『MICHAEL JACKSON, INC.』のメモ

MICHAEL JACKSON, INC. マイケル・ジャクソン帝国の栄光と転落、そして復活へ

ザック・オマリー・グリーンバーグ/CCCメディアハウス

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☆MICHAEL JACKSON, INC./ザック・オマリー・ グリーンバーグ(著)のつづき

下記は、本書からの個人的なメモで、その章のメイン内容とは異なる場合が多く、
省略して転載しています。

Chapter 1「鉄鋼の街の夢」Steeltown Dreaming

インディアナ州ゲイリーにあるジャクソンストリートは、庭師のいる家が建ち並ぶような場所ではない。轍のついたアスフアルト沿いに、人の住んでいる家と無人の家とが混在する通りだ。数軒しかない住人のいる家には頑丈な扉がつき、庭の草は伸び放題になっている。一方で、窓が目張りされたり割られたり、あるいは屋根が崩れかかっているのは空き家の証拠だ。
 
ジャクソンストリート2300番地にあるマイケル・ジャクソンの生家は、そのどちらにもあてはまらない。11人の大家族を抱え込んでいた家というよりは、巨大なモノポリーの駒のような平たい箱に見える。夏の日曜日の夕暮れ時、その家の前の小さな庭を、だぶだぶの黒のジーンズにデュムのベストという格好の中年男が歩き回り、わずかに散った落ち葉を丁寧に掃き集めては私道に置いたどみ袋へ入れている。
 
家のまわりは頑丈な鉄柵で囲われていて、柵棒にはバラやキャンドル、テディベアが引っかけられている。マイケルの死を悼んで世界中から訪れた人々の置いていったものが、どんどんたまっているのだ。

幼いキング・オブ・ボッブがこの家で実際に暮らしていたころ、キース・ジャクソン(マイケルのいとこ)はまだよちよち歩きの赤ん坊だった。にもかかわらず、1965年に起こったことはすべて、まるで先週の火曜日のことのように覚えていると言い張る。キースは小さいころのマイケルの別の顔についても教えてくれた。音楽の神童ぶりとはあまり関係がないので、注目されてこなかった一面だ。

「マイケルはすごく賢かったよ。エンターティナーだっただけじゃなくて、間違いなく、すごいビジネスマンでもあったんだ」


Chapter 2「モータウン大学」Motown University

音楽ビジネスの手本とするのに、ベリー・ゴーディ以上にふさわしい人間はそう多くない。元ボクサーのゴーディは、1960年にモータウンレコードを設立し、音楽業界で一時代を築いた。設立から12年後、デトロイトからロサンゼルスヘ社屋を移転すると、モータウンの勢いは増し、それまで以上に広く深く、エンターテインメント業界全体へ食い込んでいった。そして88年、マイケル・ジャクソン、ダイアナ・ロス、スティーヴィー・ワンダーら無数のアーティストを巣立たせたのち、ゴーディは6100万ドルで会社を売却した。

「マイケルは、私の一挙手一役足を見つめていた」。ゴーディは言い、姿勢を崩す。「多少は落ち着かなかったよ。別のほうを向いて、しばらくして向きなおってみたら、マイケルが私の動きをひとつ残らず観察しているんだからな」
 
ひと呼吸を置いて「すべてをだよ、君」と続ける。「理由はさっぱりだが。。あの子はとにかく私に注目していた。他のみんなが遊んでいるのに、マイケルはこちらに顔を向けて、私をじっと見ている。あのころは、いつもあの子に見られているような感じがしたものだ」

マイケルは、作詞・作曲がもたらす金銭的価値も、着実に理解し始めていた。マイケルが若くして学び取っていたとおり、楽曲には主にふたつの収入源がある。マスター音源と著作権だ。マスター音源は曲を録音したもので、商品はすべてそこからコピーされて生み出される。マスター販は普通レコード会社が所有し、アーティストにはCDやテープ、レコード、ダウンロード配信といった形でコピーが売れるたびに印税(通常は販売価格の10~15%)が支払われる。一方で、著作権は作詞と作曲に伴う権利だ。

音楽出版の考え方は、今では大きく発展している。あるラップの曲を例に考えてみよう。この曲から印税を得る権利を持つのは、作詞をしたラッパーと、シンセサイザーを使って作曲をした作曲家だけだ。CDが売れれば、アーティストにも印税が入ってくる。ところが、曲がアメリカのラジオで流された場合、印税は作詞家と作曲家にしか入らない(もっとも、この慣行は変わりつつある)。使用許諾を得た映画やテレビで曲が使われたり、他のアーティストにカバーされたりしたときも、お金が入ってくるのはそちらだけだ。

ポップミュージシャンの多くは自分で曲を作ることがないため、それに付随する収入を得られない。曲作りをするミュージシャンもいるにはいるが、ほとんどが権利を音楽出版社に譲り渡し、曲から得られる利益は会社と分け合っている。そもそも権利を譲渡しなかったか、あとで買い戻した一部のミュージシャンだけが著作権を100%保有し、音楽出版社にわずかな手数料(5~20%)を支払うだけで、自分たちの作品が生み出し続ける現金を確保している。同様にマスター音源も、レコード会社の手から引き離すのは難しい。マイケル・ジャクソンは、のちにその両方を成し遂げた稀有なアーティストのひとりだ。ベリー・ゴーディは言う。

「マイケルは音楽出版の仕組みに興味を持っていた。これは何、あれは何、というように……まあ、とにかく知りたがりだったよ」


Chapter 3「大きな飛躍」Epic Changes

イェトニコフには、今も忘れられない光景がある。エンシノにあるジャクソンー家の豪邸を訪れたときのこと、若きマイケルが、ライブやレコードに関する契約書を読み込んでは、ページの余白にメモをしていたのだ。「まるで弁護士みたいだったよ」とイェトニコフは振り返る。「読んで、読み込んで、そして横にメモをする…代わりにやってくれる弁護士はいたはずだが、マイケルは自分で読んで、気になるところを書き出しておきたかったんだ。そうやってマイケルは、自分の活動について理解していたんだろう」

インタビューを切り上げる前に、もうひとつ新しい話題に触れてくれた。マイケル・ジャクソンという人間の多面性だ。イェトニコフは、マイケルがキャリアを重ねるなかで、時に相反する側面をのぞかせるところを直接目にしてきた人物なのだ。
 
「俺にとってはごく簡単なことだよ」。元CBS社長は答えた。「マイケルのなかには、いろいろな面が共存していたんだ。子どもっぽくて情にほだされやすいところもあれば、抜け目ないところもある……抜け目ないビジネスマンなところもね」そしてこう続けた。
 
「ひとりの人間にそういう異なる顔があるのは不思議なことじゃない。まあ、たしかに『そんなこと別に気にしない』と言うのは俺ぐらいかもしれん。だが、気にするかしないかは別として、おかしなことではないはずだ」


Chapter 4「帝国の誕生」Empire Building

彼のサングラスは、単なるファッションではなかった。「マイケルは会議のときもサングラスをしていた」。そう話すのは、80年代初頭からマイケルの下で働き始めたカレン・ラングフオードだ。「そうされると、彼がどのくらい会議に集中しているか、こっちにはわからない……でもあとになって意見をもらうと、実際はものすごく集中して人の話を聞いていたことがわかるのよ。サングラスをかけてじっと座っているのは、すべてを取り込むため。それがマイケルのやり方だった……彼にとっては世界のすべてが教室で、あの人はすべてを知りたがった」


Chapter 5「モンスターにキス」Kissing the Monster

かつて「DJにラジオで曲をかけてもらう」ことと同義だった宣伝活動は、80年代初頭になると、それよりもけるかに重要な意味を持つものに変わっていた。《Thriller》を王道ボッブのアルバムとして完全にブレイクさせるために、イェトニコフは、どうしてもMTVでミュージックビデオを流す必要があった。ケーブルテレビネットワークのMTVは81年8月に放送が始まったばかりだったが、ほぼ1年のうちに、契約局は当初の300から2000へ、契約家庭は250万から1700万へと急拡大していた。音楽産業が70年代の低迷を抜け出し、83年に年5%の成長を見せるようになっていたのは、MTVのおかげで露出が急増したことが理由のひとつだった。
 
「すべてが始まった1956年以来、ロックンロールとテレビは決して相容れない時代が続いた」。ローリングストーンズのキース・リチャーズは、タイム誌のインタビューでそう語っている。「ところが、あるときいきなり両者は結婚し、どうやっても切り離せない仲になった」
 
マイケルはこの潮流に来ろうと、《Thriller》では当初からミュージックビデオを3本作る計画を立てていた。MTVの上層部は「マイケルのビデオはロックではない。うちで流すのはロックだけだし、視聴者が求めているのもそれだけだ」と言い張った。その言葉には言外に「白人の」という前提が含まれていた。

25歳までに、マイケルは地上で最も裕福なエンターテイナーのひとりとなり、83年には4300万ドル、84年には9100万ドルの収入を得た。金銭的成功に見合うだけの称賛が《Thriller》に寄せられ、グラミー賞でも12部門にノミネートされた。ところがマイケルは、その栄光をひとり占めしたがった。たとえ一緒にアルバムを作った仲間を蔑ろにすることになっても。ロサンゼルスで授賞式が行われる前夜、イェトニコフのもとにマイケルから電話があった。
 
「僕はグラミーをたくさん獲るだろうけど、クインシーもたくさん獲るよね」とマイケルは言った。「だけど、製作者賞にクインシーがノミネートされているのは納得がいかない。僕が作ったんだから」「マイケル、頭でもおかしくなったのか」「おかしくなんかないよ。主催者のところへ行って、クインシーのノミネートを取り下げるように言ってよ。製作者賞は、僕だけのものにしたいんだ」「マイケル、そんなことは不可能だ。できるわけがない。まず、もう遅すぎる。次に、これはテレビ番組で、この段階で俺がどう働きかけようと向こうは相手にしない。ここはクインシーの街で、俺の街じゃないんだ。今さらどうにもならないし、彼らがクインシーより俺の言い分を優先するはずがない。それに何より、俺も見てきたんだ。クインシーがくそったれのこのレコードを作るところを!あいつがつまみを回したりだなんだとするところを!馬鹿も休み休み言え。できるわけがないじゃないか」
 
イェトニコフの自伝によれば、元CBS社長は最後に「いいかマイケル、気に入らなかろうがなんだろうが、グラミーには出席しろ。そして満足しているふりをするんだ」と言って話を打ち切ったという。


Chapter 6「勝利のビジネス」The Buisiness of Victory

マイケルは約束どおり、このツアーで得た自分の取り分をT・J・マーテル基金や黒人大学基金連合などいくつかの団体に寄付した。その金額は合わせて600万ドル。もっとも、マイケルは半年という時間をかけて行ったツアーを手ぶらで終わらせるつもりは毛頭なかった。84年の夏、国内各地を回っていたマイケルは、ミュージックビデオのなかで自分が見せたファッションの多くが、ツアーに集まった何百万という人々に影響を与えていることに気がつく。だが、偽の「スリラージャケット」で儲けているのは、まったくの第三者だ。そこでマイケルと側近たちは集まって計画を練った。縁もゆかりもない業者に模逸品で儲けさせるくらいなら、本物を提供してはどうか? 「マイケルには絶対的な統率力と価値観があった」とサリヴァンは話す。「このビジネスは彼なしでは生まれなかったよ」そして84年、マイケル・ジャクソンは自身のブランドを持つ最初のミュージシャンとなった。


Chapter 7「ビートルズを買う」Buying the Beatles

長年にわたりマイケルと仕事をしたカレン・ラングフォードは、このころ、あらゆる年代の名曲のうちどの版権を購入すべきかをマイケルとじっくり話し合ったと話す(彼はとりわけビートルズやプレスリー、レイ・チャールズの名を口にしていた)。「彼は版権の分野で世界一になりたかったのよ」とラングフォードは語る。「そして…それが版権のことであれ、他のことであれ、とにかく目標は一番になること、ナンバーワンの地位を得ることだった。一番の大物、その道の第一人者になることがね」
 
マイケルはスライ&ザ・ファミリー・ストーンの全楽曲の半数にあたる版権を25万ドルでロバーツから買い取った。残り半分は、当時マイケル自身の曲も管理していたワーナーミュージックの出服部が所有している。これに目をつけたブランカは、ワーナーの取締役レス・ビーダーに話を持ちかけた。「残り半分を購入したいんです」とブランカは申し出た。「どうしてわが社が売却すると思うんだね?」「まあ、もしも(マイケルとの)契約を更新したいなら……」ワーナーがMijacミュージックの管理を続行するという条件で、ビーダーは残り半分の楽曲を25万ドルでマイケルに売却した。これでマイケルは、スライ&ザ・ファミリー・ストーンの全楽曲に50万ドルを支払ったことになるが、その直後にステイタスクォーによるカバー曲がUKチャートの1位になったため、この出費は早い段階で回収できた。
 
マイケルは、購入する楽曲にかなりのこだわりを見せた。クリス・クリストファーソンのヒット曲《Help Me Make lt Through the Night》の売却話を持ちかけられたこともあるが、購入はしていない。彼にはそこまでの価値は見出せなかったということだ。

彼が何よりも望んでいたのは、ベリー・ゴーディが運営する音楽出版社ジョービットが持つ版権だ。この会社は、ジャクソン5を含むモータウンレコードのほとんどのヒット曲を所有していた。あるときマイケルは「魅力的な」金額を提示してきた、とゴーディは話す。だがまだ売却の段階にないと考えたゴーディはこれを断り、97年になって、ジョービットが所有する版権の半数をEMIに1億3200万ドルで売却している。ゴーディの著作権管理のやり方を見ているうちに、マイケルのなかの何かに火がついた。「マイケルは夢中になっていた」とゴーディは語る。「そして、もっとでかいことをやりたいという気持ちに駆り立てられたのさ」


Chapter 8「星々とのダンス」Dancing with the Star

レモランデ(『キャプテンEO』の脚本・プロデューサー)は『キャプテンEO』製作の初期段階に、マイケルがこの役に、そして映画業界というものに強い関心を寄せている理由を知ることになる。
 
「映画製作はマイケルの人生において最優先されるべきものだった。それもそのはずさ」とレモランデは言う。「彼はミュージックビデオ界を制した。言ってみれば、彼が創り上げたようなものだ。彼はポップミュージックを制し、ダンスと振り付けの分野でもその力を見せつけた。あとは何か残されていると思う?」

「緊張して突っ立っていたんだ」とマイケル・ブッシュは回想する。「暗いなか、マイケル・ジャクソンが少し離れたところにいるのがわかった。そしてふたりは話を始め、やがて話題は音楽のことに移る。パッツィー・クライン[訳注:60年代初めに活躍したカントリーミュージック歌手]が好きなんだ、とブッシュは言った。そのときマイケルはこの歌手のことをよく知らないようだったが、翌日には『キャプテンEO』のセットでクラインの歌を口ずさんでおり、彼女がいつ、どのように亡くなったのかも知っていた。
 
「一体どこにそんな時聞があるんだ?』と思ったよ」とブッシュは話す。「グーグルを使ったわけじゃない。当時はそんなものなかったからね。マイケルは僕とコミュニケーションをとるために自分で調べたんだ……どんなに忙しいときでも、撮影が間近に控えているときですら、そうやって僕をリラックスさせてくれたんだ」


Chapter 9「成功の光と影」Good and Bad

同年、マイケルは伝説の興行主P・T・バーナムの伝記をディレオとブランカに渡し、こう言っていた。「偉人に学んで、より成長するんだ」

85年にチャリティソング〈We Are the World)をライオネル・リッチーと共作したあと(この曲のレコーディングにはブルース・スプリングスティーン、レイ・チャールズ、ダイアナ・ロス、ビリー・ジョエルなども参加した)、マイケルは忽然と姿を消したと言えるだろう。その年は賞絡みのステージやインタビューも受けていないし、公の場にも現れていない。

その一方で、彼は再登場の最高の演出をディレオとともに、そしてレヴィンのひそかな力添えのもと考えていた。そのときの案をマイケルが書きとめた未公開のメモがあり、なかにはこんなタイトルがつけられたものもあったーー「ビジネスと秘密主義に開する覚え書き」。

計画では、マイケルは86年9月に再び人前に登場することになっていた。バーナムのやり方にヒントを得た電撃キャンペーンを仕掛け、その勢いに乗ってニューアルバムの発売につなげようとしたのだ。『Humbug』のなかのバーナム像に、当時のマイケルは共通点を見出していたのかもしれない。つまり「知性とエネルギーにあふれ、家族を大切にする愛情深い男、そして禁酒家」という点だ。そしてふたりとも「聴衆を魅了する卓越した手腕」を駆使していた。


Chapter 10「ネバーランドへ」Off to Neverland

マイケルは5回目となるMTVビデオミュージックアワードヘの出演依頼を受けていた。長年にわたるメディアでの功績を称えるビデオ・ヴァンガード賞を受け取るためだ(のちにこの賞は「マイケル・ジャクソン・ビデオ・ヴァンガード賞」と改称された)。マイケルは条件つきで出演を承諾する。MTVネットワークの影響力のあるDJすべてが彼の愛称として「キング・オブ・ポップ」だけを使用するよう上層部に要求したのだ。

ロード(長兄ジャッキーが、当時リトル・マイケルと呼んでいた少年歌手)にとって何よりも印象深いのは、エンターティナーを目指すまだ8歳の少年にマイケルが与えたアドバイスだ。曲作りや観衆を魅了する方法ではなく、ビジネスの話から始めたという。「(自分の作品の)所有権を得て初めて価値が発生するんだ」とマイケルは言い、知的財産だけでなく形ある商品についても、このころ用いていた哲学で説明した。「所有すればそれは君のものだ。永遠に。そして君の子どもや家族にあげることもできる。財産はそうやって築いていくんだよ」


Chapter 12「危険な冒険」Dangerous Ventures

91年3月、マイケルはソニーミュージックと新たな契約を結んだ。ソニーはレコードー枚につきマイケルに500万ドルの前払金と売上印税25%を支払い、彼が新しく立ち上げたレコードレーベルに利益を分配する、というものだ。また、ソニーはこの新レーベルと新たなア圭アィストだちとの契約を期待しており、契約が成立した場合にはその見返りとして400万ドルがマイケルに支払われる。加えて彼は新レーベルの運営費用として年間100万ドル、維持費220万ドルを受け取ることになった。
 
さらに、この契約はマイケルとマネージャーのサンディ・ガリンが組んで以来ずっと目指していたハリウッドヘの扉を開くことになる。契約には出演料500万ドルで「ミュージカル・アクション・アドベンチャー」映画に出演する、という条項が含まれていたのだ。ロサンゼルスタイムズ紙はこの契約を「ひとりのエンターテイナーが結ぶ契約としては最大規模」だと大きく取り上げ、この契約によってマイケル・ジャクソンは何億ドルもの収入を得るだろう、と予測した。
 
「マイケルはすべてにおいて、質的にも量的にも『もっと、もっと、もっと』なんだ」とガリンは言う。「満足するってことがない。もし最初の週にレコードが300万枚売れれば、350万枚売れなきやいけなかったって言う。しかもナンバーワンをとれなきや絶対に納得も喜びもしないんだよ」


Chapter 13「歴史の教訓」History Lesson

チャンドラーとの和解が成立したあと、マイケルはその一件は忘れるつもりでロサンゼルスに戻った。少なくともブランカの目には、マイケルと車でビバリーヒルズに向かう道中、そう映った。ふたりはコールドウオーターキャニオンパークを見下ろす崖に立つ、2軒並びの邸宅を見にいくところだった。
 
「これはそのうち “再臨” と呼ばれることになるよ」。丘を上り始めた車の中で、マイケルはそう言った。

「さあ、あの家を見に行こう!」数か月前、リハビリ施設に到着したときのマイケルとは別人のようだった。絶望が怒りに変わり、それがモチベーションとなったのだ。「追いつめられている感じではなかった」。ブランカはそう振り返る。「本気で怒っていたんだと思う」マイケルが怒りを感じる理由はいくらでもあった。最大級に悪質とされる犯罪で告発されたのだ。その結果、パフオーマーとしてもビジネスマンとしても、キャリアが頓挫してしまった。マイケルの相談役のなかには、帝国の重要資産の売却を勧める者もいた。だがブランカは、マイケル・ジャクソンINCにはもっと良い道があると信じていた。


Chapter 14「無敵?」Invincible?

ソニーはこのアルバムが失敗することを望んでいると、マイケルは考えていたようだ。もし資金繰りが悪化すれば、ソニー/ATVの持ち分を担保にバンク・オブ・アメリカから借りている2億ドルの返済が滞ってしまう。そこで02年7月、マイケルはニューヨークに行き、レーベルヘの不満を公表することにした。ハーレムで聞かれたアル・シャープトンとの記者会見の席で、若いころに音楽ビジネスにおける黒人アーティストの窮状を知り、大人になってからはそれを回避しようとあがいてきた道のりを語ったのだ。

マイケルの攻撃からほどなくして、アル・シャープトンは、自分はモットーラが人種差別者だとは思っていないし、マイケルが何を言うつもりなのか事前には知らなかったと公の場で発言した。同じころマイケルのもとに、報道で発言を知ったベリー・ゴーディから電話がかかってきた。モータウン創設者はマイケルに、「人種という切り札」を使うべきではない、それは二度とやってはいけないと助言した。
 
「我々はこれまで一度もその方法はとらなかった」とゴーディはかつての教え子に説明した。「音楽はみんなのもので、肌の色は関係ない、というのが我々の信念だ。だから、そんな手は使えないし、特に君はダメだ。だって、これまで人種を意識してやってきたわけじゃないだろう。今は腹が立って、つらい気分になっているだけだ。よく考えてみろ」
 
「あなたの言うとおりだ」とマイケルは答えた。「よく考えなくてもわかる……電話をくれて本当によかった」マイケルはゴーディに、二度と同じことはしないと約束した。


Chapter 15「浪費の王」The Prodigal King

バーレーンにいる間に、ジャクソンは新たな国際訴訟を起こされた。今回は民事訴訟で、膨らみ続ける債務に対してマイケルが前年に立て直しを試みた際の未払い金から生じたものだった。児童虐待の裁判中、マイケルの現金は出ていく一方で、収入は最盛斯の足元にも及ばなかった。生活スタイルを維持するため、マイケルはソニー/ATVの版権の自分の持ち分を担保に借金を続けた。その結果、05年末までに2億7000万ドルもの大金をバンク・オブ・アメリカに返さなければ、担保を失うかもしれないところまで来ていた。
 
マイケルがその解決策を求めたことで、事態はめまぐるしい速さで展開していった。弟のランディがマイケルに、カリフオルニアを拠点とする会計士ドナルド・ステーブラーを紹介すると、ステーブラーはプレサント・アクイジションという金融会社を紹介し、その会社がマイケルに、ディストレス債権[訳注:経営破綻した企業に対する債権]を専門とする企業再生ファンド、フォートレス・インベストメントグループを紹介した。最初の話では、フォートレスが5億7300万ドルという資金を用意して、合弁事業のソニーの持ち分を買い取り、なおかつマイケルの持ち分を担保としたローンを返済することになっていた。そこから、マイケルが流動資産の危機を切り抜けるための数百万ドルも残る計算だった。それと同時期に、マイケルは富豪のロン・バークルにも助言を求めていた。


Chapter 16「ディス・イズ・イット」This Is It

「何が起こっているのかわからない」とマイケルはバラックに言った。「突然、ネバーランドは金曜に抵当流れになると言われてしまったんだ」この日は月曜だった。マイケルは1時開15分にわたって、自分の財務状況をできるかぎり説明した。バラックが話を聞いている間、マイケルは「クールエイド[訳注:粉末ジュース」を飲んでいた」という。

バラックはマイケルの「聡明な、信じがたいほどの理性」に驚いた。意識は冴えわたっているように見え、薬物の使用をうかがわせるところはなかった。だが、「マイケルが処方薬の問題を抱えていることは誰もが知っていた」とバラックは言う。それでもバラックは魅了され、マイケルを助けようと決めた。


Chapter 17「死後の成功」Postmortem Payday

その知らせは、2009年6月25日の昼間から少しずつ伝わり始めたーー

「今日はインターネット史に大きな影響を与える一日だった」。AOLの代理人は声明のなかでそう言っている。「範囲においても規模においても、これほどのことは初めてだ」。フォーブス誌では編集室の全員がそのときしていた仕事を中断し、マイケルの死が財務面に与える影響について記事を書き始めた。(転載終了)


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by yomodalite | 2014-06-23 08:34 | ☆マイケルジャクソン書籍 | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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