2013年 12月 09日
真贋(講談社文庫)/吉本隆明 |
1ヶ月ぐらい前に読んだ本。ほとんどの本と同じように、所々うなづいたり、なんか違うんじゃないか。とか思ったりしつつ読み終えたのだけど、あたりまえのようなことの中に、吉本氏以外は書かないであろう、わずかな「印」のようなものが感じられた。
戦後最大の思想家と称されることもある吉本氏ですが、世界基準での「思想家」という基準にはまったく届いていないのではないかと思う。でも、むしろ、そうだからこそ、氏の歩まれた道は、日本の思想家としても、日本人としても、もっとも真摯なものだったのではないかと思う。
下記は本書からの抜粋
(文章が省略してあることをご了承ください。また文中の太字は私によるもの)
まえがき
少し前に、ある新聞社からいじめられている子どもたちに向けて何かメッセージを書いてほしいと頼まれたことがあった。いまさらとくに書く必要はないと丁重にお断りした。この問題に関して僕の考え方は、一貫している。いじめるほうもいじめられるほうも両方とも問題見だ、ということだ。
僕自身いじめっ子だったという過去がある。たいていのクラスにはいじめられやすい子というのがいた。何となく恐縮したような雰囲気だったので、からかいやすかったせいだと思う。僕は腕白で悪童だったから、先頭を切ってからかったり、小突きまわしたりしていた。
ある日、いつものようにクラスのいじめられっ子を追いかけまわし、馬乗りになっていたら、その子は履いていた自分の下駄を脱ぎ、その下駄で僕の頭を思いっ切り殴った。頭を股られた僕は、一瞬フラフラして、何か起きたのかすぐにはわからなかった。そして次の瞬間、膝がガクガクし、地面に膝をついていた。その隙にその子は走って逃げていった。
この野郎、生意気だ。不思議なことにそういうことは一切思いつかなかった。逆に僕は、面白半分に人のことをからかったり、いじめたりしてはいけないと本気で思った。いじめる根拠があるのならまだしも、その子には関係のない自分のうっぷんを晴らすためや、まったく違う目的でいじめたり、からかったりすることはよくないことだ、と大変反省させられたという記億がいまもある。
いじめられていた子にとって、下駄で股るというのは最後の切り札だったのかもしれない。力いっぱい頭を殴られたことで、僕は目が覚めた、といえば大げさだが、それ以上のことをする気も何もなくなってしまうくらい衝撃を受けた。
真剣に自分の人生を生きている、そういうことに気づかされた瞬間だったと思う。誰もが生死を懸けて自分の人生を生きている。当たり前なようで、誰も当たり前には思っていないのかもしれない。
いま、世の中を見ていると、すべてが逆な方向に進んでいるような気になることがある。あまりにも常識的な「問い」と「答え」にあふれ、実は本当に考えるべきことを考えずに、考えなくてもいいことを考えているのではないか。滑稽ですらある。
まずは、どうでもよさそうなことから考えてみる。そういった視点が必要なのではないか。これまでとはちょっと違う部分を見る。そうしたことで少しは世の中の見方が変わっていく可能性があるかもしれない。そんなことを期待して本書にとりかかることにした。
善悪二元論の限界「自分の毒に責任をもつ」
本を読むことが、人をどう変えるかということに関しても、人さまざまでしょう。高度な感覚や心を持ち得ることで、人間としてよくなるという観点もありますが、その一方で、毒がまわていることにも注意しなければなりません。
お金に毒があるということは、誰もがよくわかっていると思います。お金は怖い、お金は人を変えるという話をよく耳にするからです。しかし、文学や本といったある種芸術的なものにも利と毒の両面があるということは、あまり意識的に考えていないのではないかと思います。世間一般では、物事の毒がどこにあるかわからない、あるいはそれが存在することすらもわからない、という人が多いのではないかと思います。
これは文学に限りません。なにごとにおいても、いいことばかりではなく、毒のほうもきちんと言わなければならないと思っています。また自分自身の問題として、時にはどういう毒が自分にまわっているかということも冷静に考えることをしないと、大きく間違ってしまうこともあるのではないでしょうか。
毒というのは利と一緒にある。そして逆説的な言い方をすると、毒は全身にまわらないと一丁前にならない、という印象もあります。一丁前の作家でも詩人でも、文字を書いて仕事をしている人は、必ず毒がまわっています。
そういう人は、せめて毒をそのまま出さないようにしたり、あるいは毒を超越するようにしたりと、絶えず考え続けることで、かろうじて均衡を保っているというのが妥当なところでしょう。
ー(p39 - 40)
本物と偽物「いい人と悪い人」
僕は、男女問題に限らず、一般の人間関係においても、いい関係かどうかを判断する基準というものを持っています。それは、お互いが言いにくいことをきちんと言えるかどうかです。
だから、文章を書く場合でも、できるだけ言いにくいことを書こうとするわけです。言いやすいこと、言うと褒められそうだと予想できることは、意識的にあまり言わないようにしよう、と考えています。
言いにくいことを言うことが、なぜいいかというと、その行為が自己解放になるからです。主観的ではありますが、周囲の社会や人間関係において感じるさまざまな僻屈から解放される一番の方法は、言いにくいことを言うことです。
もちろん言いにくいことの内容が、社会的に判断して、どういう結果を招くことになるかを考えておくことは必要ですが、それでも、言いにくいことを言えたときの解放感は何ものにも代えがたいものがあります。
でも、人間の好き嫌いに関して発言するときは、かなり慎重になったほうがいいと思います。たしかに僕も、さまざまな意味で、人間に対する好き嫌いの感情を持っています。とくに主題を限定した上での好き嫌いというのは、あると明確に言えます。でも、特定の人間を指して、その人が好きか嫌いかと漠然と聞かれたら、それははっきりと答えられないと思うのです。
実際には、主題を限定した場合の好き嫌いが、その人に対する全人的な好き嫌いの評価になってしまいがちです。僕にとっての理想というのは、そうした判断の仕方が僕の中からなくなることです。
たしかに、主題を限定すれば、嫌いな人を好きになる可能性だってもちろんあります。だからといって、ある主題に限定して、その人が好きか嫌いかを判断するのはやめたほうがいいと僕は確信しています。
しかし、自分自身がうまくそれができているかどうかはまた別なことで、できていない部分があるかもしれません。そもそも、好きな人、嫌いな人という判定自体が不可能です。
つまり、人間というものを一つのイメージとして考えた場合に、ある視点から言えば嫌いだけれども、違う視点から見ると、その同じ人が好きだという面を人間は必ずと言っていいくらい持っているからです。
ですから、特定の主題によって人の全人格に関して好き嫌いを判定する、そうした判定の仕方をとらないですむ精神状態を保っていくようにしていければと思っています。
ー(p111-115)
才能とコンプレックス「人間にとって一番大切なこと」
人間にとって大切なことはきっとたくさんあると思います。そして、たぶん多数の人が、人間として大切だと思っているものはやっぱり大切に違いありません。でも、実際は、自分の性格や成り行きなど、さまざまな理由で、人間として大切だと思えることとの距離感があって、なかなかそこにいけない状態にいることが多いものです。
でも、人間として大切なことを考えたり、それを実現するために自分の行動の仕方を変えたりする意識が重要なのではないでしょうか。それは、社会全体にとっても重要なことではないかと思います。僕はそういうことを、いつでも考えていますし、つねに自分の頭の中に置いています。
社会にとって本当に大切なものは、どこかにあることは確かです。では、それはどこかと言えば、少なくとも、大多数の一般の人が認めているところが、きっと人間にとって一番犬切なところではないでしょうか。
それに自分が近づこうとしても、自分の気持ちが乗っていかない、あるいは事情があってそうはなれない、そういうことが日常生活の中では多く起こります。でも、そのギャップを考え続けていくことが、もっとも示唆に富んでいるような気がします。そうした意識を持つことこそが、生きる上で「大切」という言葉にふさわしいのでしょう。
若い頃から、そのことはつねに気にかかるところでした。その時代の社会的な状態や、自分の気持ちの据わり方の状態などにより、また年代や年齢によって違うことはあると思いますが、その中で一貫していたことはと言えば、こうしたことを自分の頭で考えてきたことです。
大切なことはその都度変わっていきます。だから何か人生で重要だというふう亘一日われたら、ずっと一貫して、大切なものと現状の自分との距離について考えていくことだと思うのです。
おまえの一番大切なことは何かと間かれると、人によって、誠実であることが重要だとか、愛情が重要だとか、一人一人言い方が違うと言っていいくらいです。たしかにそれはどれもみんな重要でしょう。
でも、自分にとって真に重要なことは何なんだと突きつけられたら、僕ならこう答えるでしょう。その時代時代で、みんなが重要だと思っていることを少し自分のほうに引き寄せてみたときに、自分に足りないものがあって行き得なかったり、行こうと思えば行けるのに気持ちがどうしても乗らなかったりする、その理由を考えることだ、と。
みんなが重要だと思っていることというのは、大多数の人が考えている、あるべき人間の要、あるべき性格、あるべき環境など、いろいろなものが含まれるでしょうが、そこにはなかなか達することができないために、その時々で葛藤が生じるのです。
そうした葛藤を僕はいつも感じています。それが人間にとって重要かどうかは人それぞれですから、何とも言えませんが、僕の中に一貫してある思いというのは、どうもそれだという気がします。
では、僕にとって現在、具体的に何か重要か。一つは体のことがあります。老齢にまつわるさまざまな問題を解決することはできないでしょうが、そうした主題でものを書くことで、解決に少しでも近づくのではないかと考えたりもします。自分の身辺のことを考えても、若い頃とは違う思いがあります。女房の病気が少しでもよくなってほしい、子どもが介護でくたびれて参ったというようにならないでくれたらいい、などと書くことで解決に近づくことがあるかもしれません。
時代、時代にいろいろ変わる一つ一つの課題というか、問題に対して自分なりにアプローチを考えたり、いかに克服していくかというプロセスを考えることは、僕にとってもっとも長続さしている習慣のようなものです。つねにその時々が選択であって、これは忘れたほうがいい、これは考えないほうがいいと判断していく。人生はその積み重ねです。
◎[Amazon]真贋(講談社文庫)/吉本隆明
少し前に、ある新聞社からいじめられている子どもたちに向けて何かメッセージを書いてほしいと頼まれたことがあった。いまさらとくに書く必要はないと丁重にお断りした。この問題に関して僕の考え方は、一貫している。いじめるほうもいじめられるほうも両方とも問題見だ、ということだ。
僕自身いじめっ子だったという過去がある。たいていのクラスにはいじめられやすい子というのがいた。何となく恐縮したような雰囲気だったので、からかいやすかったせいだと思う。僕は腕白で悪童だったから、先頭を切ってからかったり、小突きまわしたりしていた。
ある日、いつものようにクラスのいじめられっ子を追いかけまわし、馬乗りになっていたら、その子は履いていた自分の下駄を脱ぎ、その下駄で僕の頭を思いっ切り殴った。頭を股られた僕は、一瞬フラフラして、何か起きたのかすぐにはわからなかった。そして次の瞬間、膝がガクガクし、地面に膝をついていた。その隙にその子は走って逃げていった。
この野郎、生意気だ。不思議なことにそういうことは一切思いつかなかった。逆に僕は、面白半分に人のことをからかったり、いじめたりしてはいけないと本気で思った。いじめる根拠があるのならまだしも、その子には関係のない自分のうっぷんを晴らすためや、まったく違う目的でいじめたり、からかったりすることはよくないことだ、と大変反省させられたという記億がいまもある。
いじめられていた子にとって、下駄で股るというのは最後の切り札だったのかもしれない。力いっぱい頭を殴られたことで、僕は目が覚めた、といえば大げさだが、それ以上のことをする気も何もなくなってしまうくらい衝撃を受けた。
真剣に自分の人生を生きている、そういうことに気づかされた瞬間だったと思う。誰もが生死を懸けて自分の人生を生きている。当たり前なようで、誰も当たり前には思っていないのかもしれない。
いま、世の中を見ていると、すべてが逆な方向に進んでいるような気になることがある。あまりにも常識的な「問い」と「答え」にあふれ、実は本当に考えるべきことを考えずに、考えなくてもいいことを考えているのではないか。滑稽ですらある。
まずは、どうでもよさそうなことから考えてみる。そういった視点が必要なのではないか。これまでとはちょっと違う部分を見る。そうしたことで少しは世の中の見方が変わっていく可能性があるかもしれない。そんなことを期待して本書にとりかかることにした。
善悪二元論の限界「自分の毒に責任をもつ」
本を読むことが、人をどう変えるかということに関しても、人さまざまでしょう。高度な感覚や心を持ち得ることで、人間としてよくなるという観点もありますが、その一方で、毒がまわていることにも注意しなければなりません。
お金に毒があるということは、誰もがよくわかっていると思います。お金は怖い、お金は人を変えるという話をよく耳にするからです。しかし、文学や本といったある種芸術的なものにも利と毒の両面があるということは、あまり意識的に考えていないのではないかと思います。世間一般では、物事の毒がどこにあるかわからない、あるいはそれが存在することすらもわからない、という人が多いのではないかと思います。
これは文学に限りません。なにごとにおいても、いいことばかりではなく、毒のほうもきちんと言わなければならないと思っています。また自分自身の問題として、時にはどういう毒が自分にまわっているかということも冷静に考えることをしないと、大きく間違ってしまうこともあるのではないでしょうか。
毒というのは利と一緒にある。そして逆説的な言い方をすると、毒は全身にまわらないと一丁前にならない、という印象もあります。一丁前の作家でも詩人でも、文字を書いて仕事をしている人は、必ず毒がまわっています。
そういう人は、せめて毒をそのまま出さないようにしたり、あるいは毒を超越するようにしたりと、絶えず考え続けることで、かろうじて均衡を保っているというのが妥当なところでしょう。
ー(p39 - 40)
本物と偽物「いい人と悪い人」
僕は、男女問題に限らず、一般の人間関係においても、いい関係かどうかを判断する基準というものを持っています。それは、お互いが言いにくいことをきちんと言えるかどうかです。
だから、文章を書く場合でも、できるだけ言いにくいことを書こうとするわけです。言いやすいこと、言うと褒められそうだと予想できることは、意識的にあまり言わないようにしよう、と考えています。
言いにくいことを言うことが、なぜいいかというと、その行為が自己解放になるからです。主観的ではありますが、周囲の社会や人間関係において感じるさまざまな僻屈から解放される一番の方法は、言いにくいことを言うことです。
もちろん言いにくいことの内容が、社会的に判断して、どういう結果を招くことになるかを考えておくことは必要ですが、それでも、言いにくいことを言えたときの解放感は何ものにも代えがたいものがあります。
でも、人間の好き嫌いに関して発言するときは、かなり慎重になったほうがいいと思います。たしかに僕も、さまざまな意味で、人間に対する好き嫌いの感情を持っています。とくに主題を限定した上での好き嫌いというのは、あると明確に言えます。でも、特定の人間を指して、その人が好きか嫌いかと漠然と聞かれたら、それははっきりと答えられないと思うのです。
実際には、主題を限定した場合の好き嫌いが、その人に対する全人的な好き嫌いの評価になってしまいがちです。僕にとっての理想というのは、そうした判断の仕方が僕の中からなくなることです。
たしかに、主題を限定すれば、嫌いな人を好きになる可能性だってもちろんあります。だからといって、ある主題に限定して、その人が好きか嫌いかを判断するのはやめたほうがいいと僕は確信しています。
しかし、自分自身がうまくそれができているかどうかはまた別なことで、できていない部分があるかもしれません。そもそも、好きな人、嫌いな人という判定自体が不可能です。
つまり、人間というものを一つのイメージとして考えた場合に、ある視点から言えば嫌いだけれども、違う視点から見ると、その同じ人が好きだという面を人間は必ずと言っていいくらい持っているからです。
ですから、特定の主題によって人の全人格に関して好き嫌いを判定する、そうした判定の仕方をとらないですむ精神状態を保っていくようにしていければと思っています。
ー(p111-115)
才能とコンプレックス「人間にとって一番大切なこと」
人間にとって大切なことはきっとたくさんあると思います。そして、たぶん多数の人が、人間として大切だと思っているものはやっぱり大切に違いありません。でも、実際は、自分の性格や成り行きなど、さまざまな理由で、人間として大切だと思えることとの距離感があって、なかなかそこにいけない状態にいることが多いものです。
でも、人間として大切なことを考えたり、それを実現するために自分の行動の仕方を変えたりする意識が重要なのではないでしょうか。それは、社会全体にとっても重要なことではないかと思います。僕はそういうことを、いつでも考えていますし、つねに自分の頭の中に置いています。
社会にとって本当に大切なものは、どこかにあることは確かです。では、それはどこかと言えば、少なくとも、大多数の一般の人が認めているところが、きっと人間にとって一番犬切なところではないでしょうか。
それに自分が近づこうとしても、自分の気持ちが乗っていかない、あるいは事情があってそうはなれない、そういうことが日常生活の中では多く起こります。でも、そのギャップを考え続けていくことが、もっとも示唆に富んでいるような気がします。そうした意識を持つことこそが、生きる上で「大切」という言葉にふさわしいのでしょう。
若い頃から、そのことはつねに気にかかるところでした。その時代の社会的な状態や、自分の気持ちの据わり方の状態などにより、また年代や年齢によって違うことはあると思いますが、その中で一貫していたことはと言えば、こうしたことを自分の頭で考えてきたことです。
大切なことはその都度変わっていきます。だから何か人生で重要だというふう亘一日われたら、ずっと一貫して、大切なものと現状の自分との距離について考えていくことだと思うのです。
おまえの一番大切なことは何かと間かれると、人によって、誠実であることが重要だとか、愛情が重要だとか、一人一人言い方が違うと言っていいくらいです。たしかにそれはどれもみんな重要でしょう。
でも、自分にとって真に重要なことは何なんだと突きつけられたら、僕ならこう答えるでしょう。その時代時代で、みんなが重要だと思っていることを少し自分のほうに引き寄せてみたときに、自分に足りないものがあって行き得なかったり、行こうと思えば行けるのに気持ちがどうしても乗らなかったりする、その理由を考えることだ、と。
みんなが重要だと思っていることというのは、大多数の人が考えている、あるべき人間の要、あるべき性格、あるべき環境など、いろいろなものが含まれるでしょうが、そこにはなかなか達することができないために、その時々で葛藤が生じるのです。
そうした葛藤を僕はいつも感じています。それが人間にとって重要かどうかは人それぞれですから、何とも言えませんが、僕の中に一貫してある思いというのは、どうもそれだという気がします。
では、僕にとって現在、具体的に何か重要か。一つは体のことがあります。老齢にまつわるさまざまな問題を解決することはできないでしょうが、そうした主題でものを書くことで、解決に少しでも近づくのではないかと考えたりもします。自分の身辺のことを考えても、若い頃とは違う思いがあります。女房の病気が少しでもよくなってほしい、子どもが介護でくたびれて参ったというようにならないでくれたらいい、などと書くことで解決に近づくことがあるかもしれません。
時代、時代にいろいろ変わる一つ一つの課題というか、問題に対して自分なりにアプローチを考えたり、いかに克服していくかというプロセスを考えることは、僕にとってもっとも長続さしている習慣のようなものです。つねにその時々が選択であって、これは忘れたほうがいい、これは考えないほうがいいと判断していく。人生はその積み重ねです。
◎[Amazon]真贋(講談社文庫)/吉本隆明
by yomodalite
| 2013-12-09 08:00
| 宗教・哲学・思想
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