もうたくさん!「We've had enough」(3)

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☆もうたくさん!「We've had enough」(2)の続き


エレノア:まさにそうね。ただ、最初の物語のテーマは人種で、2番目の物語は国籍よね。


ウィラ:そう。あるいは、宗教や民族やそれらの組み合わせと言ってもいい。でも、私たちがこれらの物語を聞いて、それをどのように解釈したり、場面をどのように頭に描くかに関わりなく、歌詞を歌うマイケル・ジャクソンの声は哀しみに満ちている。彼の心はきっと、北アイルランドで親を失った子供や、イラクやスーダンやセルビアやイスラエルや東南アジアで親を亡くした子供に対する哀しみでいっぱいなんだと思う。子供の観点からは問題の解釈なんかどうでもいいのよ。子供にとっては、母が父が殺された、そのことだけしかないのよ。「We've Had Enough」は、親を失った子供の視点に立つことを、私たちに促すのよ。




エレノア:もちろん、そうね。でも、私が思うに、彼は、ある特殊な状況、つまり人の命が、重要じゃないと言わんばかりに、無造作に、突然失われてしまうような状況を象徴的に表すものとして、2つの命の喪失を見せようとしたのではないかな。だって、「私たち」の多くは、彼らの命は重要と思ってないんだものね。


ウィラ:その通りだと思う。それは「They Don't Care about Us」のメッセージでもあるわね。


エレノア:そして、私たちの注意をふたつの物語に集中させるために、マイケルは、彼らの命が自分にとっては重要なんだということを示す。それぞれの物語を、哀しみと喪失感に満ちた声で歌うことによって。そして、人生をめちゃくちゃにされた子供の視点から、それぞれの物語を語ることによって。その子は,自分の運命を仕方ないこととして無条件に受け入れる用意など出来ていないのだから。マイケルの声は、そういう子供たちの痛みと混乱を反映している。

子供たちは、当然のように「どうして?」と。(私たちがわかっていても、いなくても)どうして(市民を守るのが仕事のはずの)警察官が武器を持っていない人を殺すの? 小さな女の子から、大好きなお父さんを奪うの? どうして(平和をもたらすのが使命のはずの)兵隊が、貧しい少年の母で、子供の世話をしてきた女性を殺し、「妻の死に、叫び、泣く」ような状態に父親を突き落とすの?

さらにマイケルは、私たちにもう一つの質問を投げかける。これも子供たちからの質問。

「いったい誰が、この制服を着た男たちに、子供たちの親の命を奪う権利を与えたの? この状況に、神や宗教はどんな役割を果たせるの? 奪われた命は、重要なものではなかった、と神が決めたの?」


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ウィラ:エレノア、あなたはいまこの歌の中心的な問題に照準を合わせてきたわね。ある人に他の人間を殺す権利を与えるのは何か?という問題。そして、マイケルの答えはそんなものはない、ということ。なにものも人にそんな権利は与えられない。彼が歌っているように、「誰が死ぬか誰が生きるか、決めてもいいと神が言ったの?」ってことよね。

マイケルがいっているのは、神だけがそれを決める権利を持ち、神だけがその権利を与えられる。国じゃない、バッジ(警官、軍人のバッジ)をつけてる人間じゃない。神だけ。その兵士なり警官なりが、神から直接、命を奪う権利を与えられたのでなければね。でも与えられてない。だから、彼らにそんな権利はないのよ。


エレノア:そうね。マイケルは確かにそう言っているわね。でも、彼が一番言いたかったのはそれなのかなって、まだ納得できない。ひとつには、ここに出てくる子供たちが問いかけているのは、いったいどの神なのか、神はみんな同じと考えていいのか、という問題がある。白人至上主義者の神もあれば、黒人教会の神もある。キリスト教の神もあればイスラム教の神もある。いったい、どの神なのか。

それと、ここで彼が示しているのは「問い」だけで、「答え」がない。でも、子供たちにこれらの問いかけをさせることによって、彼はいくつかのとても重要な問題を提起しているし、私たちの心により大きな課題を投げかけている。無垢な子供たちが犠牲者になる時多くの人が感じる憤りをかきたててね。


ウィラ:たしかにそうね。ここでは子供たちは問いを投げかけている。最も無防備で、声なき存在の子供たちがね。だから小さな子供たちが、制服を着た、見上げるほどに大きな男たちに「なぜ?」ー「なぜお父さんを殺したの?なぜお母さんを殺したの?」ーと問うている姿は人の心を揺さぶらずにはいられない。


エレノア:そうなのよ。そして、訴える力がある。私たちは心を揺さぶられ、少なくとも一瞬、怒りを感じる。歌の中にマイケル・ジャクソンが生み出した架空の子供たちが、生きた人間となって迫ってくるから。けれど、いったん彼らの投げかけた疑問を考えるようになると、私たちは誰が責任をとるのかという問題にぶち当たり、困惑してしまう。

個々の物語を聞く限りでは、責任を、発砲した警察官やミサイルを発射したり爆弾を落としたりする兵士に求めることができるかもしれない。でも、これらの物語が、国家権力による、罪なき命を奪う暴力行為の繰り返しという大きな構図の一部であるということを示すことによって、マイケル・ジャクソンは、私たちの怒りの矛先を、俯瞰的に見れば、最終的な判断などできない警官や軍人ではなく、彼らの親玉である国家へ、罪なき人たちの命など取るに足らないと決定しているらしい、国家へと方向転換させる。


そして、彼はそれらをさらに複合的に展開していく。子供たちに、神についての問いかけをさせることによって、次の問いへのドアを開ける。もし神が、国家は「誰が死ぬか誰が生きるか決めていい」と言ったら、国は神の代理人になれるのか?そして国の命令を受けた人間は、神の代理人になれるのか?またもし神が、国家は「誰が死ぬか誰が生きるか決めていい」と言ったら、それは国家が、どの命が大事でどの命は大事でない、と決められるということか?この愚かな行為に対して、最終的な責任はいったい誰が,なにをもって引き受けるというのか?

ウィラ:あなたの言いたいことはわかるわ、エレノア。子供たちが「神様が、あなたが決めていいって言ったの?」と言う時、それは単に制服を着た男に問うているのではなく、慈悲深い神が、こんなことが起こるのを許していることへの問いでもある。興味深いわね。そんなふうに考えてなかったわ。






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by yomodalite | 2015-03-30 06:00 | MJアカデミア | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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