Boy, is that Girl with You?(2) |
☆Boy, is that Girl with You?(1)の続き。。
ウィラ:あなたの論文にある、
ジャクソンが言おうとしたのは、“Being a color(有色人種になる)”というのは普遍的本質ではないということ。それは、想像や歴史や物語や神話を通して付与されたアイデンティティにすぎず、同心円的コミュニティにおける、ランク付けのための言葉に過ぎない。
これはとても重要な指摘で、部族の男たちとのシーンとモーフィングは、マイケルが言いたかったことの重要な部分だと思う。ふたつのシーンの重要性は、これらをショート・フィルムのどの部分に置くかという戦略によって、強化されているんじゃないかしら。ふたつのシーンは『ブラック・オア・ホワイト』の中心部分を、ブックエンドのように左右から支えていて、『ブラック・オア・ホワイト』は3つのパートから成り立ってるように見える。音楽が始まる前の、郊外でのプロローグと、マイケルが歌うメインの部分、音楽が終わったあとのエピローグ、いわゆる「パンサー・ダンス」と呼ばれる部分にね。それで、私はメインのパートが部族の男たちで始まり、モーフィングで終わるところが重要だと思うのね。
ジョー:鋭い観察だね。そしてもちろん、この新しい、複雑な人種についての物語は、たぶん、伝統的な白人郊外居住家族にむけて発せられているわけだよ。あなたがプロローグと呼んだ部分は、白人家庭の孤立と機能不全、特に父と息子の間のそれを描いている。白人の支配的な父(ジョージ・ウェント)は、表面上は、息子(マコーレー・カルキン)が大音量で音楽をかけていることで怒っている。
でも、マイケルがここで指摘していることはもっと深いところにある。父の怒りは無知から起こっている。彼は息子を理解していないし、息子の愛する音楽を、息子のヒーローを理解しない。世界を見る彼の視野はとても狭く、地域限定で、時代遅れ。だから息子は、文字通り父を家から吹き飛ばしてしまう。父は座っていた肘掛け椅子もろともアフリカという、文明の生まれたところに着地し、そこで彼の「学び直し」が始まる。
ウィラ:そう。そして大事なのは、息子のヒーローのひとりがマイケル・ジャクソンだということ。父親が荒々しく息子の部屋に入ってきた時に、そのノックの勢いでマイケルのポスターが落ちてしまう。あなたが論文で指摘しているとおり、似たシーンが、ビデオの最後の最後にあって、そこではホーマー・シンプソン(アニメ『ザ・シンプソンズ』に登場する父親のキャラクター)がリモコンをつかみ、テレビを消してしまう。息子のバートが『ブラック・オア・ホワイト』を見ていたから。それも、特にパンサーダンスをね。つまり、ビデオは、白人の父親の、怒った、抑圧的な態度という額縁に縁取られているわけ。その態度は、息子がポップカルチャー、とりわけ黒人アーティスト、マイケル・ジャクソンがもたらすようなポップカルチャーに触れるのを妨げるためのものよね。
これは当時の雰囲気を正しく反映していると思う。なぜなら、これもあなたが指摘しているように、『ブラック・オア・ホワイト』は、白人男性の怒りが高まっている中でリリースされたものよね。公民権や女性の権利やゲイの権利が認められるにつれ、「家庭や職場における男性支配が減退していった」そして、その大半は、白人による「男性運動」の高まりに結びついていった。興味深いと思うんだけど、『ブラック・オア・ホワイト』がリリースされた1991年に最も売れた本は、ロバート・ブライの『アイアン・ジョンの魂』(原題 "Iron John" )だった。あなたも言っているようにこれは、「傷ついた男たちに語りかけ、内なる“野生”と“戦士”を回復する事によって彼らを立ち直らせるための本」なのよね。
ブライの本や「男性運動」が当時どれだけ人気を博したか憶えているわ。男性たちが森に集まって大きなたき火をし、太鼓をたたいて、「オスとしての強さ」を奪ってしまうらしい文明の影響を振り落とすのよ。それらのことを、マイケル・ジャクソンとの関連から考えたことは無かったんだけど、『ブラック・オア・ホワイト』を理解する上でとても面白い歴史的な背景よね。特に、あなたが言っていた、郊外で肘掛け椅子に座ってた父親がアフリカに吹き飛ばされて、マイケルジャクソンが部族の男性たちと踊るのを見るっていうシーンを理解する上でね。
ある意味、これはブライのメッセージをそのまま表したシーンで、つまり、男たちよ原始に帰り、“内なる戦士” に目覚めよっていう。でも、マイケル・ジャクソンは、タイの女性たちや、小さい女の子も含めた平原で、インディアンたちと踊ることで、ブライの記述から逸脱していく。そして次に、インドの女性や、ロシアの男性グループとも踊る。マイケル・ジャクソンのメッセージは、ブライのメッセージとはかけ離れているのよ。
ジョー:確かに。ブライのメッセージのトンチンカンなところは、僕の意見では、それがすべての男性に通じる普遍的なメッセージで、もっと言えば、いわゆる「男らしさの危機」に対するオールマイティな処方箋だと思ってるところなんだ。ブライは、男性にもいろいろあるということを認識していなかった。マイケルはわかっていたけどね。でも、あなたが言うように、(ブライの本は)男らしさが危機にさらされていると認識されていたことを示す、とても興味深い歴史的背景だね。
実は、僕が結局あそこに書かなかったもう一つの背景は、ヒップホップの役割なんだ。あの当時のヒップホップ、特にギャングスターラップの多くが、超男らしいパワーを発散しようというような内容だった。真の男になって、ゲイやホモとかナヨナヨした奴を閉め出せ。女に優しい奴や、異なる人種と関係を持つ奴もだ、って感じの。
だから、このような背景から言えば、マイケルの歌やビデオは、ヒップホップや、ハードロックやメタルに浸透している言説に、直に異議を申し立てていることにもなる。ヒップホップのほうが言われること多いけど、メタルだって同じくらい女性嫌悪や同性愛嫌悪が強いよね。
ウィラ:本当にそうね。
ジョー:これらのジャンルは80年代終わりから90年代始めにかけての若者に多大な影響力を持っていた。だからマイケルが両ジャンルをブラックオアホワイトに取り入れたのは偶然ではない。ただし、メッセージの内容は創り直してね。
知らなかった!
速攻で「アイアン・ジョンの魂」注文しちゃった(1円で・・)
『國民の創世』もそうだけど、アメリカにおける黒人に対する感情って、想像に難いものがあるね。
先日ね、「メイウェザーvsパッキャオ」って、ボクシングの世紀の一戦といわれる試合があったでしょ。
生中継で見ていたんだけど、ラスベガスでの試合にもかかわらず、みんなフィリピンのパッキャオを応援してて、アメリカのメイウェザーには、ブーイングなの。
ヒールとして、おきまりなんだろうけど、未だにそういうキャラクター設定をしないと居場所がないのかなと思ってしまった。
それから、この記事を読んでいて思い出したんだけど・・。
ラース・フォン・トリアー監督が「ブラックオアホワイト」のショートフィルムを見て、この振り付けをした人に「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の振り付けをして欲しいって思ったらしいの。それで、ヴィンセント・パターソンに依頼。
パターソンが現場で指導している姿を監督が見ていて、そのまま舞台監督役で出演する事になった、って話は知っていた?
それにしても、オフショットのMJちょーキュート。
とっても興味深い対談なので、(4)も楽しみにしてます!
送料入れても、絶対損しないと思う。神話とか、おとぎ話の翻訳ってひどいの多いし、、あのキャンベルの本とか読みにくいにもほどがあるって感じなんだけど、野中ともよさんの翻訳はすごくスムーズだし、
ヴォーゲルは、MJとは違うみたいな言い方してるけど、読んでみると、すごくマイケルっぽくて、父親としてのMJや、MJの男らしさについても、私には、ここから説明できるところがいっぱいあるんじゃないかなって思ったなぁ。
とにかく、この本がどういう本か少しわかってると、ヴォーゲルが書いてる「MJの男らしさ」について、より想像ができると思って、、この記事だけだと、そこが想像しにくいから。。
>トリアー監督が「ブラックオアホワイト」のショートフィルムを見て、、、
それは、、、知ってた(嬉)。ビョークもMJの大ファンだしね。。でも、トリアーとMJは裏表って感じだよね。本当の意味で子供っぽいのは、トリアーの方だけど、、ふたりとも批評家につけいる隙を与えないから、カンヌでウケなかったんじゃない?
それももうすぐ公開するから、ブライの本を読んで待っててね!