哲学の冒険 マトリックスでデカルトが解る/マーク・ローランズ

哲学の冒険―「マトリックス」でデカルトが解る

マーク ローランズ/集英社インターナショナル

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本書は、こちらのコメント欄で、hizirinosatosiさんから、ご紹介いただいた本なのですが(感謝!)、大分時間が経ってしまったものの、ようやく手にすることが出来て、すっごく面白かったので、私も紹介したいと思いました。

まず、タイトルには「マトリックスでデカルトが解る」とありますが、

第1章 「フランケンシュタイン」で実存主義が解る
第2章 「マトリックス」でデカルトが解る
第3章 「ターミネーター」で心身問題が解る
第4章 「トータル・リコール」&「シックス・デイ」でアイデンティティ論が解る
第5章 「マイノリティ・リポート」で自由意志が解る
第6章 「インビジブル」でカントが解る
第7章 「インデペンデンス・デイ」&「エイリアン」で黄金律が解る
第8章 「スター・ウォーズ」でニーチェが解る
第9章 「ブレードランナー」で死の意味が解る


出版社は「人気映画を題材に哲学の理論を痛快に解き明かす!」と豪語し、デカルトだけでなく、カントや、ニーチェや、実存主義まで「解る」といいたげですが、残念ながら、そんなに甘くはなく、そもそも哲学とは「解る」ものではなく、疑ったり、考えたりすることを、生きている間のすべてに要求するもので、著者も「序文」で、

哲学とは「知る」ことではなく「する」ことに関する学問である。

と言っています。

思想・哲学分野の本は、ハズレ率の高さがハンパない分野で、知ったかぶりな著者が、同様に知ったかぶりたい読者のために、わかっている風に書くという「芸風」が蔓延していて、有名な思想家を「ダシ」に、あまり関係のない自分の主張をしてしまっているような本が多いのですが、

本書は、そういった哲学を「する」こともなく、安易に「利用している」人が書いた本とは異なり、著者には、若い学生を哲学の世界に惹き込もうという気持ちがあり、また映画紹介本としても面白いので、私は本書をきっかけに『フランケンシュタイン』を楽しむことができました。

また、SFを作家として創り、優れた現代批評を行なってきた、翻訳監修者である筒井康隆氏の解説が素晴らしいので、2005年の出版から8年経っていることですし、

要約したり、省略せず、下記に全文引用します。

監修者解説 筒井康隆

優れた映画はおしなべて哲学的だが、中でもSF映画は、SFがそもそも文明批評を基盤にしている上、現実の一部をエクストラポレーション(外挿法)によって拡大し、この傾向がこのまま進行すれば未来はどうなるかという思索によって読者に驚き(センス・オブ・ワンダー)をもたらすものである以上、どんなSF映画も思索的であると言え、すべてのSFのSはスペキュレーティヴ(思索的)のSだと言う人もいて、ただの怪獣映画、宇宙活劇といえどもそこには必ず何らかの哲学的命題が含まれているのだ。
 
本書の著者はイギリスのハートフォードシャー大学で哲学を講じている教授である。学生たちに何とか哲学に興味を持たせ、その何たるかを教えようというのでSF映画を持ち出してきたところにアイディアの妙がある。本書はこの著者の授業の内容を本にしたもので、たいていの若者が見ているSF映画から哲学的命題を引き出してきて、わかりやすく論じている。いわばSF映画による哲学概論であり、この着想はたいへん優れている。
 
むろん、高い哲学性が含まれているものとしてSF映画すべてをひとしなみに扱うことはできない。小生などは例えば『未来世紀ブラジル』を優れた記号論として高く評価するし、それ以外にもここに取り上げられていないSF映画の中にもっと優れた作品がたくさんあるのだが、この著者はあくまで聴講生や読者のために、できるだけ多くの人が見ている、人気のあった映画のみを俎上にのせて論じ、意外な映画から意外な命題を導き出しているのだ。だから読者諸君は、序章で著者が進言するように、「各章を読む前に、その章が扱っている映画を見ておく」のがよいだろう。すでに見ている読者も、ビデオ店から借りてきてもう一度参考にされるがよい。二、三の章で、たとえ哲学的思索が次第にその映画から離れていくように思うことがあっても、哲学のとっかかりに学ぶ者が必ず困惑するあの取っつきにくさは、幾分かは軽減されている筈だ。
 
第一章では映画『フランケンシュタイン』によって「不条理」という哲学の概念が説明されている。映画『フランケンシュタイン』はポリス・カーロフがモンスターを演じた昔のものではなく、ロバート・デ・二ーロがモンスターを演じた新しい方である。著者はその理由を「デ・二ーロのモンスターの方が知的で繊細だから」としていて、これはわれわれが自分自身を見る眼と他から見られる眼の矛盾について悩む人間的悩み=不条理が、よりよく表現されているからである。
 
「不条理」という哲学用語に間しては、この用語を好んだフランスの実存主義の作家・哲学者アルベール・カミュによる説明「シーシュポスの神話」を援用して論じている。ご存じのようにカミュには他に『異邦人』という問題作もあるが、この主人公がすでにフランケンシュタインのモンスターとの類似を示してもいる。不条理に対する人間のむなしい反抗を描いたこの作家を最初に登場させ、その説明をデ・二ーロ演じるフランケンシュタインのモンスターと対比させたのは、何故か縦笛を演奏できるというこのモンスターの人間性によって、存在の意味、生の意味を探求する究極的な哲学の大命題への導入部にするためだ。
 
第二章で登場するのは映画『マトリックス』ー 現在では続編が製作されたが、ここではあくまで最初の方の『マトリックス』である。これは五十年前に発表されて当時SF界で話題になった、わが実弟俊隆の書いた唯一の小説『消去』とまったく同じ設定のSFであり、巨大人工知能によって人間すべての脳が溶液に浸され、その中でプログラムされた仮想現実をいっせいに夢見ているという世界の話である。映画の方では、自分か長年生きてきた世界が現実ではなかったと知った主人公が、この人工知能つまりマトリックスと対決し、救世主(the One)と呼ばれる存在になる。
 
このSFの世界を現実に置き換えて思索すれば、それはデカルトの認識論になると著者は説明する。20世紀のカミュから17世紀のデカルトに飛ぶことでおわかりのように、登場する哲学者たちは年代として逐次的ではないので、この本はいわゆる哲学史にはなっていない。あくまで哲学的に思索する方法や論理を教える講義になっている。

このデカルトの認識論というのは、どんな感覚による判断も信頼できず、1十1=2という数学的真理さえ神や霊がわれわれを編しているのかもしれないという懐疑主義であり、すべてを疑ったあとに残っているのは考えること ー つまり「疑う」ことは「考える」ことだから、「われ考えるゆえにわれあり」という第一の形而上学的真理にたどりつくのであり、まさに『マトリックス』の世界そのものであろう。ところが著者はそこにとどまっていず、自分の思考さえ確信できるのかという思索を、ニーチェやヒュームの論理を援用して現代的に敷衍している。
 
著者はどうやらアーノルド・シュワルツェネッガーの大ファンらしく、『ターミネーター』を取り上げた次の第三章ではなんと「シュワちゃん」を偉大な哲学者として「心とは何か」という「心身問題」を論じている。むろんシュワちゃんに仮託して自分の論を述べているのだが、オーストリアが誇る哲学者としてシュワちゃんの主演作品は次章でも採り上げられている。この『ターミネーター』も現在第三作目が作られたが、ここで論じられているのは『ターミネーター1・2』である。
 
「心身問題」つまり「心とは何か」というのは哲学的に重要な命題である。脳を観察しても心の状態はわからない。では物質的でない心がどうして『ターミネーター』におけるサイボーグに宿るのか。著者は物質的身体しか持だないサイボーグに非物質的な心が宿ることは絶対にないとする「二元論」を取りあげ、心がどんなものであるかが述べられていないことを理由にこれを退け、「唯物論」に向かい、ここからコンピューター・プログラムの世界に入っていって「神経回路網モデル」の実現可能性を論じている。
 
フィリップ・K・ディックは優れて哲学的なSF作家であり、次の第四章では彼の短篇「追憶売ります」を映画化した『トータル・リコール』が取りあげられる。以前の自分の記憶を消され、偽の記憶を植えつけられた男の話であり、主人公を演じるシュワちゃんは昔の記憶が戻れば今の自分は存在しなくなるというので自分の新しい生命のために戦うのだ。言うまでもなくここで問題になるのは自己同一性、ここでは人格同一性とされているが、つまりアイデンティティの問題である。古い記憶の持ち主が悪玉であるとすれば、その人格もまた自分なのか。
 
著者は一挙に紀元前の古代ギリシアに飛んで、ヘラクレイトス、アリストテレスという二大哲学者を引用する。身体的には無論のこと、記憶や感情など、すべての点で人間が同じ人物でいられる筈がないとするヘラクレイトスと、本質的変化がない限り存在は終らないとするアリストテレスを対比させて論じていて、『トータル・リコール』では主人公の新しい記憶こそ本質的だとする「記憶論」を支持してアリストテレス寄りだったシュワちゃんは、十年後の映画『シックス・デイ』では進歩してヘラクレイトス寄りになったと説いている。ただし「人格の同一性などは存在しない」とするヘラクレイトスとは異なった理由からであると論じている。
 
『シックス・デイ』は自分のクローン人間に家庭を乗っ取られた男の詣である。著者はギリシアの哲学者の古臭い議論などから離脱して、シュワちゃんに託して自分の理論を推し進めた末に、ついには「われわれは存在しない」「自分というものは先行していた自分の生き残りに過ぎない」という結論にたどりついてしまう。「これが人格の同一性の問題」だと著者は言っている。
 
第五章では著者が哲学における最大最悪の問題だという「自由意志の問題」または「人間の尊厳の問題」が論じられる。取りあげられる映画はまたしてもディック原作の『マイノリティ・リポート』である。これはプリコグと呼ばれる、殺人を予知できる子供たちの力を活用して犯罪を予防する詣である。だが予供たちは、ある殺人の犯人が予防局のりIダーであるトム・クルーズであると予知してしまう。さて。トム・クルーズにその予知から逃れ、殺人を犯さないでいられるという選択ができるのかどうか。ここからが、われわれは本当に何でも自由に決定できるのか、われわれには自由な意志かおるのかという哲学的な議論となる。
 
著者は、神がすべてのことをあらかじめ定めたというルターなど神学者の神学的決定論、つまり「予定説」や、すべては神の本質の必然的な現れであるとするスピノザの「決定論」を説明し、さらに、神が宇宙の最初の状態を知っているのなら、これから起こるすべても予知できる筈という「ラプラスの魔」として有名な、19世紀フランスの数学者・天文学者ラプラスのことばを引用し、また18世紀イギリスの哲学者ヒュームの、正しい筋道による行動なら自由といえるが、強制されたものは自由ではないとする「両立主義」を引用し、結局は人間の自由など証明できず、尊厳もないのだという結論に達して、ハッピーエンドに終わる『マイノリティ・リポート』の哲学的不徹底さを指摘している。なるほど、最大最悪の問題ではある。
 
次の第六章は道徳の問題で、H・G・ウェルズ『透明人間』の映画としての最新版『インビジブル』が取りあげられる。これはまた紀元前ギリシアの哲学者プラトンが『国家論』の中で伝えた「ギューゲースの指輪」という話の作り替えであるとも言っているが、これらのいずれもが虚構とはいえ、まったく透明人間になったやつは必ず悪いことをするものであると感心する。『インビジブル』の主人公で透明人間になるケビン・ベーコンがさんが悪いことをするのは道徳的である必要がないから、つまり逮捕されないからだというのだが、ここから、では道徳的であるとはどういうことなのか、なぜ人間は道徳的であるべきなのかという哲学の大きな命題に入って行く。

 まず「万人の万人に対する戦い」で有名な17世紀のイギリスの哲学者ホッブスの社会契約説が紹介され、著者はこれを「自身の利益を推し進めるために他者と契約するのが道徳性であるというのは、例えばケビン・ベーコンの場合道徳的である必要はないのだから、これは空虚な道徳性になってしまう」と退ける。次にまたヒュームを登場させ、「人間はその内的自然から打算的であるよりも道徳的であることを好む」とした人文(道徳)哲学を紹介し、これも「その理由が述べられていず、単なる因果説明であり、道徳的理由が打算的理由に優ることを正当化していない」として退け、最後に18世紀ドイツの哲学者カントの「無矛盾性」という論理的な答えを次のように紹介する。「誰もが約束を破ったら、約束するという行為が無意味となり、人は約束することをやめてしまう。すると破る約束もなくなるのだから、約束は破られないことになるこれは矛盾したポリシーだから約束を破るというのは道徳的に間違っていることになる」

このようにわかりやすく哲学を説くのがこの本の狙いである。あるテレビの番組で若い男性が「なぜ人を殺してはいけないのか」と発言し、物議を醸した。

同席の大人たちが怒り、騒ぐだけだったのは、このような哲学に親しんでいなかったからである。カントの無矛盾性を持ち出すほどのことでもなく、ポップスの社会契約説だけで充分論破できた筈の議論なのだ。
 
しかしこの無矛盾性さえ、著者は「この説は、なぜわれわれ(人間)は道徳的であるべきかではなく、なぜ自分(個人)が道徳的でなければならないかを証明していない」として退けるのである。そしてこの問いは答えられる類いのものではないとまで言い回る。道徳的か利己的かは理性を超えた選択だというのだ。まことに哲学というのは奥深いものである。
 
ではこの道徳性の問題、相手が人間ではなく異星人であればどうなるのか。というわけで次の第七章では映画「インデペンデンス・デイ』と『エイリアン』を持ち出してきて引き続き道徳性の問題を論じている。引きあいに出されるのはまたしてもカントで、前章に続く「無矛盾性」に加え、「公平性」という概念が提示される。他人は自分の目標を推し進めるための手段であるだけではなく、目的として扱わねばならない、例えば配管工に工事をしてもらったら賃金を払う、これが公平性だというのである。さらに「最大多数の最大幸福」ということばで有名な18〜19世紀イギリスの法学者ジェレミー・ベンサムと、その門弟の息子で19世紀イギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミルという、功利主義を展開した二人を紹介している。
 
「インデペンデンス・デイににおける異星人は知能が高く、地球を襲って資源を根こそぎ略奪し、人間が反抗すれば種全体を消してしまう。こんな種族に対し、いかに道徳性の問題を話しあうかが問題となる。「無矛盾性」と「公平性」の原理は異星人にも通用する筈だ、と、著者は言う。

なぜなら異星人同士もこの原則を護っているからで、少なくとも人種差別や性差別に対しては理解できる筈だ。では『エイリアン』のシリーズ三作品における異星人はどうであろうか。この種族は人間の体内に卵を産みつけ、胸を突き破って出てくる。これは他の種族を手段として利用するだけだから明らかに「公平性」に反する生物種差別である。ではそのことをもってわれわれは彼らを説得できるのか。これはできないと著者は言う。そして著者はわれわれが他の生物種に対していかにひどいことをしているかをえんえんと論じた末、異星人をひどい種族と思うなら、われわれは鏡を覗いた方がいい、われわれ人問が他からどう見られているかを考えることこそがSFの大きなメリットであって、そこにこそ「無矛盾性」や「公平性」という黄金律の意義があるのだと結論する。

 現在『スター・ウォーズ』シリーズは五作品が公開されたが、第八章で収りあげられるのもこの全作品で、論じられる中心はダース・ベイダーである。つまりジョージ・ルーカスが示しているマニ教的二元論を手がかりにして善悪の問題を論じているのである。ダース・ベイダーに象徴される、悪を実在的で偏在するものとしたいスター・ウォーズには、悪を「善の不在」と見做すキリスト教会に逆らっているわけだが、そのキリスト教の教義がそもそも、第六章で登場したブラトンにまで潮ることから、哲学では避けて通れぬこのプラトンの「善のイデア」をわかりやすく解説している。ブラトンは、いろいろな善の中にも悪いものがあり、その善と悪の間にはいろいろな段階があり、その序列の最高に位置するのが完璧な善のイデアであるという。だからプラトンにとって最も実在的なものは善の形式であり、悪の形式というものはなく、悪とはただ善の不在、脱落、欠如に過ぎないのだ。
 
しかし『スター・ウォーズ』において、最も実在的な登場人物はダース・ベイダーではないか、と、著者は反論する。ここで援用されるのが19世紀ドイツの詩人で哲学者でもあるニーチェの立場であり、20世紀オーストリアの精神分析学者フロイトの昇華理論である。ニーチェは、キリスト教会の言うように悪を抑圧するのではなく、その原始的な衝動を昇華してこそ芸術的な人生が送れるのだと言う。これはのちのフロイト理論とほぼ同じ考えである。ダース・ベイダーは悪の衝動を抑圧して神経症にならなかったのはよかったのだが、その欲求を昇華させなかったので偉大な超人になれなかった、しかしもしダース・ベイダーが芸術的な人生を送ったとすれば、『スター・ウォーズ』はどんな映画になっていただろうかと著者は言う。欠点があるから面白いのだという、この章はおかしな結論になってしまう。
 
最後の第九章で、いよいよ哲学の最大の問題「死、そして生の意味」が論じられる。当然のことながらここで語られるのは20世紀最大の哲学者と言われるハイデガーであり、論じられるのは20世紀最大の書物と言われる「存在と時間」の中心命題である。そして取りあげられる映画『ブレードランナー』の原作はまたしても最高の哲学的SF作家フィリツプ・K・ディックの長篇『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』である。アンドロイドはここではレプリカントと呼ばれる、人間によって労働力のために作られた存在である。このレプリカントに反抗心を持たれては困るので、人間は彼らに四年間の寿命しか与えなかった。しかし彼らは暴動を起こす。これらのレプリカントを殺すための特捜班はブレードランナーと呼ばれ、主人公ハリソン・フォードもその一員だ。だが彼は次第に彼らの立場を理解するようになる。だからこの映画の意義は「死ぬべき運命」とでも言うべきものにある。
 
死は悪いことなのかという疑問がまず論じられる。では生はなぜいいことなのか。死によって奪われるものの価値が見つかれば、生の価値も見出せるのではないか。ハイデガーの言うようにわれわれは「未来へ向かう存在」であり、死は未来を奪うが、単なる欲求で非概念的に未来へ向かっている者と、未来に間する明確な概念を持って概念的に未来へ向かっている者とでは、死によって奪われるものの価値が違うのである。その価値こそがつまりは生の価値なのではないか。時間的に限界のない人生は人生ではない。死こそが人生のそれぞれの時間の意味を際立たせ生かしてくれるのであり、死がなければ本質的に意味をなすものはなくなってしまう。
 
だからこそ、と、ハイデガーは言う。死に向かいあうことが大切である、死に対して自分を投げ込む=企投することによって人生を先駆的に了解することができる、自分の人生の意味が了解でき、今何をなすべきかも知ることができると。
 
哲学はいろいろ、哲学者もまたいろいろである。アリストテレスの時代には神の存在を疑うことなどできなかった。だからこそ彼は神の存在を証明し、その後の哲学者たちも神の存在を疑わなかった。ニーチェに影響を与えたショーペンハウエルなどという厭世哲学者その他多くの哲学者は多くの哲学の徒を自殺に追いやりもした。ハイデガーは死を肯定的に論じることによって逆に生を価値あるものにした。神が死んだ今、われわれは哲学によって人生の価値を探求すべきだが、そのためにもわれわれ映画好き、SF好きは、ただ面白いだけでなく何故か心に引っかかるSF映画、優れて哲学的な命題を含む名作群を今1度、本書を手がかりにして哲学的に考察するべきであろう。

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Commented by mitch_hagane at 2013-09-07 11:25
おおっ、今回は労作ですねぇ。面白いです。

みっちはマルティン・ハイデガーに関心を持っています。
彼の『存在と時間』は難解そのもの。こんな本が『発売されるやいなや、またたく間に全ヨーロッパ中を席巻』したというのが不思議でなりませんぬ。
また、ハイデガーがナチの後押しで、フライブルク大学総長となった時の、あの格好のいい演説はなんだったのか?
『すべて偉大なるものは、嵐の中に立つ』プラトンの『国家』第6巻497Dの引用なのですが、すごい意訳です。

いつか、拙ブログでも扱おうと、かねてから画策しております。(笑)
Commented by 加代子 at 2013-09-07 16:06 x
 こんにちは~はじめまして!

読書と着物 の入ったブログ名に惹かれてきました(笑)
面白そうな本ですねェ。 映画も大好きなので
これなら読めそうです・・・もっとも外地なので
アマゾンからの購入はとても高いので 後々になりそうです。
Commented by yomodalite at 2013-09-07 22:11
>またたく間に全ヨーロッパ中を席巻したというのが不思議でなりませんぬ。

『存在と時間』が理解できないだけでなく、席巻も不思議でならなかったけど、「八百万」な意識でいたからですね。てっぺんに「God」という存在がいると、やっぱ席巻せざるを得ないんですよ。きっと。。

みっちさんのブログに登場する日が楽しみです。

ハイデガーのカッコいい演説や、『すべて偉大なるものは、嵐の中に立つ』の原文も是非交えてくださいね。
Commented by yomodalite at 2013-09-07 22:14
加代子さん、はじめまして!

>読書と着物 の入ったブログ名に惹かれてきました(笑)

ど、どこに着物が?って思われたでしょう(笑)一応「カテゴリ」の一番上に置いていて、近々、また申し訳程度に、なんか書かなきゃとは思っているんですが(笑)

今、ノルウェーにいらっしゃるんですね。ご主人、元CERNにいらっしゃったなんて、科学者の方なんですか? 私には素粒子も、量子力学も、ハイデガーより、もっと難しくて、ホント困ってます。
Commented by 加代子 at 2013-09-08 05:58 x
またお邪魔します・・・
カテゴリの きもの、しっかり覗いてきました(笑)
粋で素敵な着物ですね。
私はペラペラ系の着物が多いので 羨ましいわァ。

主人は 電気エンジニアで 最後は
殆どプログラマーの仕事でした。
CERNでは 全くの下働き(笑)
Commented by yomodalite at 2013-09-08 11:34
>主人は 電気エンジニアで

家のダーリンは答えるとすれば「IT系」ですが、家電の配線すらできないし(謎)、簡単な日曜大工的な仕事すら、私がやらされてる感じなので、、田舎暮らし出来そうになくて、、

家の補修とかで、はしごに昇るような「カッコいい」ところを、1度は見てみたいものだと、よく思ってます(羨)

>私はペラペラ系の着物が多いので

私のはペラペラというよりは、ボロボロ。。
ちょっぴり綺麗に見えたら、それは写真マジックです(笑)

加代子さんも着物をお召しになるんですね。
ノルウェーで着物なんて、、スイスの山荘での節子・クロソフスカを思い出してしまいますが、それとはまた違う、加代子さんの「お着物ライフ」も、今後ぜひ!
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by yomodalite | 2013-09-07 08:48 | 宗教・哲学・思想 | Trackback | Comments(6)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


by yomodalite