ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者/藤永茂

ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者

藤永茂/朝日新聞出版




『闇の奥』と『「闇の奥」の奥』を読んで、藤永茂氏の本をもっと読みたくなったのですが、氏の著作の中に、この名前を発見して読む前から胸が熱くなりました。

オッペンハイマーの名前は、もう記憶のない人の方が多いのかもしれません。でも、3.11後に行われた、村上春樹氏のカタルーニャ国際賞スピーチを読んだ人は、そこで思い出された方もいるでしょう。

ロバート・オッペンハイマーは「原爆の父」と言われている人です。
私は、少女時代にその名前を知ったものの、マンハッタン計画とトリニティ実験、ロスアラモス研究所と、そのメンバーで「水爆の父」と言われたエドワード・テラーの名前を覚えただけで、それ以上考えたこともなく、

エドワード・テラーの息子がアストロ・テラーという名前だと知って、テラーは息子にアストロと名づけるようなタイプなんだなぁと驚き、その彼が書いた小説(『エドガー@サイプラス』 )を読むという、どうでもいい迂回をしただけで、ずっと忘れていました。

註)上記は当時の記憶で、今、調べてみたところでは、アストロ・テラーは孫らしく、アストロという名もエドワードが名づけたわけではないようです。


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Robert Oppenheimer



そんなわけで、本書に書かれてあることは、私にとって初めて知ることが多く、オッペンハイマーへの評価の変節も、原水爆の開発や研究に対する議論もよく知らないのですが、それでも、本書が「オッペンハイマー伝」の決定版であると思うのは、

著者が「おわりに」で

本書は多数の文献にもとづいて書かれた。オッペンハイマーと面識のあった方々にも接触したが新しい事実は得られなかった。私が、会話や状況の叙述を勝手に創作した箇所は1つもない

と書かれているように、本書は、これまでの様々な文献から多くを引用し、それらをまた別の文献で補強したり、反論するという手法に徹底し、これまでの著者がくり返してきた「安易な想像による物語」を許さないという姿勢が貫かれていること、

また、同じく「おわりに」では、

村山馨著『オッペンハイマー』については感謝の意を表しておきたい。10年ほど前、すでにオッペンハイマーに強い関心を持っていた私には、村山氏の著書がオッペンハイマーに対して心情的に好意的すぎるように思われた。私には別のオッペンハイマー伝が書けると思ったのである。

それから、10年、私はかなり広く読み漁り、絶えずオッペンハイマーのことを考えて続けてきた。その結果、私が見出したことは、私も、まわりまわって、結局は村山さんが立っておられた場所に戻ってきてしまったという事であった。


という記述もあるのですが、読者にとって、著者の20年以上に渡る「まわりまわった」結果を1冊の本で読めることは、とても幸せなことだと思いました。


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村上春樹氏は、カタルーニャ国際賞スピーチで、オッペンハイマーについてこう語りました。

ロバート・オッペンハイマー博士は第二次世界大戦中、原爆開発の中心になった人ですが、彼は原子爆弾が広島と長崎に与えた惨状を知り、大きなショックを受けました。そしてトルーマン大統領に向かってこう言ったそうです。
 
「大統領、私の両手は血にまみれています」

トルーマン大統領はきれいに折り畳まれた白いハンカチをポケットから取り出し、言いました。「これで拭きたまえ」

しかし言うまでもなく、それだけの血をぬぐえる清潔なハンカチなど、この世界のどこを探してもありません。我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です。

我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだったのです。たとえ世界中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿だ」とあざ笑ったとしても、我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのです。

それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、我々の集合的責任の取り方となったはずです。日本にはそのような骨太の倫理と規範が、そして社会的メッセージが必要だった。それは我々日本人が世界に真に貢献できる、大きな機会となったはずです。しかし急速な経済発展の途上で、「効率」という安易な基準に流され、その大事な道筋を我々は見失ってしまったのです。(引用終了)


◎村上春樹・カタルーニャ国際賞スピーチ全文



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このとき、村上氏が、過ちを犯した科学者の代表として引用したオッペンハイマーの言葉は、反原発を叫ぶ人々にとって、わかりやすい科学者像であり「物語」でしょう。

この場面だけでなく、オッペンハイマーの言葉は、被爆国であるがゆえに、原爆の罪を追求できなかった日本以外では、様々な人によって厳しく追及され、多くの「物語」で「セリフ」として切り取られています。

日本には「原爆の日」も「終戦記念日」もあるのに、これほど、オッペンハイマーのことが忘れられているのは、日本の敗戦をどうするかを考えた人たちの「戦略」によるものなのでしょう。私は今その戦略を否定する気にはあまりなれない。

下記は、村上氏のスピーチ後半部分から。

壊れた道路や建物を再建するのは、それを専門とする人々の仕事になります。しかし損なわれた倫理や規範の再生を試みるとき、それは我々全員の仕事になります。我々は死者を悼み、災害に苦しむ人々を思いやり、彼らが受けた痛みや、負った傷を無駄にするまいという自然な気持ちから、その作業に取りかかります。

それは素朴で黙々とした、忍耐を必要とする手仕事になるはずです。晴れた春の朝、ひとつの村の人々が揃って畑に出て、土地を耕し、種を蒔くように、みんなで力を合わせてその作業を進めなくてはなりません。一人ひとりがそれぞれにできるかたちで、しかし心をひとつにして。
 
その大がかりな集合作業には、言葉を専門とする我々=職業的作家たちが進んで関われる部分があるはずです。我々は新しい倫理や規範と、新しい言葉とを連結させなくてはなりません。そして生き生きとした新しい物語を、そこに芽生えさせ、立ち上げてなくてはなりません。それは我々が共有できる物語であるはずです。それは畑の種蒔き歌のように、人々を励ます律動を持つ物語であるはずです。我々はかつて、まさにそのようにして、戦争によって焦土と化した日本を再建してきました。その原点に、我々は再び立ち戻らなくてはならないでしょう。(中略)
 
僕の作品がカタルーニャの人々に評価され、このような立派な賞をいただけたことを、誇りに思います。我々は住んでいる場所も遠く離れていますし、話す言葉も違います。依って立つ文化も異なっています。しかしなおかつそれと同時に、我々は同じような問題を背負い、同じような悲しみと喜びを抱えた、世界市民同士でもあります。だからこそ、日本人の作家が書いた物語が何冊もカタルーニャ語に翻訳され、人々の手に取られることにもなるのです。僕はそのように、同じひとつの物語を皆さんと分かち合えることを嬉しく思います。夢を見ることは小説家の仕事です。しかし我々にとってより大事な仕事は、人々とその夢を分かち合うことです。その分かち合いの感覚なしに、小説家であることはできません。
 
日本で、このカタルーニャで、あなた方や私たちが等しく「非現実的な夢想家」になることができたら、そのような国境や文化を超えて開かれた「精神のコミュニティー」を形作ることができたら、どんなに素敵だろうと思います。それこそがこの近年、様々な深刻な災害や、悲惨きわまりないテロルを通過してきた我々の、再生への出発点になるのではないかと、僕は考えます。

我々は夢を見ることを恐れてはなりません。そして我々の足取りを、「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならないのです。人はいつか死んで、消えていきます。しかしhumanityは残ります。それはいつまでも受け継がれていくものです。我々はまず、その力を信じるものでなくてはなりません。(引用終了)



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全文を読むと、安易な科学者批判ではなく、多くの人々へのメッセージと、文学者としての自分の今後を述べた部分に力点があるのだと思いますが、

村上氏は、すべての人々が、被害者であると同時に加害者で、その過ちは「効率」であり「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」を、もう一度心に刻み、そのことを厳しく見つめなおさなくては、またどこかで同じ失敗が繰り返されると述べ、

オッペンハイマーの「過ち」を語り、私たちは、核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの中心命題に据えるべきだったと言う。

全体的に素敵なスピーチなのですが、私はこれを読んだとき、なぜか、あまり感動することができませんでした。それは震災のショックが大きかったせいもありますが、

過ちの理由は簡単で「効率」と言い切られたことと、

被害者であり、加害者であるのは「日本人」全体であるのに対し「小説家」として未来の希望を語るだけで「小説家の責任」については語られなかったことに対してなのかもしれません。

時刻通りに動く電車など、勤勉で真面目な仕事ぶりで世界的に認知され、優れた科学者に恵まれた日本が、なぜ、2度も被爆国にならなければならなかったのか?

それは、人が必ず「過ち」を犯すものだからではないんでしょうか?

わたしは、村上氏の「過ちは繰り返しませんから」よりも、日本人が声をあげることなく、世界に伝わった「メッセージ」は、そうであっただろうと思います。

私は、過ちを繰り返さないという「言葉」が、文学者として、大きな「過ち」ではないかと思う。

震災で傷ついた人々が見られる夢は「非現実な夢」なんでしょうか?

原爆や、原発事故のように、多くの人が1度に甚大な被害にあうことはなかっただけで「言葉の過ち」は、大勢を不幸にし「死」をも招いてきたはずです。

本書は、これまで大勢の小説家や文筆家が描いてきた、科学者や政治家の責任を問う「物語」とは異なり、誇り高い科学者が「本当の人の愚かさ」について書いた「物語」です。


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藤永氏は、大江健三郎が『ヒロシマノート』で述べた、

ロスアラモスの有刺鉄線の中でひたすら働いた6000人の人間たちには原爆地獄への想像力が欠けていた。

について、

それが人間というものである、と私は考える。人間は想像力の欠如によって、容易にモンスターとなる。このことが他人事ではないという自覚から、私はオッペンハイマーという“モンスター”について書き続けているのである(p160)

と言い、物理学者にとって永遠に魅力を失うことのない学術都市「ゲッチンゲン」に現れた、若き日のオッペンハイマーのほっそりとした若い詩人を思わせる容姿や、現代詩、特にT・S・エリオットの『荒地』を愛誦し、高等学術研究所の所長として、エリオットを招き、ヒンズー文学にも強い関心を寄せ、その聖典『バガヴァド・ギーター』を原語で読むためにサンスクリットを学んだという「オッピー」(オッペンハイマーの愛称)の人物像を、様々な証言から「立体化」していく。

わたしには、ここで描かれたオッペンハイマーが、大江健三郎氏より、想像力がないと思えなかっただけでなく、政治家がその国民の民度と同様であるということと同じく、原爆を落とした国が「12歳ぐらい」と判定した基準を、大江氏の文章から感じました。

村上春樹氏は、私たちが等しく「非現実的な夢想家」になるべきだと言う。

私に想像力がないせいか、それが素晴らしいことなのかどうかよくわからないのですが、

「過ち」が許されない「計算」を基礎とする科学者たちが、どんな「夢」を紡ぎ、そして「過ち」に気づいたとき、それを修正するために、どのような「政治」があったのか。

それらの「現実」は、小説家の想像よりも「夢」のないものだったのでしょうか。

藤永氏が、科学者の愚かな過ちに対し、同じ科学者として、オッペンハイマーを洞察する「眼」には、久しく出会った事のない「ヒーロー」を感じ、村上氏のスピーチに感動できなかった理由も、この本には書かれているように思えました。

数学も科学も苦手なので、本書の物理学用語を難しく感じる点は多々ありました。それでも、私にとって、この本は「現実」に光が感じられるものでした。

日本が戦後と呼んだ時代は、確実に遠くなっていますが、新たな戦争は確実に近づいているでしょう。原爆も、原発も、人の愚かさも、過ちは常に繰り返されることを確認するために、

日本人必読の書だと思いました。

1996年出版の本ですが、決して古くなることのない名著です!
◎[Amazon]『ロバート・オッペンハイマー』オンデマンド版
◎[Amazon]『ロバート・オッペンハイマー』朝日選書版(レヴューあり)

アメリカでは、オッペンハイマーについて、活発な議論があり、ドキュメント映画も、彼をテーマにしたオペラ作品もあるようで、戦後、日本の教育が戦争責任という言葉で、ひたすら「反省」してきたことに比べると、米国の方が原爆投下を「戦争の早期終結のため」という理由に集約されているわけではないようです。

◎ロバート・オッペンハイマー(ウィキペディア)
◎エドワード・テラー(ウィキペディア)
◎ドキュメンタリー映画『The day after Trinity』
◎メトロポリタンオペラ「ドクター・アトミック」(徒然なる all over the World)

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by yomodalite | 2012-01-03 23:35 | 報道・ノンフィクション | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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