うほほいシネクラブ/内田樹[2]

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うほほいシネクラブ/内田樹[1]のつづき

第二章「街場の映画論」より(抜粋・省略して引用しています)

『冬のソナタ』と複式夢幻能

『冬のソナタ』全20話を見終わる。今頃こんなところに感想を記すのはまことに時宣を得ない発言であることは重々承知であるが、あえて言わせていただく。

泣いた。ずいぶん泣いた。ユジンが泣くたびに、チュンサンが泣くたびに、私もまた彼らとともにハンカチ(ではなくティッシュだったが)を濡らしたのである。『冬ソナ』は日本の中高年女性を紅涙を絞ったと巷間では喧伝されていたが、そういう性差別的な発言はお控え願いたいと思う。

老狐ウチダでさえ「それから10年」というタイトルが出たところから(第三話の終わりくらいからだね)最後まで、暇さえあればむせび泣いた。心が洗われるような涙だった。

「ユジン、戻り道を忘れないでね」というところでは、頬を流れる涙を止めることができなかった。ミニョン、おまえ、ほんとうにいいやつだな。一方、サンヒョクが「ユジン、もう一度やり直さないか」と言うたびに、チェリンが「ミニョン、私のところに戻ってきて」と言うたびに、私はTVに向かって「ナロー、これ以上うじうじしやがると、世間が許してもおいらが許さないぞ」と頬を紅潮させて怒ったのである。

ともあれ、一夜明けて、われに返ったウチダは、映画評論家として、この世紀の傑作についてひここと論評のことばを述べねばならない。韓流ドラマの3つのドラマツルギーは「親の許さぬ結婚」「不治の病」「記憶喪失」だという。

しかし、私は今回韓国TVドラマおよび韓国恋愛映画に伏流するドラマツルギーの定型が何であるか確信するに至った。それは「宿命」である。宿命というと大仰だが、言い換えると「既視感」である。「同じ情景が回帰すること」それが宿命性ということである。


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かつてフロイトはそれを「不気味なもの」と名づけた。重要なのは「何が」回帰するかではなく「回帰することそれ自体」である。

「宿命」について、かつてレヴィナス老師はこう書かれたことがある。

宿命的な出会いとは、その人に出会ったそのときに、その人に対する久しい欠如が自分のうちに「既に」穿たれていたことに気づくという仕方で構造化されている、と。

はじめて出会ったそのときに私が他ならぬその人を久しく「失っていた」ことに気づくような恋、それが「宿命的な恋」なのである。


はじめての出会いが目眩のするような「既視感」に満たされて経験されるような出会い。私がこの人にこれほど惹き付けられるのは、私がその人を一度はわがものとしており、その後、一度はその人を失い、その埋めることの出来ぬ欠如を抱えたまま生きてきたからだという「先取りされた既視感」。それこそが宿命性の刻印なのである。

明治の速度

高橋源一郎の明治文学講義 in 神戸女学院。いちばんびっくりしたのは「明治の人は早口だった」という知見である。実は私も前からそう思っていたのである。最初にそれに気づいたのは、川上音二郎のパリ公演の録音というのを大滝詠一師匠の『日本ポップス伝』で聴いたときである。異常に早口なのである。川上音二郎と言えば「おっぺけぺ」の人である。自由民権運動の闘士である。

戦前の映画のせりふも速い。音楽もそうだ。戦後になってアメリカ文化が入ってきて、生活のテンポが速くなった....と一般には言われているが、実は人間の話す速度は遅くなっているのである。そのことについて、高橋さんのご高説を一部紹介しよう。

「明治に近づけば近づくほど、登場人物たちの会話が早口になるんです。

僕は、遠い時代のものがだんだん遠く感じられる理由ってのは何かって言うことを考えるんです。もちろん、自分が知らないとそういうようなこともありますが、スピードが違うんじゃないかっていう気がするんですね。

『野菊の墓』の原稿7、80枚っていうのは、ただ単に短いというだけでなく、速いんです。スピードが。『坊ちゃん』も大変速い小説ですね。このスピードのまま映画化したら、早回しのフィルムを見ているようで、とても不自然に見えるんじゃないかと思います。

この速い世界を映画にする、それはたぶん『虞美人草』や『たけくらべ』の時代までは可能だったのかもしれませんが、カラーの時代になったときすでに、我々自身のスピード感が違っていた。ある意味ゆっくりしている。どういうスピードかっていうと、僕は、テレビ的スピードじゃないかと思うんですね」

さすが史上最強の批評家、タカハシさんである。映画の早口から、それが文学そのものが内在させている「物語の速度」に連関していることを看破するとは。この「明治文学の速度」という知見はきわめて多産なものであるように私には思われる。(引用終了)

私は、常々「江戸」は「東京」より速いと思っていました。そしてその理由を、人生を概ね50年ぐらいと思って生きている人の方が、70歳を過ぎてからの「介護人生」を待っている現代人より、焦りがあるからだと思っていたんですが「カラーテレビが遅い」という知見には驚きました。

立川談志が、志ん生には最後までかなわなかったと言っているのも、晩年でも志ん生のスピードの方が速くて、その速さに付いていける観客がいないことも、理由のひとつかもと思っていましたけど....このスピードは、今後「グローバル社会」が進むことで、ますます「ゆっくり」になっていくでしょう。

それは、今よりもっと「野暮」な社会になることだとしか思えないと、暗くなりそうなので、遅くしか読めない「古典」とか、外国語を読む量を増やす方が、精神衛生上いいような気がしてます。


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photo : John Waters


ジョン・ウォーターズ賛

ジョン・ウォーターズの『ヘアスプレー』を見る。よい映画である。あまりに面白かったので、ジョン・ウォーターズの自伝『悪趣味映画作法』を取出して読む(訳者は町山智浩+柳下“ガース”穀一朗)。ウォーターズは17歳のときにディヴァインに会うんだけど、そのときの回想。

「他人に悪影響を与えるのにはもううんざりしていて、そろそろ自分にも悪影響を与えてくれるような人に会いたかったのだ」

そうでしょうね。そういえば、ウオーターズのアイドルがラス・メイヤーだということを知ったのもこの本でだった。ラス・メイヤーの『ファスター・プッシーキャット キル!キル!』は、ウォーターズのオールタイムベストで、この映画について、こうコメントしている。
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photo : 『Hairspray』John Waters


「過去15年間、ぼくは『ファスター』のリヴァイバルには、何十キロ遠くても必ずかけつけるようにしている。フィルムも借りて、友人と映画のスタッフには私語厳禁を言い渡したうえで、無理矢理鑑賞させた」

僕が一番気に入ったのは、ウォーターズのもうひとりのアイドル、ハーシェル・ゴードン・ルイスについてのコメント。

「ぼくはルイス氏の怪物的3部作『血の祝祭日』『2000人の狂人』『カラー・ミー・ブラッド・レッド』を近所のドライブインシアターで発見した。ティーンエイジのカップルが車から走り出てゲロを吐くのを見たとき、ぼくはこの監督になら死ぬまでついていけると思った」

僕もジョン・ウォーターズと小津安二郎になら死ぬまでついていける(2005年3月1日)


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『Hairspray』John Waters



私は、ウォーターズの映画は『ピンクフラミンゴ』以外は記憶がなく『ファスター・プッシーキャット キル!キル!』も流し見した程度で、近いうちに『クライ・ベイビー』(ジョニー・デップ主演)を観なくちゃと思っていた程度で何もわかっていないのですが、

ウォーターズの映画にまったく触れたことのない人に、念のため付け加えると、ウォーターズと、小津映画の雰囲気はあまりにも違います。(一般的なイメージとしては。。。)それで、内田先生の「死ぬまでついて行ける」発言にはビックリして、しばらく考えていたら、意外と似てるかもと感じ始めて、さらにビックリしたって感じでしょうか。。

とにかく、私は、この発言で『ヘアスプレー』も観なきゃと思い、ウチダ先生にも、ますますついて行きたいと思いました。


集中講義終わる

ハリウッド映画をトラウマ、抑圧、代理表象、転移などにからめて論じるというスタイルは、これまでと同じだけど、今回は「同期」「閾下知覚」「暗黙知」「無意識的言語活動」といったことに軸足を置いてみた。初日の朝に、寝床の中で「アナグラム」の話を思いついて、あれこれ資料に付け加えたところから話の筋道がどんどん変わってしまった。

これまでにアナグラムについて、それが識閾下でのある種の言語活動であることはとりあえずわかっている。それがコミュニケーションにおいて死活的に重要であることまでは分かっていたのである。

だが、時間意識の形成とアナグラムをつなぐ理路がよくわからなかったのである。それがぼんやりわかってきた。

アナグラムは「閾下の言語活動」であり、そこでは時間も空間も意識次元とはまったく違う仕方で展開している。この識閾を適切にキープする能力が人間の人間性をどうやら最終的に担保している。そんな気がしてきたのである。

識閾を設定し保持する力こそが、実は人間の知性の核心なのではないか。識閾というのは、フロイトの術語を使って言えば「無意識の部屋」と「意識の部屋」を隔ててる、あの番人のいる「扉」のことである。

この「扉」の管理がしっかりしてはじめて人間は「論理」とか「時間」とか「自我」とか「他者」といったものを維持することができる。この扉の開け閉めが緩んで、無意識の心的過程がダダ漏れになってしまうと、時間も論理も自我も、みんなまとめて吹っ飛んでしまう。


無意識と時間意識のかかわりについて考えるきっかけになっったのは、春日先生にうかがった統合失調症の「幻聴」の話である。幻聴というのは、自分の思考が声になって聴こえるという病症である。幻の声が自分の思考を「先回り」をして言い当ててしまう。患者は「宇宙人からの指令が聴こえる」とか「脳内にチップを埋め込まされた」といった定期的な作話によって「合理化」しようとする。

でも、よく考えたら「そんなこと」は誰にも起こる。アナグラムの例から知られるように、私たちは瞬間的に一望のうちに視野にはいるすべての視覚情報を取り込んで処理することができる。本を開いた瞬間に見開き2ページ分の視覚情報を入力するくらいのことは朝飯前である。だから、私たちはページを開いた瞬間に2ページ分「もう読み終えている」。しかし、私たちは「すでに読んでしまった文」を「まだ読んでない」ことにして、一行ずつ本を読む。

なぜ瞬間的に入力された情報を段階的に取出すような手間ヒマをかけるのか。

私にはその理由がまだよくわからない。よくわからないままに、直感的な物言いを許してもらえれば、たぶん、それは「手間ひまをかける」ということが「情報を適切に処理すること」よりも人間にとって重要だからである。「手間ひまをかける」というのは言い換えると「時間を可視化する」ということである。

おそらく、無時間的に入力された情報を「ほぐす」という工程を通じて人間的「時間」は生成する、一瞬で入力された文字情報をあえてシーケンシャル処理することは、知性機能の「拡大」ではなく、機能の「制限」である。私たちの知性はおそらく「見えているものを『見えていないことにする』という仕方で「能力を制御する」ことで機能している。

それに対して、統合失調症の人たちはおそらく「見えているものが無時間的にすべて見えてしまう」のである。かれらは「<超>能力が制御できない」状態になっている。発想の転換が必要なのだ。私たちは精神病というものを知性の機能が停滞している病態だと考えている。そうではない。逆なのである。人間の認識能力が制御されずに暴走している状態が統合失調症なのである。

私たちの中では実際には無数の声や、無数の視覚イメージが乱舞し、私たちの理解を絶した数理的秩序が支配している。その中の「ひとつの声」だけを選択に自分の声をして聴き取り「ひとつの視野」だけを自分の視線に同定し、理解を絶した秩序の理解可能な一断片だけに思念を限定できる節度を「正気」と言う。たぶん、そうだと思う。

この「理解を絶した数理的秩序」を私たちの貧しい語彙をもって語ろうとすると、それは「宇宙人の声」とか「CIAの監視」といったチープでシンプルな物語に還元されてしまう。だから、それについてはあえて語らない。それが知性の節度なのだ。ウィトゲンシュタインが言ったように「語り得ないものについては沈黙すること」が知性の生命線なのである。

アナグラムという現象は、人間の言語活動のうち、少なくとも音韻選択は識閾下でも活発に活動していることを示している。アナグラムについて書かれた詩学者が1冊も存在しないという事実は、アナグラムが人間の知性が統御すべき領域の出来事ではないということを意味している。おそらくそのことを古代人は知っていたのだ。というようなことを考えて映画を見る。

映画の中には無数のでたらめな表象が飛び交っている。とくにハリウッド・バカ映画の場合、映画を中枢的に統御している「作者」はもう存在しない。

フィルムメーカーたちが映画づくりにかかわる動機はきわめて多様である。あるものは金を儲けるために、あるものは政治的メッセージを伝えるために、あるものは宗教的確信を告白するために......それぞれがてんでかってな仕方で映画の現場に参加している。そこにはどのような意味でも「秩序」というようなもおが打ち立てられるはずがない。

しかし、それらの娯楽映画を分析的に見ると、すべてのフィルターがある種の「数理的秩序」に類するものに従って整然とする配列されていることがわかる。


いったい「誰」がその秩序を用意して、どうやって数百人数千人のスタッフ、キャストをその「意」に従わせたのか?私には説明ができない。たぶん、誰にも説明できないだろう。(引用終了)

このアナグラムの話は、本書の中で、私がもっとも理解できなかった部分(特に前半)で何度か考えてみたかったので、メモしておきました。

☆うほほいシネクラブ/内田樹[3]につづく


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by yomodalite | 2011-12-31 13:33 | 評論・インタヴュー | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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