うほほいシネクラブ/内田樹[1]

うほほいシネクラブ (文春新書)

内田 樹/文藝春秋

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内田樹氏の映画本。内田本にハズレがないのも、重要な箇所に線を引こうとすると、すべての行になってしまうことも、やっぱりいつもどおり。しかも、新書としては、最重量の厚み(2センチ程)で、面白さが詰まっているので、どこを切り取ろうか決められないぐらいで....ホント困ってしまうのですが、、

返る田舎のない身なので、年末からお正月まで、本書からのメモを、気が向いたときに追加していきたいと思います。 

これまで内田氏の映画論は、小津映画についてのものぐらいしか知らなかったのですが、ジョニー・デップや、タランティーノ、特にジョン・ウォーターズをそこまで高く評価されていることは全然知りませんでした(嬉しいっ)

「まえがき」より(省略して引用しています)

本書は僕にとって3冊目の映画論の本です。最初が『映画は死んだ ー 世界のすべての眺めを夢見て』次が『映画の構造分析 ー ハリウッド映画で学べる現代思想』本書に収録したのは、その2冊を出した後にさまざまな媒体に寄稿したものと、ネットで公開したけれど、これまで活字化されなかった映画についての書き物です。

第一章は、本書のタイトルになった「うほほいシネクラブ」読売新聞の「エピス」という紙面に連載した映画評で、2004年から2008年まで、月に一回試写会に行って映画を観て、それについて書くという仕事でした。

第二章は「街場の映画論」は僕のブログから拾い上げた「映画に言及した雑文」とパンフに寄稿したもの。

第三章「小津安二郎断想」は小津安二郎のDVDブックに連載したもので、小津のコレクションから1本抜き出して、じっくり隅から隅まで見て、思いついたことを書くという愉悦的な仕事でした。

最後の第四章「おとぼけ映画批評」は、1998年にインターネットのHPを開設してすぐ連載を開始した個人的な映画評です(2003年まで5年間続けました)。当時のHPのアクセスは100くらいで、読んでいるのはほとんど知りあいで、友だちと居酒屋で、生ビールなんかごくごく飲み、「どう、最近なんか面白い映画見た?」というようなカジュアルな口調で書かれています。

メディアの映画評では、新作しか扱いませんが、今は古い映画でも、ネットで上でクリックすれば済みます。そういう新しい技術的環境を享受していながら、いまだに新作しかレヴューしないというのは、ちょっとおかしいんじゃないかと、、あらゆる時代のあらゆる作品はつねに現時点におけるレビューの対象となりうる。いささか過激かもしれませんけれど、そういう開放的な立場から書かれた映画評というのだってあってもよいと思います。(引用終了)

第一章の「うほほいシネクラブ」の映画評は、それぞれ新書の1ページぐらいの分量なんですが、それでも、内田氏の思想・哲学が垣間見れるというか、匠の技や至芸を堪能できてしまうという例をほんの少しだけ。(省略・抜粋して引用)

『2046』
ことばは誰にも届かない。けれども人々は語ることを止めず、その誰にも届かないことばを、響きのよい音調で、あるいは絞り出すように、あるいはつぶやくように語り続けます。おそらく、聴き取って欲しい人にことばの「意味」が届かないとわかったときに、人間はいちばん美しい「音声」を発して、それを補償しようとするからでしょう。

『エターナル・サンシャイン』
アメリカのみなさんは、年に一度『クリスマス・キャロル』映画が見たくなる。これは僕が最近発見した「ハリウッド映画の隠された法則」の1つです。

おのれの人生を凝縮した時間のうちに幻視することによって「回心」を経験する、という話型はアングロサクソンの方々の琴線にふれるもののようです。この映画も『クリスマス・キャロル』ものに分類してよろしいと思います。

人間と言うのは不思議なもので、確定したはずの過去に「別の解釈可能性」があり、そのとき「別の選択肢を取った場合の私」というものがありえたと思うと、なぜか他人に優しくなって、生きる希望がわいてくるんです。

これは本当。若い人も長く生きてればわかるようになります。

『チャーリーとチョコレート工場』
「ティム・バートンにはずれなし」「ジョニー・デップにはずれなし」というのは僕が経験から学んだ貴重な教訓です(もうひとつ「メル・ギブソンにはずれなし」というものもあります)

僕が興味をもったのは、この映画がアメリカ社会に伏流するある隠された心性をストレートに表現していたということです。それは「母親に対する子供の抑圧された悪意」です。

『Always 3丁目の夕日』
おそらく僕たちには「一度として所有したことのない過去を懐かしく思い出す能力」が備わっているのです。この映画はそのような想像力が生み出したもののように僕には思われます。

『シン・シティ』
映画が固有の現実性を獲得するためには、フィルムメーカーと観客が「同じ側」に立って映画内的現実を見つめているよいう状況設定が必要なのです。「こちら」にフィルムメーカーと観客、「あちら」に映画そのもの。この二項対立関係が成立すると、映画そのものが(もう人間が作り出したものではなく)固有の悪夢のような現実性を持ち始めて自律的に存在するようになるのです。真に創造的なフィルムメーカーは(タランティーノもそのひとり)そのことを知っています。

『ミュンヘン』
この映画の心情的な通低音は「アメリカに住むユダヤ人がイスラエルに対して感じる疾しさ」です、現在アメリカに住んでいるユダヤ人たちは、もう十分にアメリカ社会に根付いているにもかかわらず「もしも、ここでまたホロコーストが起きたら....」という悪夢のような想像からはなかなか逃れることができません。

万が一そのようなことが起きたとしても、逃れるべき「祖国」があるということが彼らを心理的に支えています。イスラエルという「心理的な支え」があるからこそ、アメリカのユダヤ人たちは「普通の生活」を享受できている。

しかし、当のイスラエルでは人々は存亡をかけた戦争を繰り返し、日常的にテロに脅かされ、テロを行っています。ですから「私たちアメリカのユダヤ人は、イスラエルに踏みとどまっている同胞の血と罪によって、おのれの市民的平和を購っているのではないか?」という疾しさは程度の差こそあれ、アメリカ・ユダヤ人のうちに伏流しているのです。

『バベル』
4つの物語に共通するのは「言葉が通じない」と言う状況です。言葉が通じないことがむしろ出会いたいという欲望を亢進させるのです。「あなたの言いたいことはよくわかった」という宣言は「だから、私の前から消えてよろしい」という拒絶の意志を含意しています。僕たちはむしろ「あなたの言いたいことがよくわからない。だから、あなたのそばにいたい」という言葉を待ち望んでいるのです。

『The 有頂天ホテル』
「自分らしく生きる」というのは、自分の中からこみあげてくるピュアな欲望や衝動に身を委ねるということではなく、人々が自分に期待している役割を粛々と演じきる覚悟性のうちにある。たぶん三谷さんはそういうふうに考えているんじゃないかと思います。(大人ですね)

『父親たちの星条旗』
クリント・イーストウッドは偉大なフィルムメーカーです。もしかすると未来の映画史には20ー21世紀で最も偉大なハリウッド映画監督として記憶されることになるかもしれません。『ダーティハリー』と『ガントレット』で刑事映画のスタイルを完成させ『ペイルライダー』と『許されざる者』で西部劇のスタイルを完成させ『ハートブレイク・リッジ』と『父親たちの星条旗』で戦争映画のスタイルを完成させたんですから。

スタイルの完成させたというのは、これ以上洗練された映像を作り出すことがほとんど不可能をいうことです。彼の映画について形容する言葉を1つだけ選ぶとしたら、それは「洗練」ということになるでしょう。

「洗練」というのは「過剰」の反対です。ですから、彼の映画ではすべてが「少しだけ足りない」

俳優は説明的な演技を禁じられており、画面は観客が予想するよりもわずかに早くカットアウトされ、ライトは画面の隅々まで行き渡って、俳優の表情をくまなく見せるには少しだけ足りません。重要なセリフを語るときは、観客が少しだけ耳を澄ましてわずかに身を前に乗り出さなければならない程度にわずかに音量が抑えられる。すべてが「少しだけ足らない」。

『硫黄島からの手紙』
硫黄島で死んだ二万人の兵士を鎮魂する映画はどう考えても日本人が自力で作るべき映画でした。この映画の中で僕たちは「天皇陛下万歳』と「靖国で会おう」という常套句に何度か遭遇します。これまでに見たどのような映画でも、僕はこのようなイデオロギー的言明に悪寒以外のものを感じたことがありません。けれども、この映画においては、僕はその言葉に不覚にも目頭が熱くなりました。

間違いなく多くの日本の兵士たちは死に際して、最後の希望をその言葉に託したのです。その動かしがたい事実が淡々と、どのような判断も込めずに、ただ記述的な仕方で示されているときに「そのような言葉を口にすべきではなかった」というようなあと知恵の政治的判断はほとんど力を持ちません。

このことがどれほどの力業であるかを理解したければ、日本人のフィルムメーカーが「アメリカの兵士たちが日本軍と戦って死ぬ映画」を作って、そのアメリカ人兵士たちのたたずまいの描き方の精密さがアメリカの観客たちを感動させるという事態を想像してみればよいでしょう(僕には想像ができません)

『ヘアスプレー』
ジョン・ウォーターズ師匠(私が「師匠」と敬称をつけてその名を呼ぶフィルメメーカーはこの世に小津安二郎と、ジョン・ウォーターズのお二人だけです)の、ボルチモア讃歌シリーズの中でも名作の誉れ高い『ヘアスプレー』(1988年)のリメイクです。

この師匠のスゴいところは「テーマなし(ほとんど)ストーリーなし」であるにもかかわらず始まってから5秒後に映画の中に引きずり込まれ、エンドマークが出るまで時の経つのを忘れてしまうスーパーな「娯楽映画」を作ってしまうところです。

映画はただ1つのことしか扱っていません。それは「ロケンロールへの愛」です。ロケンロールは20世紀のアメリカ人が誰にも気兼ねすることなくそれに対する無条件の愛を信仰告白することが許された唯一の対象でした。

ロケンロールこそ、1945年以後のアメリカ人が肌の色を超え、信教の違いを超え、階級を超え、政治的立場を超えて、1つに結びついた、たった一度だけの歴史的経験だったのでした。


ブルースは黒人の音楽であり、カントリーは中西部の白人の音楽であり、ポップスは中産階級の音楽であり、ラップは非抑圧階級の音楽であったからです。そのようなきびしい社会集団ごとの境界線がすべての文化財を乗り越え不能な仕方で切り刻んでいる中で、唯一「ロケンロール」だけは「ヒップ」なアメリカ人であると自己申告しさえすれば誰もが「自分のための音楽」として認知することのできる「開かれた音楽」だったのでした。

そのような文化的な「入会地」はもう21世紀のアメリカ社会には存在しません。だからアメリカ人たちは今万感の哀惜を込めて、ヘアスプレーで固めた髪の毛をロケットのように点に突き上げ、リーゼントを決めた兄ちゃん、姐ちゃんが底抜けに陽気なダンスをすることができた「ケネディが大統領だった時代」を目を潤ませてながら回顧しているのです。(引用終了)

エイミー・スチュワートを見ていると、妙にジョン・ウォーターズの映画が観たくなってきてたんだけど、『ヘア・スプレー』置いてないのね、TUTAYA DISCAS....

☆うほほいシネクラブ/内田樹[2]に続く


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by yomodalite | 2011-12-29 19:47 | 評論・インタヴュー | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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