ブッダは歩むブッダは語る ー ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う/友岡雅弥

ブッダは歩むブッダは語る―ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う

友岡 雅弥/第三文明社



この本は「こちらのコメント欄」でお勧めされて読みました。
Mさんありがとうーーー!!! とても素敵な本でした。

著者は、大阪大学文学部卒業後、同大大学院博士課程修了(インド哲学専攻)され、1991年にはインドと日本の国交回復40周年を記念した公式行事で講演も行なっている方。

最初、著者が、ブッダに挑戦しようと考えたのは、フーコーの『言葉と物』『知の考古学』を読んでからでした。と書かれているのを見て嫌な予感がしたんです。

そのあとすぐにデリダの名前も登場して、仏教を語るのに、フランス現代思想を多用し、複雑でもないことを、あえて複雑に、ムツカしい言葉や、外国語で、ごまかしつつ、フワフワしたようなことを、ダラダラと書いてあるか、もしくは、最新の物理学から、仏教はスゴい!とか、、そんな、よくありがちな本かと。

でも、この続きを読んでみたら、全然そうではありませんでした。

はじめに。から、省略して引用します。

ウォルター・ベンヤミンは、友に宛てた手紙の中で、こう述べています。

真っ暗な闇の中を歩み通す時、助けになるものは、橋でも翼でもなく、友の足音である

友とは暗闇の中ですがりつく対象ではありません。携帯で呼び出すと、飛んでくるだけの人ではありません。もちろん、友はそういうこともしてくれます。でも、それだけでは「都合の良い人」であっても友ではありません。

友も歩いているのです。私のように歩いているのです。その存在を想うだけで、その足音だけで、私は1人で歩けるのです。姿が見えなくてもよいのです。離れていてもよいのです。私にとって、仏教という宗教は、このベンヤミンの言葉における「友」のニュアンスに近いものがあります。

真っ暗な道を歩く、しかも1人で歩く。その時、友の足音を聞き取れる人は、勇気を持って前に進むことができるでしょう。仏教がもたらす人生への確信というものはこういうものであると思います。

仏教は信じているだけで、ひとりでに暗闇が明るくなったり、自分が歩かなくても自動的に目的地まで連れて行ってくれることを望む「魔法」の類いではありません。真っ暗な闇を、1人ではないという確信をいだきながら、1人で歩み通す人をつくる信仰なのです。

この本の目的は、1人歩む人をつくろうとした1人の「独りあゆむ人」
ゴータマ・ブッダの姿をできるだけリアルに描くことにあります。


(引用終了)

本書は、これまで、仏教に対して、何らかの疑問を抱いていた方には、
特にとても魅力的で、納得する箇所が多い本だと思います。

去年の冬頃から、ジョン・レノンが、ブッダや仏教をどう考えていたか。について、探ったり、想像していて、少しづつ、私もブッダの姿を想像するようになり、イエスや、ブッダや、モーセといった人々は、全員「反逆者」として登場し、遺された者とその集団は、徐々に体制的になっていく。という歴史には例外がないこともよくわかってきました。

誰もが共感しそうなエピソードや、感情から説明しようとして、仏教とも、ブッダとも、何の関係もない話をする「仏教者」や「スピリチュアル業界の人」は大勢います。語っている人自身が魅力的なのだとは思いますが、友岡氏のように、ブッダの実際の姿にこだわり、親切に書いてくれている本は少ないと思います。

下記は、本書から「グッとくる言葉」を紹介します。(一部要約しています)
これらの言葉が、どのように説明されているかは、本書をぜひお読みください。


(引用開始)

仏教がきわめて現実批判的な、そして神秘性を徹底して排除した宗教であることを示そうと思いました。(P.2)


ブッダは、現状認識を曇らせる甘い幻想を排除します。私たちと幻想との蜜月関係は存在しません。幻想の破壊者としてのゴータマ・ブッダにできるだけ迫りたいというのも、この本の目的です。(P.7)


他者への「冷たいまなざし」が「権力」の特徴です(P.8 )


「痛み」を感じることなく、誰かを「悪」と決めつける。「痛み」を感じることなく、自分のやっていることを「善」と思う。これこそ、もっとも避けなければならない態度でしょう。(P.18)


アナキン・スカイウォーカーのあまりに澄んだ目に、ダース・べーダの心が宿るのです。

空虚な明るさ、単純なプラス思考がどれほど精神をむしばむかは、ここ数年、各種の「自己啓発セミナー」が心に与える悪影響についての研究や調査が発表されてきたので、それにつれて少し理解されるようになってきました。

この「多幸の罠」に抵抗するのは、今世紀最大の神学者の1人であり、ナチスと戦ったパウル・ティリッヒの名著『生きる勇気』で示唆したあの姿勢ーーそう、「にもかかわらず(trotz)」です。(P.25)


落語の中で僧侶は、大抵、辛辣な批判の対象、笑いの対象になっています。徳川幕府体制の走狗となり、幕府権力にまつろわぬ人々を、寺院の人別帳から外すなどして、排除した仏教諸勢力は、庶民のあからさまな嘲笑の対象となっていたのです。(P.35)


ブッダが解決しようとした根本問題とは何か。ブッダが治そうとした「重い病」とは何か。それは、病者とその周囲の人たちとの、相互不信なのです。(P.49)


ブッダのなそうとしていたことは、当時の社会にあった「慣習」や「常識」に対する挑戦であったということが分かります。いや、それだけではなく、「当時の社会」に対してだけではなく、慣習や常識、「みんながしているから」「昔からの習わしだから」と、自らの行為を常に不問に付す態度や人間の精神の堕落に対する挑戦であったということが分かります。(P.81)


少し考えれば、少し実証的になれば、虚構だとわかるはずのものなのに、しかし、考えさせずに、感情に訴える。感情に訴えるが故に、一見それは、分かりやすく見え、多くの支持を得るのです。(P.116)


直接的暴力とは、力であり武器、兵器です。しかし、間接的暴力、組織的暴力、社会的暴力とは、物事の複雑性を見ることを嫌がり、すべて単純に善・悪などに分けて、人なり物事なりを、「悪」や「敵」としてレッテルを貼り、「一件落着」させようとする態度をいうのでしょう。

智慧とは、単純化しないこと、常に排除されがちな「他者」「少数者」を思考の視野に入れ続けることであると思うのです。(P.117)


智慧とは「魔力に抗する力」なのです。「神通力」「魔法の力」とは何でしょうか?それは、物事をあっけなく片付ける力です。

精神分析学者のエーリッヒ・フロムは、人間のもつ「負の性向」として、魔術的性向を挙げていました。魔術はパッと鳩が出ます。パッと人が消えます。そのように、魔術的性向の人は、ある人に少し優しくされただけで、その人が全面的に「いい人だ」「イケてる」と思い、その同じ人にちょっとキツく言われただけで「ヤなやつ」と評価が極端から極端にブレるのです。(P.118)


(智慧とは)とにかく安易に、“魔術的に”、結論を出さず、いつも自分の出した結論を相対化し、さらに実相に迫ってゆく「精神の良心的な態度」をいうのです。智慧とはあくまで多様へと開かれ、単純化という暴力に抗する力なのです。(P.120)

(ブッダの言葉から)

世界はすべて輪廻的存在にすぎず、うつろい行く。私は自身(アートマン)の定まるところはないかと、求めさすらったが、自分の立場に誰もが固執していて、そうでない人などいなかった。それぞれが自分の立場を究極だ、と言っては、対立し反目し合っている。私は絶望的になった。その時私は、すべての人々の心に「見がたき1本の矢」が突き刺さっているのを見た!

その矢の勢いの慣性によって、人々は輪廻的な生存へと飛ばされるのだ。この矢させ抜いてしまえば、輪廻的生存となることはない。輪廻の激流に飲み込まれることもない。

私は思う。人を輪廻に引きずり込む激流は(輪廻を厭いながらも)いつまでも輪廻のなかに留まろうとする深層の欲望である。押し寄せる波々は、その時々の衝動的欲望である。激流に漂う漂流物は、妄執の対象物である。

過去に囚われるな。未来に対しても、なにかを妄執しないようにせよ。この今においても、儚き輪廻的存在に執着し、呪縛されることのないようにせよ。そうすれば「安住する者」として、行動することができる。

物や事柄について「これは私のものだ」という自己中心的な執着の存在しない人は、この現実世界に生きながらも、老いることはない。そのような聖者は、自分と他者を比べて、自分が優れているとか、劣っているとか、同程度であるとか、煩うことはない。

(以上、ブッダの言葉 P.126)

これがブッダの宗教的体験であるとすれば、それは、いわゆる神秘的な「悟り」のようなものではなく「生きる姿勢」のようなものであることになります。そう、「悟り」ではなく「目覚め」です。「安住する者」として、行動することができる。のです。

現実との関わりを断ち、静かな山野に交わり、悟りの座に安住するのではないのです。それは精神を眠らせる行為です。ブッダは目覚めて、歩き出すのです。(P.127)


今まで問わなかったことを問い続けることが、「思想」なのです。

今、この国は、今まで信じて疑わなかった「大企業の信頼性」とか「一億層中流意識」とか、「無限に続く経済成長」とかが、非常に壊れやすいものであることが判明した反動として、「J回帰」現象を起こしています。「日本国民の神話的歴史」などへ統合し、回帰させようとする動きが顕著です。しかし、それは精神の停滞そのものなのです。

今まで問題でなかったものが問題になった時に、他の「問題なきもの」に逃走するのではなく、問い続けることが精神の働きなのです。(P.128)


人は「恐怖の影」を自分ではなく、他人の上に見ようとします。他人は例え老人であり、病人であり、また例えば外国人であり、「自虐史観論者」です。そして、自虐(自分の中に矢を見ること)に耐えられず、加虐に走るのです。しかし、ブッダはそれに耐え、自分の中に他者が他者として、生きることを可能にしたのです。(P.133)


「無神論」という言葉が、例えばヨーロッパではどのような戦いの中で、勝ちとられてきた言葉かーー自称「無神論者」の人たちは理解しているのでしょうか。「神」の権威を振りかざす王や権力者の間で行なわれた戦いの熾烈さを、想起しているのでしょうか。おそらく「真の無神論者」がもっとも嫌悪するのが、年中行事として形骸化した祭式でしょう。それこそが、権力者が作り上げた「虚構の共同体の維持装置」なのですから。

「初詣は宗教じゃない。みんながやっている習慣なんだ」しっかり神だのみをしている事実を覆い隠すように「仮称無神論者」は言います。この習慣というのが曲者なのです。「習慣」とは、フーコーが「権力のまなざし」として感じ、ベンヤミンが「勝者の歴史」と見抜いたものに通じるのです。そして、まさに仏教が疑問を投げかけた、サンカーラそのものなのです。(P.151ー152)


プンナカという弟子の「何故、世間では儀式が行なわれるのですか」という質問に、ブッダはこう答えました。

人々が儀式を行うのは「今の自分」執着しているからである。老いなど「今の自分」と異なるものに不安と嫌悪を抱くから儀式を行うのである(『スッタ・ニパータ』、V)

「今の自分」は「今の社会の仕組み」「今の世間の常識」に複雑に呪縛されています。「今の自分」「今の境遇」の延長に対する欲望は「今の社会の存続」を何の疑いもなく、受け入れることになるのです。(P.152)


ブッダの臨終がせまってきたとき、「世間にはさまざまな哲学者、聖人がいます。そのうち、真理を誰が知り、誰が知らないのか」と、スパッタという男が訊ねたのです。これが死を前にした人に対する態度でしょうか。疑問のための疑問、偽りの求道、虚構の希求!ブッダの解答は簡潔で鋭いものでした。

「私は29(一説には19)歳で、聖なるものを希求して家を出た。以来、50年あまり、私は道理と真理の道を歩んできた」

私の人生を見よ、というのです。目の前の私の姿を見よ、と言うのです。偽りの希求をするスパッタに対して、最高の解答です。(P.159ー160)


ブッダは「何か」と言う言葉で表される実体的、固定的なもの“を”知ったのではなく、その固定的なもの“から”離れたのです。「何か」という固定的、実体的なものは「悟るべき対象」ではなく、そこから「離れるべき呪縛」「目覚めるべき夢」なのです。(P.165)


立場や意見はそれに固執してしまえば、固定的なドグマ(教義)になってしまうのです。「悟り」もそうです。固定的、実体的であるゆえに「悟り」も一種のドグマ(教義)に過ぎないのです。

では、ブッダは何の立場も意見ももたないのか?その時その時、最大限に何をすべきかを、考え抜いた人がブッダです。ただ、ブッダはその自分の考えすらも常に越えよう、突破しようとしたのです。(P.166)


永遠に今の自分から目覚め続け、今の自分を突破しつづけたブッダーーしかし、ブッダの死後の仏教の歴史は、ブッダに「悟り」を押しつけたのです。

弟子たちは、ブッダの思想を、法数という、いわゆる12因縁などの数で整理してゆきました。この時に生きられるべき宗教が、学ばれるべき学問になってしまったのです。

常に整理やまとめを逸脱していくのが、真実でしょう。しかし、整理もまとめも、他者に伝えていったりする時には必要であることも事実です。要はまとめきれないものへの目配せがあるかどうかなのです。(P.168)


ブッダは「人々が理解しない場合は徒労となり、悩みとなる」とも考えました。当時、多くの宗教者は、林の中で、ヨーガの瞑想を行なって、悟りを得たのです。しかし、ブッダの心は止まらず「揺れ」ました。その揺れは、先に述べた「他者へのまなざし」の故です。心が揺れては瞑想になりません。ここからが他の宗教家との「異なり」です。

ブッダの思想の特徴は「立場」を永遠に突破するところにあります。一つの立場に固執することから、常に飛躍するところにあります。「悟り」もひとつの立場です。「瞑想」もひとつの立場です。永遠の脱出者ブッダは、心地よき悟りから脱出しようとするのです。「心地よさ」はくせ者です。「心地よさ」は立場を構築してしまったことへの表れです。安らかな繭の中で、快適な惰眠を貪るのです。(P.174ー175)


固定化、実体化した「悟り」こそ、ブッダが批判し、否定したものです。(P.179)

(引用終了)


本書からメモした言葉は、まだいっぱいあって、特に「業報輪廻思想(カルマ)」についての内容は、また別の記事で紹介できればと思います。

さて、

このところ、世界中の神々について考えてる時間が長くて、
それで、わかったことなんですけど、、

私は、これまで「Rock & Roll」と言われると、なんか、自分の聴いてきた「Rock」ではないというか、特に日本人ロッカーの「ロケンロール」とか「シェケナ・ベイビィ」wとか、さっぱりわからないわ、恥ずいわで、苦手だったんですけど、

やっぱり、本書からも「& Roll」ってところが、すごく大事だってことがわかりました。

そんな気分でいるせいか、最近、毎日のように、何度も何度も聴いてしまう曲を最後に。

みんな行くよぉーーーーーーーーー!

♪feelin Comes... Feelin' Come... Feelin' Come To Me…

とり憑いた悪魔でも、天使でも、Baby Wanna Rock'n Rollーーーーー

絡みつくような鎖なんて捨てちまえっ!♫




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by yomodalite | 2013-01-29 09:28 | 宗教・哲学・思想 | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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