HIStory Teaser, Part 1「意志の勝利」②

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(①の続き)ウィラ:実を言うとね、私は『意志の勝利』をこれまできちんと見たことがなかったんだけど、ようやくYouTubeで全編見ることが出来たわ(まったく、YouTubeには何でもあるのね!)。ナチスの活動すべてが、どれほどひどい過ちだったかわかっているだけに、この映像を見るのはすごく気が重かったのよね。。




Triumph of the Will 『意志の勝利』






エレノア:今回あなたと話すことになるまでは、私も見たことがなかったのよ、ウィラ。断片的にしかね。でも、見てみたら同じように感じたわ。私もヒストリー・ティーザーでさえ気が重かったんだから。



ウィラ:さっきあなたが言ったように、『意志の勝利』は、とても心が乱される作品ね。あのファシスト的なイメージも見るのをためらわせる原因のひとつ。でも、予想していたものとはまったく違っていて、驚くほど、マイケル・ジャクソンに直接つながるような面もあった。



HIStory Teaser






たとえば、あの映画は、ヒトラーがナチズムを若者主体の運動として構想したことを強調している。ヒトラーは、映画の中で5回とても短い演説をするのだけれど、おそらく最良の演説は、画面いっぱいに見える12歳の少年の集団に向けられたもので、(このシーンは45分くらいのところ)彼はこう言ってるの。


「我々は、ひとつの国民にならなければ。そして君たち若者が、その国民なのだ。階級による差別はない。君たちの中にそんなものがあってはならないのだ」


つまり、ヒトラーは自分のメッセージを子供たち、思春期前の子供たちに向けて発していて、彼らみんなが「ひとつの国民」になるのだと強調している。これは、マイケル・ジャクソンっぽい考えよね。さらにヒトラーはこう言うの。


「そして、そうでなければならないのだ。なぜなら、君たちこそ我らの肉の肉、我らの血の血なのだ。君たちの頭の中には、我々が従っているものと同じ精神が燃えさかっている」


これらの言葉、「君たちこそ純粋なる我らの肉の肉、我らの血の血なのだ」すごく私の心にひっかかったの。ふたつの理由でね。ひとつは、ヒトラーは「階級の差別なく」「ひとつの国民」だと言いながら、全ての人間が平等だとは思っていなかった、全てのドイツ人が平等だとさえ思っていない。むしろ正反対だった。彼は人をグループ分けし、明確な差を設けようとした。ユダヤ人と非ユダヤ人、黒人と白人、異性愛者と同性愛者、健常者と障害者、特に遺伝的な障害を持った者、というふうにね。


ヒトラーは、映画での最後の演説で、このことをそれとなく仄めかしている。「かつてバラバラだったこの国は、いまやひとつの高い理想に導かれている。我々は最良の血を継承するものなのだ」と言っているの。この「血」の問題は、ヒトラーにとってもの凄く重要な問題なのよね。なぜなら、彼は人種的純粋性という自分の考えを広めるためにこれを使ったのだから。



エレノア:そうね。今ふり返ると、これらの言葉に背筋が寒くなるわね。ヒトラーが言っているのは、単なる「血」ではなく、「最良の血」のこと。神によって作られた、「我が国民」の血。


「より優れた摂理に基づかなければ、何事も生まれはしない。この摂理は、地上にいる指導者から与えられるものではない。それは、我が国民を造り賜うた神から与えられたのだ」


これらの言葉で、ヒトラーは、自分の野望を裏付けるために、創世記にある創造の物語にふれ、ナチスが主張する社会的政治的秩序、つまりファシズムなんだけど、それは、神からもたらされたもので、ドイツ国民は(少なくともその一部は)神に似せて、完全なる姿で造られており、完全かつ超越的な精神を備えていると主張する。これが、リーフェンシュタールがヒトラーとナチスについて描いた方法では、「意志」として示されている。


ヒトラーは、カトリックの家に生まれたけど、彼には信仰心はなかった。でもドイツ国民の多くにはあった。だから、自分のやろうとしていることを正当化するために、ヒトラーは自分の主張を、キリスト教の信仰の枠組みに結びつけたのね。この映画をよく見ると(そしてヒトラーについて私が知っている一般的知識によると)、彼はドイツ人とナチ党と彼自身の野望を、神の意志の純粋な表現であると宣伝しているように見えるわね。



ウィラ:だから、タイトルが『意志の勝利』なのね?私はずっとこのタイトルの意味がわからなかったんだけれど。



エレノア:まぁ、それは私の推測なんだけど。


でも、意志というのは精神のはたらきであり、「あなたの意志はなされた」という場合の神の意志というのは、よく知られたキリスト教の重要なコンセプトよね。


また、「意志」という言葉は、ショーペンハウエルの著書名『意志と表象としての世界』をも思わせる。神話を造ることにきわめて優れていたリーフェンシュタールは、おそらく意識的、無意識的に、多くの連想を仕掛けている。ひとつの言葉で可能な限り大きな効果を生み出すというふうにね。


MJもまったく同じで、4分間のビデオの中にいろいろな連想を組み込んで、絶大な効果を生み出そうとした。『意志の勝利』は、リーフェンシュタールがヒトラーが抱いた優越性の神話を形にしたもの。ヒトラーの意志、ドイツ国民の意志、そしてドイツ国民そのものが、リーフェンシュタールによって神話化され、『意志の勝利』という形になったのよね。でも、今見てみると、ここにあるのはヒトラー自身の意志の勝利よね。


他の人間をコントロールするために自らの意志を行使する者は、つまりヒトラーの言うところの「支配民族」よね、そういう人たちは、(精神に対して)肉体と同一化される人たちよりも生まれつき、必然的に優位に立っていると見なされ、それが組織的な人間機械化、搾取、虐待、そして他者、特に他人種の撲滅(これはナチスの場合)の理屈づけとなる。ヒトラーの世界では、「最高の血」を受け継ぐアーリア人だけが、完全な人間として見なされ、他の人種は社会の害虫として駆除されるべきものになったわけ。



ウィラ:「最良の血」というその考え方が、どのように人種差別や大量虐殺を正当化していったかを思うと、背筋が寒くなる。で、一方マイケル・ジャクソンだけど、彼にとっても「血」のイメージというのはすごく重要なんだけど、それは真逆の理由、人々を人種や、他の人為的な区分けによって分断することを否定するために重要だといういう点が、特筆すべきことね。それこそ彼がヒストリー・ティーザーで比喩的に表現したことだと思う。ヒトラーが提唱した文化の物語を、まったく反対の意味にとらえるということ。


マイケル・ジャクソンの視点では、血というのは、私たちを(分断じゃなく)まとめる、ひとつの要素よね。


私たちはみんな、どんな人種だろうと、どんな宗教だろうと、国籍だろうと、みんな血管には血が流れている。傷を負えば、だれでも血を流す。人間の血液は、私たちはみんな、「ひとつの同じ仲間」、同じ人間であることを示すものなのよ。マイケル・ジャクソンはこのことを、「Can You Feel It」なかで美しく歌い上げている。「僕たちは皆同じ。そう、僕の体を流れているのと同じ血が、あなたたちの体にも流れている。僕の血管とあなたたちの血管には、同じ血が流れている」と。



エレノア:そうね。彼は、ある人が他の誰かよりも人間らしい、なんていう考え方を否定しただけではなく、分断ではなく協調という点から、人間であることの意味を問い直したのよね。精神と肉体、人間と自然を結びつけ直してね。


彼の考えには分断は存在しない。すべての人が同じ円の中に包まれる。



In my veins I’ve felt the mystery

Of corridors of time, books of history

Life songs of ages throbbing in my blood

Have danced the rhythm of the tide and flood


僕の血潮に感じる神秘

時の回廊、歴史を紡いできた書物

僕に流れる血の中で、幾時代もの生命の歌は

寄せては返す波のようなリズムを踊る


PLANET earth『Dancing the Dream』より



ヒトラーは、血をドイツ国民に特有の心と魂(そして意志)の象徴として使った(「君たちこそ我らの肉の肉、我らの血の血なのだ。君たちの頭の中には、我々が従うものと同じ精神が燃えさかっている」)マイケル・ジャクソンは、ヒトラーとは違って、血を、私たちみんなに共通した、生命の力を象徴するものとして使っている。人間を含めた全ての命は、自然の中にある聖なる力の表れであり、それは私たちの肉体に、血管に脈打っているものだと。


ヒストリー・ティーザーにおける彼の役割は、支配的な人々や、支配的な構造にかわるものを提示し、それらを否定すること。繰り返し「人間性」を表現してきた男という彼自身のイメージと、帝国のイメージ、もっと言えば、黒人である彼と同じく抑圧された人々を、ゲットーに押し込めるような(そしてもっとひどいことをした)帝国のイメージを並列することによって、ヒストリー・ティーザーは、帝国主義における「完全なる人間」がいかに非人間的であり、残酷であり、邪悪であり、生命よりも死をもたらすものであるかを明らかにしている。


マイケル・ジャクソンの世界では、誰かが他の人より「完全な」存在であることなどない。人種や性別や宗教や国籍によって、他よりも価値があるとか、価値がないとか、判断される人などいない。


マイケル・ジャクソンの世界では、人は分断されて、優位性を得ようとするのではなく、親族のようにつながって共感しあう。支配から共感へと転換するのよ。


もし、その人間の心からの願望が、「完全なる人間」のクラブに加わることなら、帝国主義の価値観や、既存の秩序を肯定するでしょう。でも、そのクラブへの入会や、そのクラブに関わるあらゆることを拒否するなら、その人にはマイケル・ジャクソンのパワーが備わっている。そういった人間は、既存の権力構造を打ち破ることができる。それゆえ、彼は危険だったのよ。



ウィラ:そうね。ただ、マイケルの「パワー」というのは興味深くて、彼はそのパワーの多くを私たちの欲求から得ている。彼は、私たちの欲求に反応することで、未来へのヴィジョンを描いている。それと、これはかなり突飛な意見なので、私が説明し終わるまで、少し待ってほしいんだけど、


ヒトラーと、マイケル、『意志の勝利』と『ヒストリー・ティーザー』には、もうひとつ重要な類似点があるのよね。


私が『意志の勝利』にすごく驚いたのは、そこに私が予想したような、ナチスの価値観を正当化するための長い演説など無かったこと。実際、ナチスのイデオロギーについてはそれほど詳しく言っていないし、ヒトラーの演説もすごく短くて、たいてい2,3分。最後の演説が一番長いんだけど、それでもたった9分くらい。プロパガンダ映画なんだけど、レトリックで見る人を誘導することに主眼を置いてないみたい。そうではなくて、この映画の目的は、欲求を生み出すことのように思える。主に、ヒトラーへの、そして生き生きとして、健康的で、強いドイツへの欲求ね。


『意志の勝利』の冒頭は、20分にわたる映像と音楽で、言葉はない。20分って長いわよね。特に2時間も無いような映画では。


そして、観客は、冒頭の20分間、ヒトラーを見ることは殆どない。そのかわり目にするのは、ニュルンベルグの美しい建造物の空撮映像(このとき観客はヒトラーと一緒に空からニュルンベルグへ舞い降りていく感じ)や、俯瞰画像、それから、ヒストリー・ティーザーに出てくるような、おびただしい数の兵士、数え切れないほどの隊列が、ヒトラーが演説するあろう場所に向かって行進していく姿よね。


それからヒトラーの乗った飛行機が着陸して、飛行機のステップを下りてくる彼の姿がチラッと映る。そして、彼の自動車パレードが街に入ってくる。でも観客が一番目にするのは、ヒトラーではなくて、群衆が熱狂的に彼を迎える様子よね。


これらの映像の目的は、期待感を煽ることであり、欲求をかき立てること。ヒストリー・ティーザーは、これとまったく同じやり方で始まる。


前半は軍隊が街の中心に行進したり、製鉄所労働者が主人公の到着に備える様子が出てくる。叫ぶファン、興奮する子供たち、失神する女性たちの姿も見える。でも、マイケル・ジャクソンその人は殆ど出てこない。彼の顔が見えるのは、前半も半ばを過ぎてから。それも、ほんのチラッと。


だから、ヒストリー・ティーザーの前半っていうのは、『意志の勝利』の冒頭20分間とほぼ一緒。どちらも、期待感をあおり、欲求をかき立てているの。よく似たタイプの欲求をね。それは、殆ど恋愛的欲求といってもいい、性的悦楽への欲求とさえいえる。だから余計に、「君らこそ我らの肉の肉、我らの血の血なのだ」という言葉にどきりとするのよね。


聖書の創世記において、アダムはイブに、おまえは「私の肉の肉」と言うんだけど、この言葉はよく結婚式でくり返される。


それで、ヒトラーがこの言葉を言う時、彼は巧妙なやり方で、彼と聴衆の関係は、男性と女性の結びつきと同じだとほのめかすわけ。そして、マイケル・ジャクソンは、自分の歌や映像の中でくり返し同じことをほのめかしている。つまり、マイケルとファンとの関係は、一種の恋愛関係だと。その考え方は、『意志の勝利』でも『ヒストリー・ティーザー』でも、群衆の様子が多く撮されていること、特に、愉悦の境地にいるかのように意識を失い、倒れる女性たちの様子が撮されていることで強化される。



エレノア:あなたの言うとおりだわ。リーフェンシュタールは、ヒトラーに恋していた。ドイツ人全部がそうだったんじゃないかしら。そして、ドイツ以外にもヒトラーの信奉者はいた。たとえばウインザー公爵夫妻とか(*1)。私は、Expressというサイトで、2009年に書かれたというこの記事に出会った時は本当にショックを受けたわ。記事には、「かつてその英国王族は記者に、ナチスの独裁者が失脚したら、それは世界にとって悲劇であると語っていた」とあるの。ヒトラーは、ドイツ国民にとっての正当なリーダーであるだけでなく、偉大な男だ、と英国の元王族が主張したのよ。



ウィラ:すごいわね。その記事にあることは、すべてがショッキングね。公爵が一時的にヒトラーを支持したことは知ってたけど、それは早い時期、戦争の前だと思ってたわ。戦争になってからもそれが続いていて、ドイツに情報を流し、英国を助けようとするルーズベルトの邪魔までしようとしたとはね。もしそれが本当なら、彼が王位を放棄したのは幸いだった。これについてはもっと調べたいと思うわ。



でも、リーフェンシュタールとヒトラーの関係は複雑ね。最近クインシー・ジョーンズが、彼女とランチを共にした時の話をしているインタビュー記事を読んだんだけど(*2)、彼が話している感じでは、彼女はナチスの指導者やヒトラーに対して、どちらかというと否定的で、誰もがコカイン中毒だったと語っているようね。(ジョーンズはさらに、「コカインは、恐れや困難を、暴力で解決させる」と言っていて、これはナチスの指導者との関わりで考えると非常に興味深い)


もっとも、クインシー・ジョーンズがリーフェンシュタールと会ったのは、第二次世界大戦が終わってから長い時間が経った後で、ナチスがやったことの恐ろしさも十分に明らかになった後だった。おそらく彼女の気持ちは、1934年に映画を撮ったときとは、かなり異なっていたはず。1934年には、まだ強制収容所や、その他の非道なことは起こっていなかったし、ヒトラーはドイツの新しい夜明けを約束してくれる一種の救世主のような存在だったんだものね。



エレノア:私もその記事は読んだわ。でも、クインシー・ジョーンズがリーフェンシュタールに会ってたなんて、面白いわよね。



ウィラ:ほんとよね。



エレノア:その記事で、クインシーはリーフェンシュタールの大ファンだと言ってるのね。MJは『意志の勝利』について、クインシーから教わったのかしら。私は、MJがチャップリンに興味をもっていたからかと思っていたんだけど。



ウィラ:私もまったく同じことを考えたわ。もしそうだとすると、マイケル・ジャクソンが『ヒストリー・ティーザー』に『意志の勝利』を使ったことに、新たな見方が出来るわね。



エレノア:あなたが言うように、二人が会ったのは、第二次世界大戦のずっとあと。『意志の勝利』を撮っていた頃の彼女はこう言っている。


「私にとって、ヒトラーは歴史上最も偉大な人物です。彼はまったく非の打ち所がなく、誠実でありながら、男らしいパワーに溢れています。彼は実に美しく、賢明です。光り輝いて見える。ドイツには、フリードリヒ、ニーチェ、ビスマルクなど素晴らしい男性たちがいましたが、彼らには欠点がありました。ヒトラーを慕う人たちにも欠点はあります。でも、彼だけは、純粋無垢。」


これらの言葉は、私には、恋する女性の言葉に思える。もしリーフェンシュタールの言葉が、大衆のヒトラーに対する感情を代表するものなら、ヒトラーの魅力によって欲求がかき立てられたわけよね。(③に続く)



訳者註__________


(*1)ウインザー公爵(=エドワード8世 イギリス王)

王位を捨てて結婚した「王冠を賭けた恋」など、ロマンチックなエピソードで有名ですが、人種差別的発言や、ヒトラーや、ムッソリーニなどのファシストへの親近感についても指摘されている。


(*2)Quincy Jones interview (The Telegraph)






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by yomodalite | 2015-09-29 06:00 | MJアカデミア | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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