持ち、東京文理科大学(現・筑波大学)で博士号を取得した本山は、自らの神秘的経験を科学的に検証することを志す。その成果として1963年に公刊された処女作が『宗教経験の世界』。この著作では、超感覚的な存在を科学的に探求する試みが世界中で始まっていることが紹介され、J・B・ラインの超能力(ESP)研究、ユングの深層心理学、そしてヨーガの実践による超感覚的なものの体験が挙げられている。論理構成としては、ヨーガの修行者や霊能者が主観的に体験している超感覚の世界を、いかにして科学的に明らかにしうるかという問題が取り上げられ、著作の結論部においては、宗教経験に全体として三つの段階の深まりがあること、その第三段階おいては「心霊との全き一致」が生じることが論じられる。

 

本山の活動は、「超心理学会」の開設や「宗教心理学研究所」の運営など多岐にわたるが、1978年に公刊された『密教ヨーガ』という著作では、ヨーガの目的が「身体や心を健全にするだけでなく、人間の存在そのものを霊的に進化させ、宇宙の絶対者と一体にならしめるところにある」と説かれ、宇宙との一体化を実現するためには、クンダリニーを覚醒させ、身体内の七つのチャクラを問くことが必要であると説かれる。この著作には、本山自身の体験についても豊富な記載があるが、クンダリニーが覚醒したとき、一時的に身体が空中に浮揚したということが述べられている。オウムの信者のなかには、本山の著作や指導によって最初にヨーガに触れたという者も数多く存在した。

 

ヨーガや密教の修行をポピュラーなものとするのにより大きな役割を果たしたのは、本山の活動と並行して発展した、桐山靖雄(1921~)の「阿含宗」である。オウムの初期信者たちの多くが阿含宗に所属しており、麻原自身もかつて阿合宗で修行していたことが知られている。桐山は81年に『1999年カルマと霊障からの脱出』という著作を公刊し、ノストラダムス・ブームに荷担するとともに、悪しきカルマの増大によってこの世に破局が訪れるという形式の終末論を唱え、その論法はオウムにも引き継がれていった。また、阿含宗は関連会社として平河出版社を経営しており、桐山の著作だけでなく、ニューエイジ関連本も多数出版された。そのなかの一冊が1981年に中沢新一による『虹の階梯』である。(P99~104)


* * *


第3章「全体主義 ー 超人とユートピア」から(省略・要約して抜粋)


フランス革命の標語「自由・平等・友愛」に示されているように、近代社会を支える理念とは、個々の人間が自由で平等な主体として存立し、友愛の念を持って相互に尊重し合うということである。啓蒙主義においては、あらゆる人間には平等に理性が備わっているとされ、ロマン主義においては、個々の人間は他に還元できないかけがえのない固有性を持っていると見なされる。人間のあいだの共通性に着眼するのか、あるいは差異性に着眼するのかという点において、啓蒙主義とロマン主義の主張は対極的であるが、それでも両思想のベースには、人間の本来的平等の観念が存在していると見ることができるだろう。

 

しかし、地縁や血縁から切り離された「自由で平等」な個人が都市部に集合して群衆化し、アノミー的に裁き続ける近代社会において、人々は逆説的にも、生の指針を示し、自分を導いてくれる、特権的な人物の存在を強く希求するようになる。


一例を挙げれば、啓蒙的な自主独立の精神に立脚していたはずのフランス革命は、実際にはロベスピエールという一人の「カリスマ」によって唱導された。また、ロマン主義において、宗教の本質は心のなかに潜む宇宙を独白に探求することであるとされたが、自らの霊性をどれほど深く探求し、開発したかに応じて、人々から「導師」として仰がれるような高位の人物が現れてきた。


政治哲学者ハンナ・アーレントは群衆意識の性質について、次のように述べている。


大衆は目に見える世界の現実を信ぜず、自分たちのコントロールの可能な経験を頼りとせず、自分の五感を信用していない。それ故に彼らには或る種の想像力が発達していて、いかにも宇宙的な意味と首尾一貫性を持つように見えるものならなんにでも動かされる。事実というものは大衆を説得する力を失ってしまったから、偽りの事実ですら彼らには何の印象も与えない。大衆を動かし得るのは、彼らを包み込んでくれると約束する、勝手にこしらえ上げた統一的体系の首尾一貫性だけである。(『全体主義の起原』第三巻、80頁)


人々の利害はあまりに細分化・多極化しており、すべての人問に共通する利害を見出すことが難しい。ゆえに政治家や運動家は、特定の利害ではなく、明確に目には見えないものの、個々人がそこに自らの生の基盤があることを実感し、自我を没入させることができるような「世界観」を提示しようとする。全体主義とは一言で言えば、孤立化した個々の群衆を特定の世界観のなかにすべて融解させてしまおうとする運動なのである。


アーレントは、全体主義が構築する世界観について、次のように論じる。


全体主義運動は(中略)権力を握る以前から、首尾一貫性の虚構の世界をつくり出す。(中略)全体主義プロパガンダは大衆を空想によって現実の世界から遮断する力をすでに持っている。不幸の打撃に見舞われるごとに嘘を信じ易くなってゆく大衆にとって、現実の世界で理解できる唯一のものは、言わば現実世界の割れ目、すなわち、世界が公然とは論議したがらない問題、あるいは、たとえ歪められた形ではあってもとにかく何らかの急所に触れているために世間が公然と反駁できないでいる噂などである。(『全体主義の起原』第三巻、八三頁)

 

白身が生活する現実世界の全体像を見渡すことができない群衆は、現実世界の「割れ目」に存在するものを手掛かりにして、幻想的な世界観を作り上げる。ナチズムの場合で言えば、肯定的な存在としては、「ゲルマン民族の血の高貴さ」であり、否定的な存在としては「ユダヤ=フリーメイソンの陰謀」ということになるだろう。群衆はこうした不可視の想像物を基礎に据えることによって、幻想的で二元論的な世界観を構築する。すなわち、彼らは、自らの本来的アイデンティティはゲルマン民族としての血統にあるが、劣等民族であるユダヤ人や秘密結社のフリーメイソンがその高貴さを汚そうとしている、こうした相克こそが世界の実相である、と思い込むのである。


エーリッヒ・フロムがナチズムの運動に雪崩れ込んでいった群衆の心理を「自由からの逃走」と呼んだように、根無し草としての放恣な自由に疲れ、苦悩を抱える群衆は、その心の奥底では、強固な束縛こそを希求しているのである。(~P117)


* * *


近代人に「超人」というヴィジョンを提示しだニーチェは、近代の世界においてはもはやキリスト教の原理が通用しないこと、キリスト教が提示してきた目的論的な歴史観が失効してしまったことに、もっとも正面から向き合おうとした。主著の『ツァラトゥストラ』で、主人公のツァラトゥストラは、独白に近いスタイルで「超人」について語り始める。しかしそもそも、なにゆえに超人の存在が必要とされるのだろうか。

 

ひと言にで言えば、それは、キリスト教の神がすでに死んでしまったため、神の存在を基準として人間主体を陶冶してゆくという従来の方法が、もはや通用しなくなったからである。ニーチェは、キリスト数的な主体から超人へと至る精神の歩みを、駱駝、獅子、小児という三段階の比喩を用いて語っている。駱駝とは、敬虔の念に溢れた重荷に耐える精神、キリスト教の規範に従属する禁欲的精神のことを指すが、これに対して獅子は、「われは欲す」という欲望と意志の言葉によって、その生き方を打ち砕く。しかし獅子も、新しい価値を自ら創造することはできない。それが可能なのは、無垢な小児である。小児は、過去については忘却し、その目は常に新しい始まりに対して開かれ、世界生成のありのままの姿を肯定する。「創造の遊戯」によって新たな価値を生み出すことができるのは、小児=超人なのである。

 

ニーチェは、プラトン主義的な形而上学や、神の国の実現という目的=終末を設定するキリスト数的な歴史観を、空虚な「背後世界」の存在を仮定し、それによって人間の価値や存在意義を提造しようとする錯誤的な思考であるとして、厳しく退ける。それに代わってニーチェが持ち出すのは、いわゆる「永劫回帰」の世界観である。あの世などという「背後世界」は実在せず、存在するのはあくまでこの世だけである。そしてこの世において、万物は流れ去るとともに、再び同一の状態へと回帰する。死もまた、人間の生にピリオドを打つものではない。人の一生はまったく同じあり方で、同じ世界のなかに再び回帰してくるからである。何らの意味も目的も終わりもなく、流れ去っては、永久に回帰し続ける世界。しかし、ニーチェの思想は、シュタイナーやユングのような20世紀のロマン主義者たちに多くの霊感を与えただけでなく、ナチズムにおける進化論や人種論を支えるバックボーンともなった。(P126。ウェーバーのカリスマ論~群集心理学~精神分析のパラノイア論)


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『わが闘争』において、ヒトラーがユダヤ的なるものとして指弾している対象、民主主義、マルクス主義、マスメディア、国際金融資本、売春業などには、確かに共通した傾向が見られる。それは、人間を慣れ親しんだ故郷の大地から引き剥がし、不透明で流動的な社会へと投げ込むもの。すなわち、近代的な群衆社会の特性を象徴するものなのである。しかしながら、彼の思索は、論理的一貫性を備えているとは言い難い。具体例を挙げれば、ヒトラーは、マルクス主義と資本家を共にユダヤ的だと見なしているが、言うまでもなくマルクス主義は資本家の打倒をその政治目標として掲げており、対立する両者がともにユダヤ的というのは、辻褄があわない。そこでヒトラーが持ち出すのが、いわゆる「ユダヤ陰謀論」である。ユダヤ人による活動はきわめて多岐にわたり、一見したところ支離滅裂で、ときに対立しているかのように思われるが、その背後にはすべての糸をひいている秘密結社が存在し、ある目的を達成するために、隠された計画を進めているのである。


表面的に露わになったものにはその「裏」があるのではないだろうか、と考える「陰謀論的解釈学」は、必然的に裏の裏、裏の裏の裏を追求することを余儀なくされ、その妄想の連鎖には歯止めが利かなくなる。(~P148。「洗脳の楽園」~グルジェフのワーク、ヤマギシ会の農業ユートピア)


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第4章「原理主義ー週末への恐怖と欲望」


原理主義という言葉は、本来、20世紀初頭のアメリカに現れたキリスト教・プロテスタントの一派を名指すために使われ始めた言葉であるが、視野を広げてみれば、キリスト教やその他の一神教だけでなく、日本の宗教思想にもその存在が認められる。日蓮主義はその一例であるが、日本において特徴的なのは、オカルト思想に由来する原理主義、例えば「竹内文書」に基づいた偽史的世界観や、ノストラダムスの予言書に基づく終末思想が大きな影響力を振るい、国内に流入したキリスト教原理主義と奇妙な混淆を起こしていることである。


アメリカ社会において一般に原理主義が広まったのは、急速に普及したテレビによって、「テレビ説教師」と呼ばれる人物たちが登場したことによる。彼らの歴史観は「ディスペンセーション主義」と呼ばれ、その最も有名な書物はハル・リンゼイが1970年に公刊し、アメリカで1800万部を売り上げた『今は亡き大いなる地球』である。リンゼイはイスラエルの再建を終末へのカウントダウンが開始された確証であるとみなす。同時にイスラエルの存在は、中東情勢を不安定にする要因となっており、メギドの丘(ハルマゲドン)に「諸国の王」が呼び集められ、最終戦争が引き起こされるための条件が徐々に整いつつある。旧約聖書のエゼキエル書にあにイスラエルの敵として登場する「ゴグ」をソ連のことだと考え、両者の間に核戦争が勃発すると予測する。ダニエル書の記述から「北の王」をソ連、「南の王」をエジプトだとし、エジプトもイスラエルへの侵入を目論んでいると考える。世界情勢は聖書の預言どおりに進行しており、ハルマゲドンは間近にせまっている。とする。(P177。~ブランチ・ダビディアン)


アメリカのキリスト教原理主義の信仰形態は、日本にも伝達された。日本ホーリネス教会の創始者、中田重治は、世界の終末とキリストの再臨が迫っていること、、そしてその際、正しい信仰をもった信者は救済されると説いたのだが、そこで、根本的な疑問に直面する。果たして、神の救済計画の中に、日本人の救済が含まれているのだろうか?このような疑問に回答し、信仰への確信を得るために、中田はきわめて突飛な論を引き寄せる。いわゆる「日ユ同祖論」である。(P183。~竹内文書、ローゼンベルグの『20世紀の神話』、ヒヒイロカネ)


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第二次大戦中から戦後にかけて、日本では最終戦争や、終末論に関する言説は影を潜めたが、1970年以降、再び活気を取り戻す。ハル・リンゼイが提示した終末論を焼き直した書物を執筆する人々が現れ、彼らの著作も多くの読者を獲得するようになり、その代表者の一人が、宇野正美である。宇野は、キリスト教の終末論に加え、ユダヤ陰謀論を唱えるようになり、1986年に出版された『ユダヤがわかると世界が見えてくる』『ユダヤがわかると日本が見えてくる』の二書は、100万部を超えるベストセラーになった。


また、1970年代半ば以降『地球ロマン』『UFOと宇宙』『迷宮』など数々のオカルト雑誌を公刊し、『ムー』や『トワイライト・ゾーン』の発刊、編集にも間接的に関わった、武田崇元は、東大法学部在学中にトロツキーを始めとする共産主義の思想に触れ、卒業後は大本教の出口王仁三郎の霊学思想へと軸足を移した。結果として武田の世界観は、共産主義と大本霊学という二つの革命思想を混淆させたものとなり、「霊的革命」「霊的ボルシェビキ」と称され、『はじまりのレーニン』などの革命感は、中沢新一にも影響を与えたと言われる。武田の著作はそれほど多くはないが、「有賀隆太」というペンネームで書かれた『予言書 黙示録の大破局』という著作の末尾に、世紀末の日本に「オカルト神道」が復活し、その流れから「再生のキリスト」が出現することが予言されている。(P193。~五島勉『ノストラダムスの大予言』~仏教による千年王国の実現~川島徹『滅亡のシナリオ』)


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このあと最終章の第5章で「オウム真理教の軌跡」として、麻原の出生からのサリン事件に至るまでの軌跡が綴られています。


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by yomodalite | 2015-10-19 23:20 | 宗教・哲学・思想 | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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