葉隠入門/三島由紀夫 ー マイケルと三島由紀夫[2]

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☆葉隠入門/三島由紀夫 ー マイケルと三島由紀夫[1]のつづき

葉隠という本は、武士道論だと思って読むと、意外にそうでもなかったり、現代に生きる普通の社会人にも当てはまるような「処世訓」も多く語られているのですが、

そうではない部分に注目して ... 続けます!





戦争が終わって、平和になったから「軍隊」はいらないと思われた国で、自ら「軍服」を着たひとは、筆を、刀に代えたことに困惑され、

軍隊を、他国へ「輸出」しなくてはいけないほど、戦争を必要とした国で、自ら「軍服」を着たひとは、「顔」にばかり注目され、侮辱され続けた。

日本独自の様式に乗っ取り、流血の中で果てた人と、MJの「LOVE」とは、まったく異なる感覚を受けるひとが多いとは思いますが、、、

でも、MJは、三島よりも、ずっと長く「軍服」を着続けていたと思うので、もしかしたら、三島より「武士道」だった可能性も高いと思うんです。


三島は、自決の年に、防衛に関する意見を求められ、それをテープに録音し、印刷したものは、当時の官房長官と、佐藤総理が目を通し、閣僚会議にも提出する予定でしたが、当時の防衛庁長官の中曽根康弘氏によって妨害され、叶いませんでした。

三島由紀夫の遺言状とも言える、その「政府への建白書」の中で、三島は、外国人に「武士道」を説明するとき

武士道と軍国主義を一緒に扱ったのは、米国の占領政策の1番悪い点で、武士道を概略的に説明すると、武士道と云うものは、セルフ・リスペクトと、セルフ・サクリファイスと、セルフ・レスポンシビリティ、この3つが結びついたものが「武士道」で、この1つが欠けても「武士道」ではない。

もし、セルフ・リスペクトとセルフ・レスポンシビリティだけが結合すれば、下手をすると、ナチスに使われたアウシュビッツの収容所長の様になるかもしれない。

日本の武士道の尊いところは、セルフ・サクリファイスというものがあるからこそ「武士道」なのであって、身を殺して仁をなすというのが「武士道」の非常な特徴である。

だから、侵略主義も軍国主義も「武士道」とは無縁のものだ。ところが、戦後の自衛隊には、セルフ・リスペクトというものが常になかった。

また、セルフ・レスポンシビリティはあるかもしれないが、これも、官僚的セルフ・レスポンシビリティに堕してしまい、セルフ・サクリファイスは、遂に教えられることがなかった。


と述べています。新潮文庫の『葉隠入門』の「解説」を書かれた、田中美代子氏は、

ここで(『葉隠入門』)死をめぐってなされる様々な考察は、単なる道徳書や人生訓の域をこえて、やはり三島由紀夫独自のものであり、運命的な自殺にいたる論理の道筋には、常人のうかがい知れぬ謎めいた要素がつきまとっている。どれほど言葉を尽くしても、彼がなぜそんなにも行動に憧れ、死へのあくことなき渇仰を語るのか、という疑問は、読者の頭をはなれない。

もしかするとそれは結局、三島由紀夫が、生きながら、たえず死を味わうことを強いられる、完璧な芸術家だったからではないのだろうか。日々の制作の途上で、一瞬一瞬死に向かって登りつめ、死の緊張を持続しながら孤独な日々の苦行に耐える、そうした営みがあまりにも強烈な充足感をもっていたとすれば、作品の終結とともに訪れる爾余の現実、生の弛緩と曖昧さは、耐えがたい倦怠と疲労をもたらすものとなったのではないだろうか。


と、書かれていて、「完璧な芸術家」には、大いに賛同しますが、

上記の「建白書」の内容をすべて読むと、三島の最期の行動が、完璧な作品を書き上げた後の「現実」から逃れるためでも、「ナルシシズム」とも無縁で、肉体改造への意欲も、メディアへの露出も、本当に慎重に考え抜かれたものだったということがよく解ります。

また、武士道から「セルフ・サクリファイス」を感じ、その「美学」に殉じようとする人も、日本では、それほどめずらしくないかもしれませんが、三島ほどの高度な知性をもった人が、これに殉じようとするのは、極めて稀なことだと思います。

現在「葉隠」を読むほとんどの人は、死を命ぜられることもなく、多くの文学関係者は、山本常朝の武士としてのニヒリズムを理解することで、それを深く味わおうとしていたり、もしくは、現代にも通じるような普遍的な精神を見いだそうとされているようです。


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常朝の多くの語りのなかで、「常住死身」(じょうじゅう・しにみ)という言葉ほど輝くものはない。これはいざというときに死んでみせるという覚悟ではなくて、その前提にあるのは、いつだって死んでいる覚悟が必要だという意味である。それゆえ例の「武士道というは死ぬ事と見付たり」の文章(語りだが)は、次のように結ばれる。

「毎朝毎夕、改めては死々(しにしに)、常住死身に成りて居る時は、武道に自由を得、一生落度なく家職を仕課(しおお)すべきなり」。(松岡正剛「千夜千冊」より)


下記の、現代語訳と英文は、『対訳 葉隠』より。
一生落度なく家職を仕課(しおお)すべきなりの後の文章も追加して引用



The Way of the Samurai is found in death. When it comes to either/or,
ther is only the quick choice of death.
武士道とは、死ぬことである。
あれかこれか、生か死かの選択をせまられたときは、ただ死ねばよい


It is not particularly difficult. Be determined and advance.
To say that dying without reaching one's aim is to die a dog's death
is the frivolous way of sophisticates.
なにも考えることはない。腹を据えて突き進むだけである。
それを目的を遂げずに死ぬのは、犬死にだなどというのは、
上方風の上品ぶった武士道である


When pressed with the choice of life or death,
it is not neccessary to gain one's aim.
生か死かのせっぱつまったとき、思い通り目的を遂げるようなことはできないことである

We all want to live.
And in large part we make our logic according to what we like.
But not having attained our aim and continuing to live is cowardice.
人間は、生きる方が好きである。多分、好きな方に理屈をつけるだろう。
だが、目的を遂げずに、ただ生きのびたら、腰抜けである


This is a thin dangerous line.
To die wighout gaining one's aim is a dog's death and fanaticism.
But there is no shame in this.
This is the substance of the Way of the Samurai. 

この生き残ろうという考え方ははなはだ危険である。目的を遂げずに死んだら、犬死に、気違い沙汰である。だが、恥にはならない。これが、武士道に堅固な男なのだ

If by setting one's heart right every morning and evening,
one is able to live as though his body were already dead,
he gains freedom in the Way.
His whole life will be wighout blame, and he will succeed in his calling.
毎朝、毎晩、心を振り返り、死を思い死を決し、つねに死に身になっているとき、
武士道に達して欠けることなく、一生の間、落ち度もなく、
武士の務めをはたすことができるのである


(中略)

To hate injustice and stand on righteousness is a difficult thing.
Furthermore, to think that being righteous is the best one can do and to do
one's utmost to be righteous will, on the contrary, bring many mistakes,
The Way is in a higher place then righteousness.
不義を嫌って、正義が立つようにすることは難しい。しかし、正義を立てることを
最上と思い、ひたすらに正義を通すとかえって誤りが多くできるものである。
正義より上に道があるのである


This is very difficult to discover, but it is the highest wisdom.
When seen from this standpoint, things like righteousness are rather shallow.
If one does not understand this on his own, it cannot be known.
このことを会得することは難しい。これは最高の叡智である。
その境地から見るとき、正義なども小さいものである。
この境地は自分自身で覚らない限りわからないことである


There is a method ofgetting to this Way, however, even if
one cannotdiscover it by himself.
This is found in consultation with others.
Even a person who has not attained this Way sees others from the side.
しかし、自分で悟ることができなくても、その境地に到る方法はある。
人と話し合うことである。
たとえ道に至っていない人でも、脇からは他人のことはよく見えるものだ


It is like the saying from the game of go;
"He who sees from the side has eight eyes." the saying,
"Thought by thought we see our own mistakes."also means that the highest
Way is in discussion wigh others. Listening to the old stories
and readig books are for the purpose of sloughing off one's own discrimination
and attaching oneself to that of the ancients.
碁で岡目八目というのと同じである。いろいろな思いに自分の非を知るということも、
話し合いに勝るものではない。話を聞いたり、書物を読んで覚えるのも、
自分の独善的な考えを捨て、古人の優れた考えにならうためである


(引用終了)



常朝の「常住死身」については、朝堂院大覚氏も『マイケルからの伝言』で、

日本人の多くが「武士道は死ぬことと見つけたり」を曲解していたのに、マイケルは、すなわち武士とは、いつ死ぬか分からない、それを日常の心得として、毎日を生きる。いわば生きることの有難さを感謝して生きるという反語なのだということを、自分の生き方に投影していた。

と書かれたように、死を思うことで、生をより生きるというように、マイケルも理解していたと語っていますが、

武士ではなく、死を命ぜられることのない「芸術家」だった、三島とマイケルは、毎朝、毎晩、心を振り返り、死を思い死を決し、つねに死に身になって、完璧な作品を求めて、ついに、その瞬間が訪れた、稀な「芸術家」だったと思います。


☆しんどいですが、、もう少し続きます。
__________________

上記で引用した、三島由紀夫の遺言状とも言える「政府への建白書」は、

私は、終始一貫した憲法改正論者で、それによって、日本を軍国支配するつもりではなく(中略)、日本の防衛問題にとって最も基本的な問題、もっと大きくいえば、日本と西洋社会との問題、日本のカルチャーと、西洋のシヴィライゼーションとの対決の問題、これが、底にひそんでいることをいいたいんだということです。(省略・要約して引用)

で、終わっているのですが、

「戦後の国際戦略の中心にあるものはいうまでもなく核だと思います」から始まり、限定戦争、民族主義、代理戦争、人民戦争理論によるヒューマニズムの利用、大国のコンベンショナル・ウィポンでの戦いが人民戦争理論に負けること、自由諸国のマスコミが共産圏に有利に働くこと、国論分裂が最も民心にアピールする→マスコミの有用な商売材料など、、

1970年に書かれたとは思えないほど、その後の世界を暗示し、日本の現在をも完璧に予言した内容になっていて、『三島由紀夫が復活する』に、全文掲載されています。

この表紙に「抵抗感」がある人も多いかもしれませんが、

本の内容は、三島の「軍隊」のことだけでなく『豊穣の海』の解説本としても、私が読んだ中では「ベスト本」です。天才、小室直樹氏の著作の中では「名著」ではないかもしれませんが、「唯識」についても「ミリンダ王の問い」も「輪廻転生」も、『豊穣の海』を語る上で、キリスト教から、イスラム教や、仏教まで、小室氏ほど、海外の宗教に造詣が深く、天皇についても語れる方はいないので。

☆[3]につづく



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by yomodalite | 2012-05-17 20:53 | マイケルの愛読書 | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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