もういちど 村上春樹にご用心/内田樹

もういちど村上春樹にご用心 (文春文庫)

内田 樹/文藝春秋



本書は「自分が村上春樹をどう読んでいるか」を全人類を代表して語っている(柴田元幸談)と言われる内田樹氏が、2007年に刊行した『村上春樹にご用心』の続編ではなく「改訂新版」。

私は、村上春樹について書かれた本は、これまで、ブログに書いていないだけでなく、まったく読んだことがなく、村上春樹について書かれた本だけでなく、5年前に読書ブログを始めたときから、村上春樹の本については書かないって決めてました。日本で一番有名な作家について、私が語ることなんて・・という理由で。

本書についても、そんな感じで、村上氏について語りたくないんですけど、私が、マイケル・ジャクソンについて考えているときに、よく思うことについて、すごく共感したり、為になるなぁ。と思った部分だけ、メモしておくことにします。

(引用開始)

僕も文学研究者ですから、ベタな主観性で書いたものはろくなものにならないのはわかってます。でもね、なまじな客観性を取ろうとするのもよくないんですよ。レヴィナス論を書いたときに思ったんですけど、自分より明らかにスケールの大きい人を相手にする場合に、自分自身を中立的、客観的に保とうと思うと、結局何もできないんです。

そういうときはもう「すみませんでした」と言って土下座をして両手をついて「秘密を教えてください」ってにじり寄っていくしかない。批評家とか研究者じゃなくて、弟子とかファンのスタンスです。

学問的には弟子とかファンのスタンスはタブーですけど、巨大な人を相手にするときは、タブーを破らないと、その人の、人間の通常レベルを超えたところにはどうしてもたどり着けないんじゃないかと。

こういうふうに育って、こういう文体訓練して、こういう人の影響を受けて、こういう人生を経て、こういうテーマで書きましたって。それを読んだ人が納得して、なるほど、だから、こういうものを書いたのかってわかったような気になる。

読者に一種の全能感、爽快感を与えるわけだから、そういう仕事も必要だと思うんですけど、

実際にはそれってその作家なり、思想家なりのスケールを縮減してしまって、昔僕らがよく使っていた言葉ですが、「最低の鞍部で巨大な人を乗り越えてしまう」ことになりがちなんですよね。

どうせならなるべく高いところににじり寄っていかないと。で、別に超えなくてもいいんじゃないかと思うんですよ。「高いですねー、こんな高いところがあるんですね」ってことを示すだけでも、学者の仕事としては成立すると思うんです。([特別対談]柴田元幸×内田樹『村上春樹はからだで読む』より)


村上春樹は「翻訳」をした。それは彼自身の言葉を使えば「他人の家の中にそっと忍び込むような」(『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』)経験である。同じく翻訳を業とする者として、この感じはよく分かる。

それはいわば、「自分の頭」をはずして、自分の身体の上に「他人の頭」を接ぎ木するような感じのする経験である。ふつうの人は逆のことを考えるかも知れない。他人の身体に自分の頭を接続するさまを想像するかも知れない。

そうではないのだ。他人の頭に自分の身体を接続するのである。

だって、自分の頭をもってしては他人の頭の中で起きていることを言語化することができないからだ。けれども、自分の身体は他人の頭から送られる微弱な信号でも感知することができる。

頭は「意味」しか受信出来ないけれど、身体は「意味以前」のものでも受信できる。

頭は「シグナル」しか理解出来ないけれど、身体は「シグナルになる以前のノイズ」を聴き取ることができる。他人の頭から送られてくるのは、輪郭のくっきりした語や文ではない。

ノイズである。ある種の波動であると言ってもいい。その波動を私の身体が受け止める。すると、その波動と共振する部位が発生する。「何か」がその波動と干渉し合って、震え始め、響きを発し始める。とりあえずその響きは私の身体の内側で起きている私の出来事である。私自身の骨や神経や細胞が現に動いて、その共振音を出しているのである。自分自身の身体が発しているノイズであれば、それをシグナルに変換することはできる。

おそらくそれが翻訳という仕事の本質的な構造なのだと私は思う。

自分の身体を他者の頭脳に接続して、身体に発生する「ざわめき」を忍耐づよく聴き取って、それを自分の脳にもわかる言葉に置き換えてゆく。(「すぐれた物語は身体に効く」より)


「知性の節度」こそ偉大な学者のすべてに通じるおのである。私が「節度」と呼んでいるのは、ここで「最小限度の暫定的な例示」と呼ばれるデータ(ベンジャミン・フランクリンのテクスト)をマックス・ウェーバー自身は言えないということである。

ここに資本主義の精神を理解する手がかりがある、とマックス・ウェーバーは思った。にもかかわらず、「ふぅん、そうなんだ。で、どうして、フランクリンの書いた本の中に鍵があるとあなたは思ったの?」という問いにウェーバー自身は答えることができない。

「知性の節度」というのは、「どうして私はこんなに賢いのか、自分では説明できない」という不能感のことである。

「どうして私はこんなに賢いのか」について得々と理由を列挙できるような人間はたくさんいるが、それは彼らが「理由が説明できる程度の賢さ(というよりは愚かさ)の水準にとどまっているからである。(中略)

「私にはそれが説明できるが、なぜ『私にはそれが説明できる』のかは説明できない」

世界史的レベルで頭がいい人が抑制の効いた文章を書くようになるのは、この不能感につきまとわれているからである(と思う。なったことがないからわかんないけど)(中略)

「説明できる」ということと「確信をもつ」ということは違う次元の出来事である。

「確信」をもっているのは、僕ではない誰かだからである。(中略)

サルトルは小説に「神の視点」を持ち込むべきではない、ということを述べた。(中略)人々はサルトルにこぞて同意した。文学から「神の視点」を排除せよ。(中略)小説家は神の視点に立つことを自制し、登場人物が彼ら彼女らの棲息する虚構世界内部で実際に見聞きできていること以上のことを書いてはならない、ということが以後、不文律となった(はずである)。

それから半世紀経った。ところが作家たちは相変わらず全知全能の書き手が登場人物の内面や、まだ起きてないことや登場人物が知るはずもないことをことこまかに描写することを許している。(中略)

サルトルは、実はもののはずみで全知全能の神の視点からしか見えないはずのものが見えるということがときどき起こり、そのことを僕たちは知っているということを見落としたのである。(「100%の女の子とウェーバー的直感について」より)

(引用終了)



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◎[参考サイト]一条真也のハートフル・ブログ

◎[Amazon]もういちど 村上春樹にご用心
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[内容紹介]『1Q84』やエルサレム・スピーチをウチダ先生はどう読んだのか? ハルキ文学の読み方がもういちど変わる! 新たなテクストとともに『村上春樹にご用心』を再構成=アップデートした改訂新版、待望の刊行! アルテスパブリッシング (2010/11/19)




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by yomodalite | 2012-07-25 10:56 | 文学 | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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