ケンブリッジ白熱教室・第2回「美と醜悪の現象学」[1]

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10月10日から、NHK-Eテレ毎週金曜日の午後11時から放送している「ケンブリッジ白熱教室」。私は「白熱教室シリーズ」の熱心な視聴者ではありませんが、今回の教授、アンディ・マーティン博士の専門は実存主義。

これまでのラインナップの印象は、「はい、はい、アメリカ主義を学ぶんですね」という感じでしたが、今回は少しちがうのかも。。と思い、第一回の「ベッカム実存主義」から期待して見たんですが、やっぱりそうだと勝手に納得。

そんな講義の第2回が、マイケル・ジャクソンをテーマにした「美と醜悪の現象学」。

マーティン教授ならそういったタイトルであっても、幼稚な精神心理学的知識と、幼少期のトラウマ論(現在では、人の深層心理を探ることより、多くの人の幼少期を単純化し、自分を犠牲者とし、大人を虐待者とするだけの悪質なものになっていることが問題)で、論じるようなつまらないものではないはず。と期待して観たのですが、ほぼ期待どおりだったので、スクリプトで残しておくことにしました。

下記はその前半部分です(☆番組冒頭部分を要約して追記しました)

_______________

1209年創立のケンブリッジ大学。800年以上の歴史と伝統を誇る名門大学。

学生数およそ2万に対して教職員の数はおよそ5,000。最高の講師陣をそろえた大学の授業。中でも「スーパービジョン」と呼ばれる少人数・対話形式が特徴です。

そんなケンブリッジで今注目を集めているのが、サッカー好きで冗談好きイギリス人男性、マーティン博士の専門はフランス哲学と文学。サルトルを中心とした人間の実在を思考の中心に置く「実存主義」が研究のテーマ。

「私は毎日の日常は哲学にあふれていると思います。私は「哲学は役に立たない」「机上の空論」「学者だけのもの」という考え方から離れて、哲学は実践的で日常の経験を理解するために役立つ学問なんだと言いたいのです」

「哲学が扱う問題は人間の心理にも関連する。だから哲学は心理学ともつながりが深いのだ」

大胆な仮説や奇抜な思考実験を駆使して、現代人が心の中に抱える、さまざまな悩みや矛盾の解決方法を探る「実践的フランス哲学講座」。

サッカー界のスター、デビッド・ベッカムを実存主義者と見立てた思考実験や、世界的なポップスター、マイケル・ジャクソンを例に「美しさ」に対する人間の執着心を考察。更にFBIによる哲学者に対する捜査からフランス実存主義の歴史をひもとき私たちが抱える人生への不満不幸や嫉妬の解決方法を哲学を通じて探る。

マーティン博士は「生きているとはどういう事か」を実存主義を使って明らかにします。

第2回は「美と醜悪の現象学」。

人間はなぜ美しさを求めるのか。プラトン哲学と実存主義をもとに、美と醜悪の根源を考えていきます。

(拍手)こんにちは、みなさん。

「美と醜悪の現象学」、難しいタイトルだ。

副題を付けると、「マイケル・ジャクソンの新プラトン主義」

でも私のことを知っている学生は、私が歌ったり踊ったりしないことを知ってるだろう。

なぜ、マイケルは子どもに夢中だったのか?

哲学者ウィトゲンシュタインの言葉を借りれば、心を奪われた状態、執着のひとつの形式だ。だが、これが最終的には、マイケルに法的な、道徳的な、そして経済的な問題をももたらした。名声の損失は大きかった。しかし、マイケル・ジャクソンは、これを完全に認識していた。と推測できる。それでも、彼は同じパターンを繰り返した。幼い子供たちが、彼とネバーランドに滞在する。すると、彼は児童虐待だと非難される。それは性的なものだったのか。フロイト的にみれば、すべては性的なものを関係がある。しかし、私は、エロティックではなく、ゼロティック、性的要素がゼロだったと主張したい。

つまり、彼の子供たちの執着はプラトニック、哲学的意味で、古代ギリシャのプラトン的だった。でも、哲学はこれから私たちが見ていくように究極的には心理学でもある。もしかすると、マイケル自身の哲学が、彼の苦悩に満ちた自意識と、彼自身の外見の両方の、そして、彼の死の原因だったのかもしれない。

子どもについての最も完全で、最も叙情詩的な賛歌は、ジャン・ジャック・ルソーの作品にある。ルソーは18世紀の啓蒙思想家で、百科全書の編纂に貢献し、自伝の傑作『告白』の著者でもある。


ジャン。ジャック・ルソー(1712ー1778)
フランスの哲学者・作家。主な著者「社会契約論」「人間不平等起源論」などで、文明や社会の非人間性を批判。人民主権の思想を説き、フランス革命の先駆けとなった。


ルソーは、年寄りとして知られる文明に対する手厳しい批判を行っている。これが、ルソーの演説、「子どもたちはすべてのことに気づく。彼らは疲れていない。彼らは、私たちがもはや興奮を忘れてしまったものに、興奮を見出す。彼らはまたとても自然体で、まったく自己を意識しない。。

よし、告白しよう。

これは、ルソーではなくて、本当はマイケル・ジャクソンだ。どうして間違えたのか。この引用は、マイケル・ジャクソンの1988年の自伝『ムーンウォーク』からのものだ。でも、ルソーのように聞こえるとも思わないか。ルソーの1762年の教育論『エミール』から取り出したといっても、おかしくないと思う。

これから、私は次の引用の中から、一語、注目したい言葉を選ぶ。突拍子もない質問だが、それがどの語かを当てて欲しい。

生徒から:どの話をしていますか?

マーティン先生:今、それを教える。これから、君たちに引用を読み上げる。だから、すべての言葉に敏感にならないといけない。そのあとで、君たちに尋ねる。もっとも重要な語はどれか。

私は彼らの周りにいうのが大好きだ。家にはいつもたくさんの子どもたちがいて、彼らの周りにいるだけで、私はエネルギーをもらえる。彼らはすべてを新鮮な目で、開かれた心でみる。子どもたちはそれほどにも、想像的なのだ。彼らは規則を気にしない。絵は紙の中央に描かれていなくても、空は青くなくてもよい。彼らは人々を受け入れる。彼らの唯一の要求は、公平に扱われ、愛されること。それは、わたしたち、すべての者が望むものだ。

私が選びたい言葉がある。それがどの語か、誰か予想して欲しい。その語は、この文章の中にあった。

生徒から:規則!

マーティン先生:規則。正解。私はとても驚いた。なぜなら、それが私が思っていた言葉だからだ。冗談を言っているわけではない。ここに書いてある。見せてあげるよ。マイケルの理論において、子どもたちにおける規則は重要だ。なぜなら、規則を乗り越えようとしているから。子どもたちには規則がない。規則を無視する。規則に反抗する。あるいは、まだ規則を学んでいない。マイケルの理論では、子どもたちは、デュルケムが社会規範のない者と呼ぶ領域に属する。「アノミー」だ。

エミール・デュルケム(1858〜1917)
フランスの社会学者。主な著作「社会分業論」「自殺論」独自の視点から社会現象を考察し、社会学の確立に大きな成果をあげる。デュルケムが定義した「アノミー」とは、社会秩序が混乱した状態をさす。

アノミーは、規範がないことを指す概念だ。共同体、規範的な社会の意志からは慣れている状態。子どもたちはまだ社会化されていない。彼らはまだ規則を教えられていない。彼らは規則に基づいた判断を行わない。私が知るかぎり、マイケルは、ルソーを参照しているわけではないが、ふたりを合わせて、「ジャン・マイケル・ルソー」と呼びたい。本物のルソーは子どもたちと自然の状態、そして野生的なものについて書いている。ルソーによれば、子どもたちは、高潔な野蛮人として知られるようになった神話的な存在の小規模なものだ。

‘L ‘homme est né libre, et partout il est dans les fers.
人間は自由な者として生まれた。しかし、至るところで鎖につながれている。

感動的な一行、ここでルソーはなんの話をしているのか。子どもと大人、狩猟採集民と農民? それ以上に人間の意識についてだと思う。ルソーをもう少し深く考えることができるように、マイケルとプラトンとの繋がっているかを19世紀の詩人、ウィリアムズ・ワーズワースの詩を見てみたい。

ウィリアムズ・ワーズワース(1770〜1850)イギリスのロマン派詩人。イングランド北部の湖水地方をこよなく愛し、純朴であると共に、情熱を秘めた自然賛美の詩を書き残した。

この詩は、マイケルとルソー、両方の考えを要約していると思う。『不死の暗示』から、少し抜粋を読んでみることにする。ワーズワースが語っている。

汝、喜びの羊飼いの子よ。私の周りで叫び、汝の歌を歌え。幸ある牧童よ。幸多き皆よ。汝らが呼び交す声を、私は聞いた。天も、汝らの喜びに加わって、笑っている。

よし、今度は私がどの語を選ぶと思うか? 君がまた当てることが出来るか見てみよう。

生徒から:二度も答えません(笑)

マーティン先生:そうか、しっぺ返しをくらってしまったわけか。。実は「満ち足りていること」天も汝らの喜びに加わって、というのが、私たちが話していること。つまりマイケルが言っていることの中心だ。私たちは、幸ある牧童を見ている。では、どこで、すべてがうまく行かなくなるのか、つまり、どうやって、鎖につながれるのか。ワーズワースによれば、満ち足りていること、完全さにも関わらず、私たちには、はじめから何かが欠けているから。羊飼いの子どもは、満ち足りた者と完全な喪失の間にいる。彼はどこかその中間にいて、不死の海と、私たちが行き着く都会の悪夢、遠くの陸地の奥の間の浜辺で遊んでいる。

私は以前、変身について語った。あるいは、偏見について話をした。例えば、美女と野獣。カフカの「虫」、ここに、サルトルが「逆超越」と呼ぶものがある。変形だが、良い意味の変形ではない。ワーズワース、ルソー、そして、マイケルは、いったいどこでこの考えを得たのか。私はプラトンからだと主張したい。この主張は、ワーズワースとルソーに関しては定評のある主張だと思うが、マイケル・ジャクソンの場合は、あまり明らかなことではなかったかもしれない。今までは。。

でも、私はこれを見れば明らかだ。哲学者の洞察のように、みんながこう言うことになる。なんで気づかなかったのだ。これは明白なことなのに。となることを願う。

この主張をするために、まずプラトンの美の概念について考えてみたい。なぜなら、これが、マイケルや他のひとたちの美的価値を実証するように思われるからだ。でも、その前に、私たちはプラトンの理想型の考え方について、概要をつかまなくてはいけない。

プラトン(紀元前427〜紀元前347)古代ギリシャの哲学者。ソクラテスの弟子。イデア(理想型)論を根本とする彼の理想主義的な哲学は、西洋哲学の源流にあたる。プラトンは、私たちの心の目によって洞察される純粋な形、つまり、物事の真の姿や、理想型に言及した。

私が椅子をみるとき、プラトンやソクラテスは、私は何を見るか?と問う。言うまでもなく、椅子だ。でも、同時に彼は、私は頭の中に、その椅子の像を持っていると言う。完璧で理想的な椅子。最初は馬鹿げたことのように思うかもしれないが、考えてみると、これを見ているという事実から、これが椅子だと、どうやって知るのか。でも、私が椅子の概念をもっていなければ、このものは一体なにかということになる。

テーブルでも、男性でも、女性でも、基本的な概念なしにどのようにして、それを知ることが出来るのか。私たちが見るすべてのものは「理想型」をもつと、プラトンは主張する。プラトンはすばらしい構想を思いつく。それは、ワーズワースが彼の詩の中で「我が家」と呼ぶものだ。生まれる前の天国、そこでの私たちは「理想型」をよく知っている。つまり「真善美」だ。

でも、生まれた後はどうなるのか?生まれると何が起こるのか? 誰か憶えているか? もちろん、君たちは忘れてしまった。それが彼の主張だ。ワーズワースはこう言う。人の世に生まれるのは、ただ、眠りと前世を忘れるに過ぎぬ。しかし、ルソー、ワーズワース、マイケルは、子どもはすべてを完全に忘れてしまったわけではないかもしれないと考えている。

重要なのは、忘れてしまうということ。そして、思い出さなければいけないということ。

思い出すことが哲学の機能だとプラトンは主張する。私たちが何かの知識をもつとき、それは、私たちが、忘れたものを思い出したからだと言う。それが、私たちが目指したもの。言い換えれば。それを取り戻すということだ。こじつけだと思わなければ、私はマイケル・ジャクソンの素晴らしい曲を偶然にも思い出したと言いたい。

I wan’t you back!

OK、ジャクソン5が、最初にこの曲を創ったのがいつだか知っているひとはいる? あるいは、最初にリリースされたのはいつか?

生徒から:1987かな? 76? 

私はつい最近確認したんだが、本当のプラトン的な意味で、私も忘れてしまった(笑)。でも、そのとき、私はすでに生きていて、60年代後半だったと思う。

生徒から:漠然としすぎです。

マーティン先生:ここにある私のメモを見よう。1969年だった。マイケル・ジャクソンは当時、10歳か11歳だった。そして、この曲はジャクソン5を有名にした曲のひとつ。子どもスターのジャクソンだ。君たちはこういうかもしれない。その曲はマイケル・ジャクソンではない。ジャクソン5だ。彼はこの曲を書いたわけではない。確かに正しい。でも、この曲はマイケルを念頭において書かれた。この曲は元々、自由になりたいという題だった。マイケルによって発展した。だから、彼はこの曲の生みの親ではないが、彼は育ての親であり、自分のものにした。さらに、彼はソロになってからも、この曲を歌っていた。技術アシスタント、演奏をどうぞ。

生徒のひとりがボタンを押して『I wan’t you back(帰ってほしいの)』が流れる。(体を揺らして、ノリノリなマーティン先生、生徒たちの笑顔。。)

このベースは素晴らしいね。これを考えた人は天才だ。話を元にもどそう。この曲の歌詞のいくつかに焦点をあててみたい。

誰かが集団の中から、君を連れ去ってしまった。それは一瞬のできごとだった。

これは、明らかに「理想型」だ。でも、歌手マイケルは、それをふいにしてしまった。彼は理想型である彼女を本当に大切には思っていなかった。

あって当たり前のものだと思っていた。今となっては手遅れだ。もう一度君を見るのは。

ここで、マイケルは典型的な人生について歌っている。生まれたとき、私たちは必然的に理想的なものから切り離される。失われた理想型をもう一度見るのはいつも手遅れだ。僕が失ったものを返してくれ。アップビートに乗せて、哲学者マイケルは回想の可能性を考えている。失ったものを心の中で、取り戻そうとしながら。これがまさに哲学の目的だ。回想、あるいは追憶。私たちを感覚的な知識から逃れさせる。そして再び、僕を生き返らせて。とマイケルは言う。

私たちは、この決定的な点を無視することはできない。回想は復活、転生の概念と結びつけられる。私たちは真と美を手に入れて、再び生まれるという。でも、どうやって、再び生まれることができるのか。答えはまず死ななければいけない。だから、古典的な議論では、哲学は、死のひとつの形だ。もちろん「悟り」が死につづく。でも、死は「死」にちがいない。

僕はなにも気づかずに、君を行かせてしまった。と、マイケルは言う。

人生は、言い換えれば、ある種の盲目だ。ワーズワースが言うように。かつて見たものは、もはや、見えなくなった。

僕に必要なすべては「もう一度のチャンス」と、マイケルは言う。

生徒から:先生が話をしている歌詞には、オルフェウスの神話に通じるものがあると思いますか?冥界から、妻を取り戻そうとするような、、冥界の王との約束は、冥界を出るまで振りかえらない。ということでした。でも、彼は、妻がまだそこにいるのか見ようとし、彼は妻を永遠になくしてしまいます。それで、失ったものについて考えているということです。

マーティン先生:その考えはとても良い。私の解釈より良い考えかもしれない。オルフェウスはもちろん、音楽の起源の神話と関係している。そうでなかったかい。その物語は非常にプラトン的だと思わないか。欲しいものを追うためには、冥界に降りていかなくてはならない。実質的には死ななくてはいけない。自分がとても親密だった者を追い求めるためでもいい。でも、現実世界に戻ろうとすると、オルフェウスは悲惨にも失敗する。

僕に必要なすべては「もう一度のチャンス」という歌詞を読んで思ったのだが、これは、芸術、特に音楽についていえることなのかもしれない。芸術や音楽は、ある種の典型のような「もう一度のチャンス」、失われた真や美を一瞬垣間みるチャンスを、私たちに与えてくれる。私はマイケル・ジャクソンが、プラトン、あるいは、オルフェウスの神話をほのめかしているという理論が理にかなっていると思いたい。別の言い方をすれば、喪失、忘却、そして回想という古典的なプラトン的理想型に通じる、マイケルの個人的な哲学だと言いたい。

この議論のほとんどは、プラトンの『パイドン』や『パルメニデス』(プラトン中期の対話篇。プラトン哲学の中枢であるイデア論が登場する重要な哲学書。プラトンの師ソクラテスの言葉が会話の形で書き残されている)からとっている。その中には、ソクラデスが登場する。

ソクラテスは、やや懐疑的だった。誰かソクラテスがどのように自らの理想型の理論について、懐疑的だったのか憶えているか? 椅子、テーブル、男性、女性、もちろん、これらにはすべて理想型がある。でも、彼は他のいくつかのものに言及する。これらには理想型があるのか?だれか、『パルメニデス』の中で、それが何だったのか憶えているか? ひとつは、足の爪切り、足の爪切りに理想型があるか? よくわからない。他のものは、ミミズの糞、ミミズによって残された痕、理想的なミミズの糞などというものはあるか?これはよい疑問だ。私はその答えを知らない。だから、プラトンは自分の理論について心配しはじめたのだと思う。自分の理論が内側から崩壊する可能性があると。

生徒から:理想型というのは、何らかの形で美しくなければならないのですか?足の爪切りが、椅子とちがうのはそこですか?

マーティン先生:それは面白い。なぜなら、私はその点について、今、まさに話をしようとしていたからだ。理想型それ自体は美しいのか?それについて、話をさせてもらおうか。答えは曖昧だが、でも、これは非常に重要だと思う。




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by yomodalite | 2014-10-20 18:27 | MJ考察系 | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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