2015年 06月 07日
東京と違う大阪のデフォルトとは? |
現代ビジネスの記事なんですが、
あまりにも共感したので、まるごと「転載」します。
「文明探偵」を産んだ街─大阪(文・神里達博)
◎関東人は、大阪を知らないことを、知らない
早いもので、大阪に住んでもう3年になる。
私は7歳から、ずっと関東に暮らしてきた。親戚もほとんどが首都圏在住で、関西にはまるで縁がなかった。そんな私が40を過ぎて大阪に赴任することになり、当初はかなり戸惑った。
そもそも純粋な関東の人間は、関西のことをよく知らない。いや、知らないことを、知らない。特に「大阪」は穴場だと思う。
東京の人間は、種々の「謀略」により、「京都を消費したい」という欲望にしばしば突き動かされる。しかし大阪への関心は、京都に比べるとかなり薄いと思う。そういうこともあり、関西に縁がない人間の「大阪のイメージ」は、一般に乏しい。
私の場合は特に酷く、「通天閣」「道頓堀のグリコ」そして「吉本」で終わっていた。実のところ今だって、大阪について知っていることは非常に少ないと思う。たぶん、旅行者に毛が生えた程度だろう。
しかしそれでも、私にとっての大阪は、想定外に刺激的だった。少し、エピソードを述べたい。
まず、大阪に来て最初に驚いたのは、「看板」であった。東京の街で見かける看板は、「横文字」と「若い女性」が多い。しかし大阪の看板は「日本語」と「オッサンの絵」が多い。いや、実数はそれほど多くないのかも知れないが、パンチの効いたオッサン(社長?)の漫画で自社を直接アピールするような、そういう類の看板を結構見かける。
オッサンと言えば、あるタクシー運転手の話。彼は交通警察に捕まっていた(「捕まっていたこと」は確かである、「交通切符」らしいものが見えたから)。しかし警察官は苦虫をかみつぶしたような顔で、黙って腕を組んで突っ立っている。対する運転手は、猛然と喋る。いや、警官に激しく「説教」をしているようだ。身振り手振りで熱弁を振るい、最後に彼はこう言い放った。
「しゃあないわ、もうラチあかんわ、今日のところはこの辺で勘弁したるっ!」
◎禁止されない限り、何をやっても良い街
要するに大阪は自由な「リパブリック」であり、伝統的に「市民社会」なのだ。だから、この「不幸な警察官」の例からも分かるように、大阪で「行政」に携わるのは大変なことだろうと推察する。
実際、リベラルな雰囲気はそこかしこに埋め込まれている。例えば、妙に禁止の張り紙が多い。最初は意外と自由ではないのかな、と思ったのだが、ほどなく自分の誤解に気づいた。
東京は「許可されていないことは、やってはいけない街」である。だが大阪は逆で、「禁止されない限り、何をやっても良い街」なのだ。デフォルトが違う。その意味では大阪は米国に似ているかもしれない。そう、アメリカに行くと大阪弁がよく耳にとまるのは気のせいか。
地下鉄の中で起きた小さな喧嘩を、すぐに仲裁するオッサンが現れた時も驚いた。
「社長、分かるでぇ。疲れ切って帰ってきてやで、肘が当たればアタマにも来ますわ、ほんま」「せやけどな、車内で喧嘩ができるんも幸せなことやでぇ。自分、東京で働いてましたが、地下鉄混みすぎですわ、いつ痴漢にされるか分かりまへん。小心者やさかい地下鉄乗ったら、いっつも万歳ですわ!」と両手を挙げる。車内の誰もが笑う。いつもこう上手く行くわけではないだろう。しかし少なくとも、東京よりはずっと市民社会的だと思う。
この他、道ばたでよく見かける「飛び出すな!坊や」の看板のこととか、「ちちんぷいぷい」のこととか、なぜか関西には「アレ」が全く無いこととか、「宮本むなし」と「がんこ」のこととか、まだまだ言いたいことは沢山あるが、また別の機会に譲ろう。
ともかく私は大阪に住んで、とても心が軽くなった。そして、大阪がある限り、この国も捨てたもんじゃない、と思える(などと大阪人に言うと例外なく、自虐的なツッコミで応えてくれるが)。こんな明るい気持ちになれたのは何年ぶりだろう。
そうやって、前向きなマインドで読書人の雑誌「本」に連載をさせていただき、このたび『文明探偵の冒険―今は時代の節目なのか』(講談社現代新書)にまとめることができた。本書の中身は大阪と直接の関係はないが、「文明探偵」が誕生したのは、間違いなく、自由な大阪の空気の御陰である。
(かみさと・たつひろ 大阪大学特任准教授、科学史)
読書人の雑誌「本」2015年6月号より
ここで紹介されているタクシーの運転手さんのエピソードなどは、東京にいるとき、テレビで、大阪のオモロイ人々としてよく聞く種類のものだったけど、実際のこの街に来てみて、こういった杓子定規でない人々に出会うと、そのときは面白いと思っただけだったことが、地下鉄の中の仲裁おじさんにみられるように「大人の知恵」だったのだということにも気づいた。
それと最近、大阪を魅力的にしているのは、京都や、神戸といった街から、常に「悪口」を言われているからではないかと思う。京都や、神戸だけでなく、市内では「キタ」と「ミナミ」で、とにかく日常的にディスるという文化もあって、それが個性や文化を鍛えているように思う。
ソ連が崩壊して、世界覇権がはっきりしてから、アメリカが力を落としたように、東京には、身近に歯向かってくる相手がいなくて、それで、隣国が挑みかかってきたときにも、馴れていないわ、言葉も通じないわ、ってことになるのかもね。
by yomodalite
| 2015-06-07 23:19
| 日常と写真
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