『絶歌』/元少年A(1)

絶歌

元少年A/太田出版



私のブログでは、めずらしく「話題の本」を紹介します。

ご遺族の方による出版社への抗議文は下記に一部を転載しましたが、遺族は出版によって、事件が改めて注目され、ご子息への残忍な行為が再び社会に知られることに大きな精神的苦痛を感じておられるようです。それは多くの被害者遺族に共通した、それ以外にはないといえるような感情だと思います(ただし、もうひとりの遺族である山下さんは、今年の3月に「彼の生の言葉が社会に伝われば、そういった犯罪の抑止力になれるのでは」と述べておられます)。

遺族が、犯罪によって受ける苦痛は今も昔も変わらない。でも、現在のようなネット社会で、犯罪被害者が被る二次被害は拡大していく一方で、それは、マスメディアが検察の情報ばかりを垂れ流し、加害者への憎悪を掻き立てることで加熱していく、事件とは何の関係もない私たちのような野次馬の稚拙な行動によって起きているものです。

本が出版されたことは、今現在騒がしく取り上げられてはいますが、事件が起きたのは1997年のことです。あのとき14歳だった少年が、それから18年を生きて語りたいことを、私は読まずにはいられませんでした。

遺族の出版差し止めの要求を聞き、手にすることさえ罪悪感を感じる思いでしたが、読み進めるうちにその後悔は消えていきました。想像以上に真摯な内容だったからです。

これまでも、何度か死刑囚の人が書いた本を読みましたが、この本はそれらとは異なるものだということは、読みだしてしばらくしてようやく気づきました。落ち度のない少年少女を殺害しながら、矯正教育後「社会復帰した元少年」が書いた本は、これが初めてではないでしょうか。

この本の出版意義は、おそらくそこに尽きるのではないかと思います。

未成年で複数の殺人事件を起こしても、加害少年は社会復帰を前提に刑期を終えることになる。実際にそうした少年が、社会復帰後、成功といえるような職業について生活している例については、以前に読んだ『心にナイフをしのばせて』でも考えさせられたことですが、少年犯罪の場合、加害者は口をつぐみ、事件を忘れる方が生きやすいものです。

でも、酒鬼薔薇聖斗にはそれが出来なかった。

この事件では、犯行が残忍だっただけでなく、犯行後の行動も加害者の自己顕示欲が垣間見えるものだったので、今回の出版についても、加害者の自己表現欲求や、金儲けという感覚を抱く人が多いのだと思いますが、一読した感想はそうではありませんでした。

死刑囚が刑を待ちながら、刑務所で反省の日々を送るのではなく、社会に出て、真摯な謝罪の日々を送ることのむずかしさ。彼はまさに遺族が望むように、常に被害者のことを忘れず、自分がしたことに真剣に向き合って18年を生きてきた。

それゆえに、彼はもうこれからどう生きていいのかわからなくなっている。

ご遺族が、出版差し止めを要請した文書には、

本事件により筆舌に尽くしがたい被害を被り、事件後約18年を経て、徐々に平穏な生活を取り戻しつつあるところでした。また、私たちは、毎年加害男性から手紙をもらっており、今年の5月の手紙では、これまでとは違い、ページ数も大幅に増え、事件の経緯も記載されていました。

私たちは、加害男性が何故淳を殺したのか、事件の真相を知りたいと思っておりましたので、今年の手紙を受け取り、これ以上はもういいのではないかと考え、少しは重しが取れる感じがしておりました。ところが、貴社が本誌を出版することを突然に報道で知らされ、唖然としました。

これまでの、加害男性の謝罪の手紙は何であったのか?

今にして思えば、心からの謝罪であったとは到底思えなくなりました。18年も経って、今更、事件の経緯、特に淳への冒涜的行為等を公表する必要があったとは思われません。むしろ、加害男性は自己を正当化しているように思われます。

とありました。

絶対に忘れられることではなくても、ほんの少しづつではあっても被害者遺族は平安へと向かっていた。それが出版によって打ち壊されることへの怒りはもっともなことですが、加害少年にとっての18年は、罪が年々重くなっていく一方の歳月だった。罪の重さをより感じるようになったのは、それが自業自得なんだと、加害者が完全に理解しているからで、私には、この本が自己を正当化するために書かれたとは思えませんでした。

本書は、二部構成になっていて、第一部は、幼少時から犯行を犯すまで。第二部は、少年院生活を終え、2012年12月までのことが書かれています。

読み出して、まず思ったのは、元少年Aが並ではない文章力の持ち主だということ。

300ページほどの本をひとりで書くというのは大変なことなので、編集者の力や、ゴーストライターがついていることも考えられなくはないのですが、本の構成も、比喩に関しても、本人が長い間何度も構想して書いたことを感じさせるものでした。

第一部には、ふたりの少年少女への犯行だけでなく、猫への残虐行為についても、生々しい描写で描かれていて耐え難い箇所があります。彼は自分の性的嗜好を文学的に表現するために、この本を書いたのでは?と疑いたくなりましたが、読み進めるうちに、彼は、精神科医が自らに下した「性サディズム障害」を受け入れ、自分のおぞましさから絶対に逃げないという決心から、包み隠すことなく赤裸々に書いたのではないかと思うようになりました。

そして、なぜこのような少年に育ってしまったのか。という責任について誰もが考える両親についても、それぞれ彼らの真面目な仕事ぶりや、息子に対して人並み以上に愛情深く育て、犯行後にさえ、自分を支えてくれたこと、また、加害者家族として苦しんだ兄弟たちについても、犯行時の残虐な描写以上に、きめ細やかに描かれています。

そして、被害者の少年少女に何の罪もないのはもちろんなのですが、彼はこの残虐な犯行について、学校にも、友人にも、自分の家族にもまったく責任はなく、本当に誰のせいでもなく、ただただ、自分が生まれつきのモンスターであるために起こったのだということを説明するために、言葉を選び、懸命に文章を駆使しようとしているように感じました。

被害者遺族のためにも、読んでいない人は絶対に語らないでほしい本だと思います。



[PR]
トラックバックURL : http://nikkidoku.exblog.jp/tb/24149252
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
名前
URL
削除用パスワード

※このブログはコメント承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでコメントは表示されません。

by yomodalite | 2015-06-18 09:56 | 裁判・法律・犯罪 | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


by yomodalite