クインシー・ジョーンズ自叙伝/Quincy Jones、中山啓子 (翻訳) [1]

クインシー・ジョーンズ自叙伝

クインシー ジョーンズ/河出書房新社

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新たな読書がほとんど出来ないので、再読したかった本をこの機会に!という主旨でセレクトした本。以前読んだときは、目線がマイケルにばかり集中してしまって「もったいない」読み方をしてしまったという思いがあり、再読時には、アメリカ音楽界の巨匠による、音楽史をたっぷり味わおうと思っていました。

今回は、たっぷりというほど気持ちに余裕がないものの、本書は360ページで「2段組み」、登場する有名人も数多いので、記憶に残る箇所は読者によってかなり異なるとは思いますが、わたしが再読して意外だったのは、マーロン・ブランドの名前が頻繁に登場していたことでしょうか。

クインシーは、精神的に一番辛かった時期をブランドのプライヴェート・アイランドである「テティアロア」で休養していましたが、ブランド自身は晩年のほとんどを、マイケルの「ネヴァーランド」で過ごしていて、

クインシーの自叙伝は、マーロン・ブランドの自伝と同じぐらいアメリカの歴史と繋がっていて、特に黒人音楽に興味がある人なら、必読といっていいほど中身が濃く、また、ブランドに負けないほど女性にモテているという点でも華麗な内容なのですが、、

下記は、ブランドにも彼の恋愛遍歴にも関係のない、第44章「ビバップからヒップ・ホップヘ」という章から省略してメモしておきます。

(引用開始)

私は根っからのビバッパーだ。ありとあらゆる音楽を愛し、また創り出してもいるが、私の魂と音楽的宿命を定義するうえで、ビバップは不可欠のものだった。
 
ビバップといわれるジャズは、音楽にとどまらず、ひとつの姿勢であり、視点であり、ライフ・スタイルであり、人々、とくに黒人が芸術的に知的に自己表現する手段であり、同時にそうしたすべてを可能にする沈着さを維持する術でもあった。ビバップは、表現形式というよりも感じ方、つまり全世界に及ぶ支持者の共感のネットワークだった。

ビバップの世界では、曲のタイトルそのものが認識の変化を示した。たとえば《ハズ・エニバディ・シーン・マイ・ギャル?》(誰か僕の彼女に会ったかい?)というような従来のタイトルではなく、チャーリー・パーカーは(オーニソロジー》(鳥類学)を思いつき、セロニアス・モンクは《エピストロフィー》(回帰)を書いた。
 
シアトル時代、私や友人たちは、いわゆる知的スノッブだった。周囲には好奇心の強いミュージシャンが犬勢いた。私たちは13、14歳のころに『カーマ・スートラ』、オマル・ハイヤームの『ルバイヤート』、カリール・ジブランの『ザ・プロフェット』、L・ロナルド・ハバードの『ダイアネティックス』などを読んでいた。

◎[Amazon]バートン版「カーマ・スートラ」(角川文庫)
◎[Amazon]ルバイヤート(岩波文庫)
◎[関連記事]カリール・ジブラン
◎[Amazon]ダイアネティックス
◎[Wikipedia]サイエントロジー

ブラック・ミュージックには、常に公民権を奪われた人々が心理的・精神的・創造的に生き残る支えになるためのサブ・カルチャー、私たち白身の社会を生み出す必要があった。私たちは私たち白身のスラング、ボディ・ランゲージ、イデオロギー、感性、音楽と共存する生き方をみつけた。ビバップはサブ・カルチャーをもたらしたが、ヒップ・ホップはカルチャーそのものになった。

ヒップ・ホップはいたるところにある。それは新しいジャンルの例にもれず、ストリートから生まれた。そして、技巧的な西欧のコンサート・ミュージックと対照的な、生命力あふれるアフリカン・ミュージックの伝統を引き継ぐ、それなりに強烈な表現形式だ。チャック・Dの言葉を借りれば、“ヒップ・ホップはストリートのCNN”となる。

私はヒップ・ホップを旧世代のコミュニケーションの継続と提えている。40年代にレスター・ヤング、カウント・ベイシーやサブ・カルチャーを形成した人々は、“ホームボーイ” あるいは “ラップ” という言葉を使っていた。また、ビバップは器楽編成ばかりか、スキャット、ヴォーカリーズや生き方や姿勢でもあった。ヒップ・ホップは、ときには荒廃した社会の末端で発生し、なかにはさまざまな闘争によって、最悪の場合、ブラザーがブラザーを殺す暴力によって汚されたものもある。そうしたヒップ・ホップのほとんどは、ラッパーではなく “現実感” という名のもとに音楽を私物化したチンピラによって残された。
 
私たちの国のもっとも大きな文化的貢献は、ジャズやゴスペルであれ、ブロードウェイ・ミュージカルやバーバーショップ、ドゥワップであれ、ビバッブやリズム&ブルースであれ、私たち自身の多様性を反映している。現在では、きわめてハードコアなラップでさえ、エストニア、パリ、アフリカ大陸、東京はいうまでもなく、ダラスのショッピング・モールでさえ流れている。私とクラレンス・アヴァン夫婦がはじめてドイツのプリンセスの城に招かれたとき、彼女の12歳の息子は、スヌープ・ドギー・ドッグとドクター・ドレを聴いていた。それは、アフリカの原動力と趣をもつ私たちの “作り立てのガンボ″ だ。
 
現在ラップと呼ばれるものがはじめて私のレーダー・スクリーンに現れたのは、1960年代のことだった。私は、ラスト・ポエッツやギル・スコット・ヘロンといったパフォーマーに注目した。そして1975年には、アルバム『メロウ・マッドネス』で、人気グループ、ワッツ・プロフェッツによるラップ、《ビューティフル・ブラック・ガール》をフィーチャーした。ワッツ・プロフェッツは、いわばロサンゼルス版ラスト・ポエッツやギル・スコット・ヘロンだった。彼らは詩的なコール・アンド・リスポンス(応答形式)のチャントを使った。私はそれにアフリカのファンキーなパーカッションをちりばめた。


◎QUINCY JONES & THE WATTS PROPHETS - Beautiful Black Girl





1979年には、ショーとシルヴィア・ロビンソンのレーベルがシュガー・ヒル・ギャングの『ラッパーズ・ディライト』を!100万枚売り、ラップが商業的成功を収めうることを音楽業界全体に知らしめた。私は1980年にアルバム『ザ・デュード』で7度目のグラミー賞を受賞した。その10年後、私にとっての音楽的融合における実験作「バック・オン・ザ・ブロック』で、アメリカのゲットーのどの街角にもいるデュード(気取り屋)、誰もが手本にしたボスの記憶を甦らせた。だが業界の主流派からは、私が行きづまっていると口々に言われた。彼らはいちように “ラップは終わった” とみなした。1989年のことだ。(p298 - 300)


◎Sugar Hill Gang - Rappers Delight





◎Quincy Jones - The Dude





◎Quincy Jones - Back On The Block






『ヴァイブ』のキース・クリンクスケールズ、そして、ドクター・ドレ、ア・ドライブ・コールド・クウェストやパブリック・エネミーのメンバーをはじめ多くのラッパーの姿があった。
 
クラレンス・アヴァンとコリン・パウエルは、ヒップ・ホップによって解放された怒りは、堕落でなく解決という、よりポジティブな方向に向けられる必要があると訴えた。パネリストたちは、たとえ怒りが行動を起こすきっかけになるとしても、そのパワーは破壊や抹殺につながる使い方をするものではなく、良心に委ねるべきものであり、表現の仕方には責任を負うべきであると口々に語った。あきらかにラッパーたちは、彼ら白身の運命を管理するためにも結束を図る必要があった。
 
ラップ界には、“エンターテインメントはエンターテインメント”とラップしつづける若者たちがいた。そのひとり、デフ・ジャム・レコードの重役ジェイク・ロウブレズは、1週間後、アトランタで射殺された。だが、私にとってビバップとラップの関連性は、知識で培われるという点だ。

ヒップでいるためには、さまざまな事情に通じていなければならない。シンポジウムは、それを意識したヒップな企画だった。私たちはラップ以外にビジネス、テクノロジー、影響力を急速に拡大するインターネットをテーマとして取り上げた。
 
だが、その余波は、ラップがさらに商業的成功を収めると同時に、暴力による抗争が激化するというほろ苦いものだった。東海岸のグループと西海岸のグループの対立関係は、心理劇の様相を帯びた。


☆クインシー・ジョーンズ自叙伝[2]2PAC に続く



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by yomodalite | 2013-03-28 09:18 | 現代文化・音楽・訳詞 | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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