自伝「裸のジョージ・マイケル」[3]

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☆[2]の続き

アルバム『フェイス(Faith)』は、マイケルのとっての『スリラー』のように、ソロアーティストとしてのジョージ・マイケルを決定づけたアルバムだったようです。そして、このアルバムの記録的なヒットの3年後に発売されたのが、モトーラが酷評し、SONYとの確執を生んだ『LISTEN WITHOUT PREJUDICE VOL. 1』。


『LISTEN WITHOUT PREJUDICE VOL. 1』の、アメリカでの売り上げは200万枚、前年までにアメリカで700万枚を売り上げた前作『フェイス』と比べて大きく数字を落としたものの、本国イギリスでは全英初登場1位を記録し、『フェイス』を越すセールスを記録するなど高く評価され、1991年のブリット・アワードでは「ブリティッシュ・アルバム・オブ・ザ・イヤー」を獲得し、全世界でも800万枚を売り上げた。


米国での人気のなさと、世界での売上げの上昇。といった部分も、マイケルの問題と似ているような気がします。


第15章「フェイス」より(省略・要約して引用しています)


「フェイス」を歌う男は、スタンリー・コワルスキー(『欲望という名の電車』でブランドが演じた役)的な魅力を侍っており、青白きイギリス少年のジェネレーションを経て、エディ・コクラン、エルヴィス、ブランド、ディーンにまで続く、アイドルの系譜をはっきりと継承していた。それは、ハードな時代、クラシック・ロックで優稚なロクデナシ、50年代のアメリカっぽさを象徴するもので、常に流行から外れることはなかった。アルバム『フェイス』のタイトル曲が、続くキャンペーンでのスタイルを決め、1980年代後半のジョージと、初期のワム!のプロモに出てくる、きれいに髭を剃った駆け出しの青二才との違いを明確にした。


最初の2枚のソロ:ンングル「ケアレス・ウイスパー」と「ディファレント・コーナー」は、古典的なワム!の指を鳴らしたりウキウキワクワクしたりするようなイメージからジョージを解き放つものだったが、次の2枚「アイ・ウォント・ユア・セックス」と「フェイス」は、ソロになったジョージ・マイケルはショーの流れを止める泣かせのバラードだけを歌っていくつもりはないということを、はっきりと打ち建てるものになっていた。後者のシングルはジョージの分裂した魂を反映している。


ディック・リーヒイー:『フェイス』が売れ出したとき、私は自分の人生で最も大きな安堵のため息をついたよ。ワム!の解散で、多くの人たちが私のところに来ては「ジョージを説得してもう1枚ワム!のアルバムを作らせなくちゃいけない」って言ってたからね。圧力はずっと続いてたんだ。想像できるだろう。しかし、私はそんなことはしなかった。『フェイス』は、彼が作らなくてはならないアルバムだったんだ。


私の耳には、あれははっきりと立場を明らかにしたアルバム、人生の特別な段階にあるアーティストだということを明確に示したアルバムには聞こえない。80%は良いアルバムだ。というのも、何曲かは特定の目的のために書かれているからね。でも、そうした気兼ねはなくなった。次のアルバムでは、彼がいかに素晴らしいかわかるだろう。きっといいものになるはずだ。


アルバム『フェイス』の唯一現実的な問題は、ファースト・シングルを出すことだった。「アイ・ウォント・ユア・セックス」はずっと前にでていたから、何を出しても最初のシングルみたいなものだった。誰もが「ケアレス・ウィスパー」のようなバラードを期待していた。それがあまりにも見え透いていたから、そうするわけにはいかなかった。


* * *


『フェイス』が世界中のアルバム・チヤートで1位になると、それまで敵意を抱いていた批評家たちが急に、改良された新型のジョージに対して温かくなった。ほとんどの場合、彼らはいともあっさりワム!時代を切り捨て、新しいLPを抱き締めて喋りまくった「信念を持って、ポップスターは成長する」と、ヤッピーたちの『リーダーズ・ダイジェスト』である『ローリング・ストーン』誌は書き立てた。(P248 - 253)


* * *


アルバムはいろいろな歌を大胆に折衷させて集めたものだった。「もしこのアルバムを聞いて何ひとつ好きになれないとしたら、ボッブ・ミュージックが好きじゃないんだ」と、ジョージは『ローリング・ストーン』誌に語っている。『フェイス』のイメージ(マッチョで、自意識の強いカッコ良さを待った、むっつりした雰囲気に包まれたレザーとデニムと無精髭の混合物)は、ジョージの現実のパーソナリティとは何光年も離れていたかもしれないが、そのステージ衣装と彼の普段着とは、先が尖って鉄のついたポスト・モダンの靴に至るまでそっくり同じだった。1987年後半にジョージと昼食を取った人は誰も、いつものように約束の時間に5分だけ遅れて、『フェイス』のジャケットから出て来たような男がレストランに入ってくるのを、メニュー越しに見たはずだ。


彼はそのすべてを、次なる最終段階にまで待っていこうとしていた。彼はついに、スプリングスティーンの労働者の救世主、マドンナの奔放でカッ飛んだ金髪美人、プリンスのにやけた信心深いセックス・マシーン、ジャクソンのムーンウォークするディズニーの突然変異体・・・などに匹敵するイメージを手に入れたのだ。


ジョージ:サイド1は全部ヒット曲。アルバムのクオリティという観点から、うまくいくだろうと期待はしてた。作ってたときも、すごく、すごく満足してた。その出来上がりには自分でびっくりしてしまったほどさ。だけど、予期してなかったのは、ビデオのイメージの効果だった。自分がビジュアル面で強力なアピールをしてるとは思ってなかったんだけど、どうやらそれがアメリカでは心の琴線に触れたようだね。だから、そういう自分では最初全然気づいてなかったような複雑に絡んだ要素とかがあったりして、雪ダルマ式の効果を生んだわけだ。成功の大きさには驚いたし、嬉しかった。


『フェイス』ブームが起こる前、あるミーティングで僕のマネージャーが誰かに向かって、「彼はこのアルバムで世界一ビッグなアーティストになるはずだ」って言ったのを覚えてる。僕は彼に「おい、落ちつけよ、頼むから、ほんとに落ちつけって」って言ったんだ。僕はそれをアメリカ人の興奮癖のせいだと思ってたんだけど、彼はほんとにそう信じ込んでた。


あのイメージがアメリカであんなに役に立つとは期待してなかった。アルバムがものすごく売れることは予想してたけど、自分はそれ以上のものになるほど新鮮味がないって心から信じてた。「フェイス」のビデオは、アルバムの中でも僕の最も強烈なイメージになってる。ジャケットにしても、ジーンズにしても、ブーツにしても。だけど、それをビジュアル上の主張か何かのように考えるには、普段実際に僕が着てるものに近すぎた。あのイメージがあまりにも強烈になるのはいい気持ちはしなかった。最終的に、それが成功の理由を曖昧なものにしてしまうからね。


『ザ・ファイナル』のアルバムを見ると、4つか5つのイメージがあって、そのひとつひとつがその年その年のルックスを示してる。僕はまだ、どうやったらいちばんカッコ良く見えるか試行錯誤している子供だった。髪の長いのと短いの、どっちがカッコ良く見えた? 黒いのとブロンドのとは? 髭ありと髭なしは? デヴィッド・ボウイじゃないんだ。人の興味を持続させるために変えてたんじゃない。いつも満足できなくて、自信がもてなかったからさ。僕はもう違ってみえるようにするためにそんな努力をするつもりはない。人がカメレオン・ビジネスに興味があってそうしたいというなら、それはそれでいい。例えばマドンナやプリンスみたいにね。彼らはすごく上手くやっているよ、だけど、そんなの僕には向いていない。(P254 - 255)


ジョージ・マイケルの初めてのソロ・シングル、自身のプロデユースによる「ケアレス:ワィスパー」は1984年7月、フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドの「トゥー・トライブス」に代わってブリティッシュ・チャートの1位になった。レコードがリリースされる前、プレスの話題は、ジョージの1万7000ポンドかかった髪型のことでもちきりだった。(P165 - 166)


ロブ・カーン:僕たちがこのレコードを出したとき、CBSはブルース・スプリングスティーン、マイケル・ジャクソン、ピンク・フロイド、ミック・ジャガー、ビリー・ジョエルなどのアルバムも出したんだ。


こんな大物たちがそろってレコードを出す時期に、ジョージ・マイケルは初めてのソロ・アルバム(『フェイス』)を発表したというわけさ。僕たちは大きなキャンペーンを始めたが、それは最初の2週間ですべてを使い果してしまうという類のものではなかった。このレコードは長い間かけて売れるだろうとわかっていたら、52週にわたるキャンペーンをやって、シングルでずっと活気をつないでいったんだ。シングルが出るたびに、どーんと上がって、また改めて火がつくわけだ。終りのころには、グレイテスト・ヒット・アルバムを売ってるようなものだった。2回クリスマスを越したんだ。

 

僕は予定の時間内で目標に達しなかったせいで、体調を崩してしまった。いつも、早く早くって思ってたんだ。ジョージは、ある時期までに何百万枚ものアルバムとツアーのチケットを売るつもりでいた。で、その時期がまだ来ないってことで、僕はかなり内面的に追いつめられて、心疲のあまりひどい潰瘍ができちゃったんだ。いつもすべてがちゃんと行ってるか心配ばかりしてたものだよ ーー マネージャーとしての初仕事で、ストレスも多かったんだ。ワールド・ツアー、何百万枚ものアルバム、ひどい潰瘍 ーー というわけさ。

 

ジョージは、自分も昔は君みたいだった、アルバムのセールスがどうなってるか気にして、いつもすごく追いつめられてたよ、と言ってた。彼は言ったよ、もうそんなことは全然ない、ってね。


1988年はツアーに費された。『フェイス』ツアーは2月19日に東京の日本武退縮に始まり、10月の最後の日、フロリダのペンサコーラ公演まで続いた。その間には、いったん喉の手術のために中断が入ったりもしたが、10カ月間、170公演近くにも及ぶ、淋しい旅回りの苦闘があったのだ。ツアーは、ジョージのキャリアと同じように、西へ向かって移動していった。日本から、サーカスはオーストラリアヘと下り、それからヨーロッパに渡り、その後アメリカでの長い夏の陣が始まった。

 

ショーは『フェイス』からの歌と、ワム!の最高傑作のいくつか(「恋のかけひき」「アイム・ユア・マン」「ディファレント・コーナー」「ケアレス・ウィスパー」)を中心に、ソウル・ボーイの奥の手である名曲(ラベルの「レディ・マーマレード」、ワイルド・チェリーの「プレイ・ザット・ファンキー・ミュージック」、それから昔からのお気に入りであるステイーヴイー・ワンダーの「ある愛の伝説」)を加えたものだった。昔とまったく同じように、ジョージが観客に向かって腰を突き出すと、彼らは悲鳴をあげるのだが、その悲鳴は『フェイス」ツアーでは観客の中の女性のほとんどが婚期に達していたという事実を被い隠していた。

 

ショーは初夏にロンドンにやって来た。ジョージはネルソン・マンデラのベネフィット・コンサートに出演するため、6月11日土曜日の午後、ウェンブリーに向かった。自分自身以外の何かをプロモートするときは他の人の曲を演るという慣例を固守して、彼は3曲の魅力的なカバー(マーヴィン・ゲイの「セクシャル・ヒーリング」、スティーヴィー・ワングーの「ビレッジ・ゲットーランド」、グラディス・ナイトの「イフ・ユー・ワー・マイ・ウーマン」)を歌った。


その日の夜、彼はアールズ・コートで2度目の公演をやり、彼はそのコンサートを今までで最高の出来だったと記憶している。しかし、マンデラ・コンサートのウェンブリーの観客は、ジョージ・マイケルの熱心なファンでもなければ、ライヴ・エイドに集まったような心の広い仲間たちでもなかった。コメディアンのハリー・エンフィールドは、マンデラの観客の心ない快楽主義的態度を、こんなセリフで見事に風刺した。「どこだい?僕の無料(フリー)のネルソン・マンデラ(マンデラを自由に!のスローガンにひっかけている)はどこにあるんだい?」


ジョージ:今はベネフィットについてずっとシニカルになってる。ネルソン・マンデラ・ショーを観てた人たちや、アフリカ人出演者に対する彼らの反応にはゾッとしたよ。彼らの半分はシンプル・マインズを観にきただけで、残りの半分は暴徒だった。すべてが好きじゃなかったね。


僕がしたかったのは、セルフ・プロモーションみたいなことと自分を区別すること。当時自分が売ってたものとは全然関係のないものをやりたかったんだ。自分の考えを押し出してるみたいに取られてしまうから、極端に政治的メッセージの強いものは選びたくなかった。だから、自分にできる最も政治的なことは、影響を受けたアーティストによる3つのソウル・ソングを歌うことだって思ったのさ。スティービー・ワンダー、マーヴィン・ゲイ、グラディス・ナイトっていう。(P258 - 260)


(引用終了)


◎[Amazon]自伝「裸のジョージ・マイケル」


このあと、本書の最後には、当時の新作『LISTEN WITHOUT PREJUDICE VOL. 1』から、「プレイング・フォー・タイム」「マザーズ・プライド」「サムシング・トゥ・セイヴ」「クレイジーマン・ダンス」「ハッピー」の和訳歌詞が納められていました。


下記はジョージ・マイケルのWikipediaから、


『LISTEN WITHOUT PREJUDICE VOL. 1』は、前作『フェイス』ほどのヒットにはならず、ジョージ・マイケル個人としてはアルバムの出来に満足していたが、前作ほど所属レーベルがプロモーションに力を入れなかったこともあり売れ行きは鈍く、ソニーは商業的に前作を下回った為に酷評をする(酷評したのは当時のソニ-の社長、トミー・モトーラという)。


これに怒ったジョージ・マイケルは、「ソニーはアーティストをアーティストとして扱わない。こんな会社ではクリエイティヴな仕事は出来ない」と、ソニーを相手に契約無効を訴える裁判を起こす。本来2枚組になる予定だった『LISTEN WITHOUT PREJUDICE』は、2枚目の制作が間に合わず、先行して1枚をvol.1として発売。「Crazyman Dance」、「Happy」など収録予定だったアルバム『LISTEN WITHOUT PREJUDICE VOL. 2』を出す予定だったが、この泥沼化した裁判により、発売が無くなってしまう。


後に「Happy」は、エイズ・チャリティ・アルバム『Red Hot + Dance』に収録して発表。「Crazyman Dance」は、上記『Red Hot+Dance』に提供した新曲「Too Funky」のシングルのカップリングとして発表した。また、このアルバム発売後、ワールドツアー「COVER TO COVER TOUR」を日本より行う。タイトルの示すとおり、ツアーの選曲内容は、半分以上が他のアーティストが歌ったカバー曲で選曲されており、オリジナル曲もワム!時代の曲を織り交ぜたりと、ソロデビュー後の曲は殆ど歌われなかった。カバーの選曲がツアーで廻ったアメリカやヨーロッパでは有名な曲ばかりだったが、日本ではそれらの曲を殆ど知らない客が多かった為、評論家からは酷評された。このツアー以降、本人は「ツアーは行わない」と発言し、長年ツアーを行っていなかったが、2006年9月よりヨーロッパツアーを開始。


(以上、Wikipediaより)


裁判は、ジョージの敗訴に終わり、5年8カ月を経た次アルバム『オールダー』は、1996年にヴァージンレーベルから発売になりました。その後、カヴァーアルバム『ソングス・フロム・ザ・ラスト・センチュリー』の後、2004年の『ペイシェンス』で、ジョージは、再び、SONYに戻っています(モトーラが会長職を退いたからとコメントしたらしい)。


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by yomodalite | 2015-02-18 16:04 | マイケルジャクソン資料 | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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