JAY-Z ー ロッカフェラ王朝を築いたヒップホップの帝王[2]

JAY‐Z―ロッカフェラ王朝を築いたヒップホップの帝王 (warp ARTIST SERIES (3))

ジェイク ブラウン/トランスワールドジャパン



☆[1]の続き

(下記は、省略・要約して引用しています)

デイモン・ダッシュという男

ロッカフェラ・レコードの設立とデフ・ジャムとの提携の何年も前、ジェイのパートナーであるデイモン・ダッシュはすでに伝説を築いている途中だった。1971年5月3日、ニューヨークの東ハーレムで生まれ、ジェイのように秘書として長時間働いていた母との母子家庭でダッシュは育てられた。幼少から数字に明るい子どもであり、理由が不明のまま退学となるまでは、マンハッタン市街にあるエリート・フレップ・スクールの奨学生であった。その後コネチカット州に引っ越し、再びサウスケント・ボーディングスクールの奨学生となる。アイビーリーグ大学への奨学生になりうる可能性を秘めながらも、ダッシュは高学歴への道程を突然遮られることとなった。

ダッシュ:「俺が15歳の時に、母がぜんそくの発作で逝ったんだ。その後も学校生活に打ち込んだ。だって母は何においても一番を与えてくれたから。俺はアップタウン(ハーレム地区)出身だけどパークアヴェニュー(高級地区)の学校に行ってた。かなり高級だったよ。別荘があって、メイドやシェフが普通にいる子たちに囲まれてた。でも俺とそんなに変わらなかったよ。そこでの友人は今でも友人だよ。でも行くのをやめたんだ、ローファー履いて、カーキのパンツにブレザーの制服を着て、ここに帰ってくるのがどんなに難しいことか分かるかい。サウスケントから戻ってきて、町でウエストハイスクールっていう一番悪い高校に行ったんだ。そしてまた退学になった。俺のことを傲慢だと思ったんだろうね。だから結局GED(大学検定)を取ることになった。俺には2つの生活があった。アップタウンでの生活はハーレムで、ダウンタウンでの生活はパークアヴェニューと81番通りにあった公立高校で。だから両方を見れたんだ」
 
ボーディングスクール時代、ダッシュは白人郊外型アメリカ像の中に黒人文化の可能性を含んだ、ビジネスマンとして初めての悟りを開く。

「ストリートで何か起こっているかに興味のある人たちの層の厚さに驚かされたよ。そして将来、それをどうにかしてビジネスにしようと決めて、ストリートを売り出そうと思ったんだ。楽しくて、金が稼げる仕事をしたかったからね」

ジェイ・Zとデイモン・ダッシュの出会い

ダッシュ:「初めてジェイに会ったのは21歳の時だった。マネジャーとしてレコード契約を取ったのが19歳の時だけど、レンガを食わされたね。つまり売れなかったってことだよ。それでビジネスについて、どうやって売り出すかについて再び学ばなきやいけなかったんだ。ジェイと出会った時、すべて白分たちでやろうって決めたんだ。あれをこうしろとか、ああしろなんて他人に言われたくなかった。何の影響も受けない。すべての才能は賭けなんだ」

ジェイ:「俺がデイモン・ダッシュに初めて会ったのと同じころ、彼はアーティストのマネジメントもしていた。デイモンはハーレム出身で、俺はブルックリン。

ニューヨークから来た人は誰でも、どれだけアップタウンとブルックリンのやつらが違うか分かるけど。マンハッタンは作り、ブルックリンは真似する。でも俺はハーレムが有名な『やってみろ』の精神をいつも持っていたんだ」

ダッシュ:「ジェイはいいラッパーとして知られていたけど、ビジネスが好きじゃなかったみたいでね。俺たちはまったく違う環境で育ったけど、すぐに仲良くなったよ。俺はジェイに会いにブルックリンにあるフレッシュ・ゴードンスタジオまで行ったんだ。これはすごいことだよ。だってその当時ハーレムのやつはブルックリンには行かなかったんだ。

やつに会って一番初めに気が付いたのは、ナイキ・エアーを履いているってことだったんだ。それはハーレムのやつらだけがやっていたことで、それをやつはちゃんと履きこなしていた。靴ひももすべて、ちゃんとしてたよ。その時にこいつはやるやつだなって思ったね。それから二人は友達になった。

ハーレムやブルックリンから来た人間は、お互いにクレイジーなステレオタイプを持っているんだ。でも俺らはいい友達になったよ。俺たちはストリートレーベルをやれるって思ったね」

ジェイ:「俺とデイム、そしてもう一人のパートナーであるビッグス(キャリーム・バーク)はブルックリン、ハーレムと違うところから来たけど、俺たち3人をつなげていたのは野望だった。自分たちの可能性に見えを張って、ロッカフェラ・レコードを設立したんだ。俺たちは同じことを望んでいた。レコード会社、フィルム会社も全部計画の一部だった。でも俺とデイムはまったく正反対の人間。彼は論議と交渉に生きる人。俺は交渉には向いていない。スタジオにいるのがいいんだよ」

ニューヨークのストリートから

ロッカフェラは会社レベルとしての信用を築きながらも、ストリートでの勢いを保つことを心掛けていた。プロモーションのために雇ったストリートチームは、持っているものすべてを自ら稼いできたハングリーなハスラーたちからなる、まさにストリートのチームであり、競争心を燃やしていた。ジェイとデイムはまるでドラッグディーラーを使うようにチームを動かし、地域の角すべてに人を配置し、彼らはプロモーション用のポスターやチラシを張ったり、車のトランクに入っているシングルを売ったりした。それに気付き始めていたメジャーレーベルが、彼らを無視できないほどの勢いを築いていく。

ニューヨークでのヒップホップは勢いに乗っていた。大げさに言えば、ファンクなベースからトランクのウーファーまで、窓はがたがた揺れ、人々は戦っていた。
 
冷酷で無常、残忍なビジネスとして、ヒップホップの企業家はレコード業界を生来あるべき姿で運営した。公に打ち出しているイメージでは、これといってアクティブな本当のコンセプトがないのにもかかわらず、すべての手順を踏んだ。ラップスターは消えるかもしれないが、彼を手がけた人々はどれだけその宝石が貴重であったかを知っており、歯から溶け出してくる金の重さまで正確に分かっている。
 
ほとんどのヒップホップ界のプレーヤーは、自分たちの故郷を忘れることはない。ストリートで信用され続けることが、基本的には必要とされているので、ほとんどの場合、忘れられないのだ。有名なMCが成功する。次の責任は家族の面倒を見ることになる。当然、家族をスタッフとするか、新しいラップスターとしてデビューさせるなどだ。ほかのアーティストでいうと、ビギー(ノトーリアス・B.I.G.)がP・ディディにしたように、ジェイはロッカフェラに全力を注ぎ始めた。

◎[Wikipedia]ノトーリアス・B.I.G.
◎[Naverまとめ]ヒップホップ東西抗争とは

デフ・ジャムとの契約
 
1995年中盤、ジェイのデビューアルバム『リーズナブル・ダウト』が完成し、ロッカフェラはプライオリティとの販売契約を通し、初めての独立アルバムを発売した。そして団地地区に抑えられないほどの勢いを築き始め、その現象は業界にまで広がることとなる。それはデフ・ジャムのA&Rの取締役が気付くほどに広がった。特にリオ・コーエンは映画『ナッティー・プロフェッサー』のサウンドトラックにジェイのシングル「エイント・ノー・ニガ」を使うようにスカウトしたのだ。
 
このサウンドトラックにジェイが出演したことが、アイランド・デフ・ジャムとの完全契約交渉にこぎつけるきっかけとなる。シュグ・ナイトがデスロウ・レコーズで、ショーン・コムズ(P・ディディ)がバッドボーイで成功した波を目の当たりにしながら、ジェイとデイモン・ダッシュは違う道を歩んだ。
 
1997年にはアイランド・デフ・ジャムにレーベルの半分のシェアを約150万ドル(約1億5600万円)で売却したのだ。

第6章「ブルックリン・ファイネスト」ジェイ・Zとビギー・スモールズ

ビギー(ノトーリアス・BIG)と、2PACが他界した後、スタイル的にはエミネムも顕著な可能性があったが、1996年からはアーティストとしても、商業的にも、ジェイ・Zに勝るMCは存在しなかった。

ノトーリアス・BIGとの競演

ジェイが公にビギーと組んだことで、ニューヨーク中と全国的に、ハードコアなラップファンの間で、ジェイの信用性を高めることになる。驚くこともないだろうが、この二人のデュエットはデフ・ジャムとバッドボーイにアレンジされたというよりも、二人がジョージ・ウェスティングハウスエ科高校に共に通った時から5年以上続いた個人的な交友に基づいて考案された以外の何物でもなかった。

ジェイ:「1996年に『リーズナブル・ダウト』を発売した際、ヒップホップはストリートと同じくらいホットだった。高校からビギーを知っていたし〈ブルックリンズ・ファイネスト〉をやるために、再会した時は、本当に親しくなってたよ。俺たちは毎日話したよ。ビギーは面白いんだ。心も広いし、俺とは真剣なのか?なんて疑ったこともなかった。

トゥパックと罵り合いを始めた時、ビギーが黙っていられたのは賢いからなんだ。そして、本当に状況がビギーを残念がらせていたのはよく分かっていた。俺たちはスラム街での人生という、特定の人生から逃れるために一生懸命働いてきたんだ。それは初めからラップバトル以上に思ってきていることだった。

トゥパックが俺に的を定めてきた時も、深刻には受け止めていなかった。ビギーとつながっているやつなら誰でも攻撃しようとしていたのを知っていたからね。でも俺は反撃をやめなかった。『おい、パック。俺はデジタル・アンダーグラウンドの時代から、おまえのファンなのに』ってね。だから、彼が殺された時、俺は取り返しのつかない人を亡くしたと思ったよ」
 
ジェイはパックとビギーの間に起こっていた抗争を避けようとしていたが、東西海岸抗争の真っただ中でビギーと共に作ったシングルは、ニューヨークのキング(ビギー)からもらった保証とその注目度で、ジェイの味方になっていた。ジェイはメディアにトゥパックのライバルだとされても、それを正すことに一生懸命にはならなかった。しかしビギーには悲しいことに、その時間は残されていなかった。
 
結末はこうだ。トゥパックと、その6ヵ月後にビギーも銃弾に倒れ、ジェイ・Zは自ら意図せずに明白な後継者として残された。ビギー殺害のすぐ後、親友への気持ちをジェイはこう語る。「ビギーの葬式に行くのは重大決心だった。葬式には行きたくないんだ。それを最後の思い出にしたくないんだよ。ビギーとは高校時代から知り合いだった。目が合うと、頷きあった。そして二人とも音楽業界にいて、いつも『一緒に何かやろう』って言ってた。とうとうやって、息が合ったんだ。俺にとってなくしたものが何なのか、言葉にはできないよ。ドラッグゲームで誰かを負かすよりひどい。だってストリートに入った時点で、死か刑務所は覚悟しているだろう。これは音楽なんじゃないのか? 俺はそう言い続けるよ」

☆[3]に続く


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by yomodalite | 2015-02-28 06:00 | 現代文化・音楽・訳詞 | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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