熊野でプルーストを読む/辻原登

辻原氏の本は、これが初めて。『本に埋もれて暮らしたい (桜庭一樹読書日記)』や「NHKブックレヴュー」で紹介されていたのを見て、ずっと読まなきゃと思っていました。
他にも「ねじの回転」のパスティーシュである『抱擁』や、『許されざる者』『闇の奥』など、タイトルを見ただけで、ドキドキしてしまうような本がいっぱいあって迷ったのですが、熊野のことも、プルーストのことも、特に気になっていなかったのに、これを最初に選んだのは、これが「本にまつわる本」で、桜庭一樹氏の『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』が取り上げられているという理由から。

それは、第一章 私の「解説」に納められていました。

… 回りくどい言い方をしているが、この小説はほぼ完璧な「悲劇」のプロットによって成り立っていることを説明したい。「悲劇」、もちろんギリシャ悲劇のことだが、悲劇中の悲劇、『オイディプス王』を借りる。(中略) なぜ、毎年、同じ劇を観、結末を承知しているにもかかわらず、人々は涙を流すのか。(中略) 観客にはわかっているが、登場人物自身は知らないことになっている皮肉な状況、劇的アイロニーと呼ばれるこの状況が、じつは涙の源泉なのだ。

しかし、おのれが何者なのか、と最後の最後まで捜査を押し進めていくオイディプスは、すべてを知っているつもりの観客の思惑を越えて、彼みずからを謎にみちた存在、怪物へと変貌させてゆく。その変貌に立ち会ったとき、結末を知っていると高をくくっていた観客・読者は、おのれの存在がいかに卑小なものであるかを思い知らされ、おそれおののく。このときだ、ほんものの魂の浄化がおとずれるのは。(後略)



解説のハイライトを掲載するわけにはいかないので、、、

この文章からは、桜庭氏の作品だけでなく、私が毎日考えている「あのひと」のことが、頭に浮かんでしまいました。(このブログには『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』のことは書いていませんが、同じ少女同士のストーリーである『少女には向かない職業』と、どちらか1冊だけ選ぶとしたら『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』を選ぶかなぁ)

他の「解説」作品は、

万葉集、「失われた時を求めて」、小説「発熱」と、鏑木清方「築地明石町」、アベル・ボナール『友情』。

それぞれに、著者の豊富な読書量と、文学者の感性で書かれた「解説文」らしからぬ、極上の文章なんですが、特に、本書のタイトルにもなっているプルーストは、今までに読んだ、数多くの「お茶に浸したマドレーヌの味」とは違った、印象的な話で、紅茶とマドレーヌの組合せの度に、“右目に刺したような痛み”と、“水の中の母” を思い出してしまいそうです。。

読書の周囲「女を描く」

近代化する、とは、近代人になる、ということだ。近代人という「主体」になることだ。ところが、それまでの日本では主体というものを語る必要がなかった。近代化の過程で、はじめて、世界、あるいは普遍性の文脈で何かを語らなければならない、そういう語る「主体」が必要になった。あるいはそういう主体にみあう現実というものをつくりださなければならなくなった。(中略)

このことは、近代小説においては主人公をどう立てるか、ということにつきる。主人公 ー 神、あるいは絶対者と対話し、対決、対峙する「われ」。

絶対者はない。近代技術は模倣によって習得できるが、絶対者は模倣することができない。そこでわれわれの先輩は、「おんな」を、仮に、主人公に対峙するものとして持ってきた。なぜなら「おんな」だけが、わが日本文学の中で唯一の個性ある存在だったからだ。(中略)

…しかし、この命脈もいまやつきた。「おんな」はもはやどこにも存在しない。(中略)もはや小説に描かれた女性を通して、男が世界を夢想しなくなったのだ。現代青年にとって「おんな」は絶滅した恐竜である。手で字を描かなくなった。あの、なぞりの線は、じつは「おんな」をなぞる線でもあったのだ。

人類は、近代において、「主体」とともに習得した重要な技術のひとつ、「黙読」という技術を、やがて再び失うだろう。「おんな」は筆記と黙読の中に、水の中の金魚のように生きていたのだ。 (p86 - 88)

近代化する、近代人になるというのは、近代人という「主体」になることだった。日本にもともと「主体」があったかどうかは別として、「主体」というのは、世界を構想する、その構想のしかたの原理であり、小説においていえば、主人公をどう立てるかということで、主人公を中心にして世界をどう描くか、という技術の問題に収斂する。

ヨーロッパは、この技術を千数百年にわたって、超越神・唯一神との対話、対峙、対決で徹底的にみがいてきた。神と対峙する「私・自己・主体・主人公」

幸か不幸か、この自己を扱う技術のなかったわれわれは、だが「近代小説」を模倣しなければならなくなったとき、つまり「神」に代わるものとして、長い伝統を持つ「をんな」をもってきた。くろうと女と相渉る「私」。

小説を日本語で書くかぎり、それまでの小説の言語、つまり戯作文から逃れることはできない。西鶴や為永春水の世界。これこそが花柳小説だ。くろうと女と相渉る男たち。花柳小説とロシア小説が遭遇し、合体して、われらが近代小説の濫觴となる。とりわけ独自な「私小説」というジャンル。をんなに振り回され、愚痴り、それでも追いかけて、つきまとう「私」。ドストエフスキーの小説に登場する女たちこそ格好のモデルだった。(中略)ドストエフスキーが描く「女」が重要だ。いまではもう息の根をとめられてしまったけれど。(p184 - 186)

仕事のあとさき「四人の幻視者」

…三番目の人物は、三上章(みかみあきら)という。日本語文法学者の中で鬼才という異能者だが、あまり知られていない。心ある人々からは、彼の業績は宝の山だと評価されている。日本語文法における幾多の業績の中から代表的なのをひとつあげれば、「日本語に主語はいらない」という主張だろう。彼は、日本語を英語など西欧語との徹底的な比較研究の中から、西欧近代が押し付けた論理の中心、文法の中心、文は「主語と述語よりなる」という命題、金科玉条を打破し、主語を持たない日本語がいかに論理的で美しい文の世界であるかということを論証、実証したのである。しかし、彼の体系は、西洋式論理、文法のみを正しいとする日本国家の教育政策によって無視されつづけてきた。抹殺されたといってもよい。

(他の幻視者:ツォルコフスキー/旧ソ連「ロケットの父」「ロシア・ソビエトのSFの父」。岡潔/数学者「不定域イデアルの理論」日本民族は30万年前に他の星から地球にやって来てマライ諸島あたりに落下し、一万年前に黄河の上流にいた。それから南下して、8千年くらい前にペルシャ湾からマライ諸島を回っていまの日本諸島にたどり着いた…。鹿野忠雄(かのただお)/遺著『東南亜細亜民族学先史学研究』)

(引用終了)

素敵ポイントはいっぱいありすぎて書ききれませんが、著者の「本にまつわる本」をもっと読みたくなって、読了後すぐに『東京大学で世界文学を学ぶ』も読み始めました。
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「BOOKデータベース]「ぼくは14歳で家を出た。そして、本と映画とともに生きてきた」。1990年に芥川賞を受賞した著者は、豊かな物語性と変幻自在の舞台設定によって多くの読者を魅了し続けている。さらに近年刊行された『東京大学で世界文学を学ぶ』は、読み手としての優れた能力を遺憾なく発揮した作品として話題を呼んだ。その著者が自らの著作の航跡と周辺をたどり「本のある生活」を綴る。筑摩書房 (2011/8/9)




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by yomodalite | 2012-06-08 08:06 | 文学 | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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