うほほいシネクラブ/内田樹[3]

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黒澤明監督『野良犬』Stray Dog



うほほいシネクラブ/内田樹[2]のつづき

[追記あり]

みなさま。あけましておめでとうございます!私は、本日(元旦)の「モラッター」

『迷っても光の多い道に進んでごらん』とマイケルからメッセージをもらいました。

関東・東北にお住まいの方は、元旦から揺れるという不穏な一年の始まりになりましたが、でも、今年が「揺れる」年であることは間違いないですし、何がおきても後悔しないように毎日過ごしてまいりましょう!

昨年は、古典の深みに足を踏み入れ、重量級の本なども読むことになり、これまで知らなかった世界や、自分の範囲を超えた歴史の重みを実感しまって、そして、そのことで、ますますMJにのめり込み、もはや中毒症状の進展は納まりようがない域に達しつつあるような...

そんな私が、去年から引き続いて、今いちばん興味があるテーマは「MJの映画」です。

どんな映画を創りたかったのか? そして、本当に創りたかったのか?という点にも多くの疑問をもっています。

他にも、色々散らかしたままになっているものもあり、そこは、強く意識はしておきたいものの、まだまだという感じがするんですが、MJの映画については、なんか「来てる!」って感じがするんですよね。。(あくまで当社比)

と、まぁ、今年のスタートはそんな感じですが、とりあえず、内田先生の本のメモを続けますね。

第4章「おとぼけ映画批評」から(抜粋・省略して引用しています)

黒澤明監督ご逝去

ずいぶん前に伊丹十三との対談の中で、蓮見重彦が黒澤映画の「徴候」として「上がばたばた、下がどろどろ」という図像的な強迫があることを指摘していました。この指摘には「眼から鱗が落ちた」思いがしました。

私はそれまでフォルムメーカーというのは、なんらかの言語化できるメッセージを発信しているものであって、映像そのものに固執して、ただ、そういう「絵」がほしい一心で映画を作っているなんて思ったことがなかったからです。

しかし、蓮見の指摘する通り、黒澤の映画で印象深い映像はことごとく『野良犬』も『七人の侍』も『影武者』もとにかくなんでも、上では(旗とか洗濯物とか木の枝とか)「ばたばたするもの」が風にはためき、下では(泥とかペンキとか屍体とか血とか)「足にからみつくもの」がねとねとしているのです。

黒澤はしばしば「完全主義」というふうに言われましたが、それはある種の「言語的メッセージ」の媒体として映画を考えるから出て来る評価であって「ある絵が欲しい」ということが最優先であるようなフィルムメーカーであれば「もっと風を」とか「もっと雨を」「もっと土をどろどろにして」とか注文するのは考えてみれば、当たり前なのです。

黒澤の場合は幸いプロットもすごく面白いので、つい映画のメッセージを言語的な水準に求めてしまいますが、それはおそらく黒澤の映画を「堪能する」ためには適切なアプローチではないのです。きっと黒澤にとって「上がばたばた下ねとねと」というのは、人間とその世界についての根本的な図像学的表現なのでしょう。

私は、少し前まで、MJのビジュアルセンスを、こーゆーのが好きなんだなぁというように「嗜好」として受けとっていたのですが、今は、一般の人やアーティストと比べても「嗜好」で選ぶことが、非常に少ないひとではないかと思ってます。


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黒澤明監督『野良犬』Stray Dog


追悼・黒澤明その2

....「演技」ということの本質において、仲代達矢は根本的に思い違いをしているように私には思われます。それは仲代的演技の対極にある演技者を考えれば分かります。私が、仲代的=新劇的=デカルト的演技術の対極に想定するのはクエンティン・タランティーノの芝居です。

役者タランティーノは恐いくらいに上手い。どう上手いかというと、喜怒哀楽の演技が「とってつけたように不自然」なのです。ふつうの上手い役者は喜怒哀楽の表現を「自然に」演じようとします。怒りや怯えやおかしさの感情が「心の内部からわき上がってきて、表情に現われる」という感情表出回路をたどろうとする。

これに対してタランティーノはいきなり「とってつけたように」怒り「とってつけたように」笑います。それはタランティーノが人間は怒るときに内側からこみ上げて来る情動に身を任せているのではなく、誰かが怒るのを見た「映像的な記憶」をたぐり寄せて、それを「再演」してみせるものだと思っているからです。(たぶん)

伝記によると、タランティーノは生まれてからの人生をほとんど映画を見るか、映画を撮るかのどちらかの仕事で過ごしてきたそうです。教養も、美意識も、イデオロギーも、修辞法も、感情表現も、映画から学んだのです。だから、この人はおそらく「名状しがたいほどリアルな現実経験」というものを、たぶん知らないのだと思います。

どのような個人的体験をしても、それが常に「あ、これはあの映画のあのシーンだ」というかたちで映画的記憶とリンクしてしまうからです。そのような人間の感情表現が「とってつけたよう」になるのは当然です。

しかし、このような感情表現についての理解は、人間の精神の動きについての、彼なりの観察を踏まえています。そして、私はこの見識は深いと思っています。

心理学的知見によれば、幼児はまずまわりの大人たちの「表情の模倣」からその感情生活を始めます。表情の模倣によって、その表情がもつ感情を追体験する。表情はまさしく「とってつけたように」外部から到来するのであり、感情はその「とってつけた」表情の効果として、幼児の内部に発生するのです。

こういうふうに考えると「上手い役者」と言われる人の演技があまりリアルではなく「変な役者」がときに異常にリアルな理由が分かると思います。

MJも常に「あの映画のあのシーンだ」と思うことが多い人のように思います。多くの偉大なアーティストが、少年でありながら「老成」している理由にも共通しているのかなぁ。


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黒澤明監督『野良犬』Stray Dog


『ジャッキー・ブラウン』

.....ロラン・バルトはこんなことを書いています。

「ギリシャ悲劇ではテクストは二重の意味をもつ言葉で編まれている。そして、それぞれの登場人物は2つの意味のうちのひとつしか理解していない。この終わりなき誤解が『悲劇』を『悲劇』たらしめているのである。しかし、その二重性を理解しているものがいる。それどころか、こういってよければ、自分の前で語っている登場人物たちの無理解そのものを聞取っているものがいる。これこそ読者(聴衆)である。かくしてエクリチュールの存在全体があらわになる」(『作者の死』)

ギリシャ悲劇を知ってか知らずか、タランティーノの映画文法は『ジャッキー・ブラウン』でも印象的な使われ方をしていました。

作家は「登場人部が経験したこと」以上のことを書いてはならないと言ったのはサルトルで、文学が「何かについての物語」ではなく「物語そのもの」になるためには「何かについての経験」ではなく「経験そのもの」になるためには、そのような禁欲が必要だということをサルトルは指摘したわけですが、それと同じ「節度」を私はタランティーノのうちに見出すのです。


タランティーノはサルトルなんて読んじゃいないでしょう。でも、私たちが生きている世界をそのまま物語の水準に移すときに、ある種の精密な「技巧」がなくてはすまされないということについて彼ほど意識的なフィルムメーカーはあまりいないような気がします。


『ライフ・イズ・ビューティフル』

私はユダヤ人の迫害を扱ったドラマにふれると、映画でも小説でも、被害者に対する同情よりは、加害者に対する怒りと憎しみで身体がきしむような感じになってしまう。でも、この映画で、ファシストやSS隊員たちは決して悪魔のように描かれていない。

グイドと帽子の取り替えっこをする椅子屋の主人、恋敵の市役所の役人、彼らが支持したイデオロギーが、隣人たちを強制収容所へと連れ去ることになる。もちろん彼ら自身が手を下したわけではないけれど、彼らはジェノサイドの協力者である。この市民たちひとりひとりは決して有害な人物ではない。

個人的にはあるいは愛すべき多くの美質をもっているだろう。しかし、彼らには何かが決定的に欠けている。それは想像力だ。

自分のひとつひとつの行為が、他者たちにどのような影響を及ぼすことになるのか。それを考察する回路が、この人たちには構造的に欠落している。だから彼らはまるでちょっと不機嫌にルーティンワークをこなすような仕方で、大量虐殺に加担することができる。

その一方、グイドに権力も金も社会的プレスティージもないけれど、想像力だけは豊かにある。彼の世界で、彼は「王子」であり、素敵な彼女は「王女さま」である。(中略)たしかにグイドの想像力は、世界を美しく愉快な物語で彩ることはできるけれど、世界を変えることも、苦しむ人々を救うこともできない。その意味では、これもまた「閉じられた想像力」にすぎない。

想像力のない人間は世界を滅ぼすだろう。けれど想像力があっても世界は救えない。微笑みながら滅びるだけだ。もちろん、それだって不機嫌な顔をして滅びるよりはずっと素敵なことだけど。

(引用終了)

☆メモは、私が何度も意味を考えてみたいと思ったところを抜粋しました。本書の全体としては、軽い内容なのに含蓄があるという文章が多いと思います。


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by yomodalite | 2012-01-01 23:01 | 評論・インタヴュー | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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