闇の奥/ジョセフ・コンラッド[2]黒原敏行(訳)

闇の奥 (光文社古典新訳文庫)

ジョゼフ コンラッド/光文社



藤永氏の『闇の奥』は、以前に読んだ中野訳に比べると、とても読みやすく解説もわかりやすかったのですが、そこから更に、同氏の 「『闇の奥』の奥―コンラッドー植民地主義ーアフリカの重荷」を読んだことで、氏の解読に惹き込まれすぎたのでは?と思う点もあり、また、わたしにとって『闇の奥』は、映画『地獄の黙示録』の原作という意識が強過ぎるので、

『闇の奥』に関して、もう一度頭を冷やす意味でも、他の翻訳本にも興味がわいて来て、一番新しい訳書である、黒原敏行訳の『闇の奥』にも目を通してみました。

下記は、解説(武田ちあき・埼玉大準教授)より、要約引用。

英語文学の古典とされていても、なんだか難しそうと一般読者はひいてしまいがちだった『闇の奥』に、原文の緩急自在な語りの生気と勢いをのせた新訳が誕生した。落語そっくりとよくいわれるディケンズのノリのいい語りに、幼少から親しんでいたコンラッド(語り手であるマーロウは、その名からしてもディケンズを意識している)は、

その重厚ながら軽快な、自分で自分にボケやツッコミを入れたり、聴き手に話しをふったりしながら、ぐいぐい読者を引込む芸達者な語り口を、本書は日本語でたっぷりと読ませてくれる。

「人類の文明の歴史への深遠なる洞察」「帝国主義による植民地経営の残虐非道極まる実態への先鋭な告発」「人間性の深奥に潜む悪・道徳的腐敗の発見」ー

この小説はいままでずっと、こうした重量級のフレーズで評されて来た。しかし、その中心に描かれた苛烈なアフリカの現実は「何でも見てやろう」と勢い込み「若さとバカさの挑戦」に浮き立つ青二才だったマーロウ(著者コンラッドが投影されている)のうぶな目だからこそ、のけぞるばかりに圧倒的な闇の深さがいっそうの迫力で映るのだ。

コンラッド好きには、中野好夫、岩清水由美子、藤永茂のそれぞれ渾身の訳業と読みくらべるのも愉しい。だがなによりも、今の若い人、とりわけ社会の矛盾や将来の不安にへこみながらも、なんとか希望をみつけだし、自分らしい人生を歩んでいこうとする世代、いままさに冒険に出かけようとする現代の若きマーロウたちにこそ、本書をめくって欲しい。(引用終了)


ホントにもう「ノリのいい語りに、幼少から親しんでいた」とか「自分で自分にボケやツッコミを入れたり、」とか「若さとバカさの挑戦」とか、、、

マジですかーーー!これまでの2冊からは、そんな気配は、微塵も感じたことなかったんですけど...... (これだから、翻訳本はむつかしい。。武田氏の解説はここから先もとても興味深い内容なので、是非、本書でお読みくださいませ)

ただ、実際に読んでみた感じでは、残念ながら、そこまで言うほどの若々しい訳ではなくて、難しい漢字の量や、文語的な表現も、そんなに変わらないかなぁ。

下記は、訳者のあとがきから(省略引用)

コンラッドの『闇の奥』は、ただならぬ魔力で人を惹き寄せる小説だが、原文も翻訳も読みにくい、というのが世の共通理解だと思う。原文が読みにくいのなら、翻訳が読みにくくても仕方がない。いや、むしろ読みにくくなれればならない。そんなふうにもいえそうだ。しかし本当にこれはそんなに難解な小説なのだろうか。

これはごく少数の人間にだけわかってもらえればいい前衛的な実験小説として書かれたわけではないだろう。

密林の奥で進行する奇怪な事件を語る伝奇的な冒険小説であり、ぞくぞくしながらページを捲る手ももどかしく読んでもらおうとした物語のはずだ。途中で行き悩んで放り出してしまう難読書になるのはおかしいのではないか。(中略)

ということで、まず行ったのは、語学的解釈の不備をできるだけなくす努力だ。

たとえば、3つの既訳には、「クルツはドイツ語で、“短い”という意味だが、その名前は彼の人生のほかのすべてのことと同様に真実を語っていた」という論旨の訳文がある。これを私は、「真実を語っていなかった」と逆にした。

原文は、the name was as true as everything else in his life もちろん普通は「〜と同様に真実だった」でいいが、その直後に He looked at least seven feet long. (身長が少なくとも2メートル10センチあるように見えた)とある。つまり「短い」という名前は真実を語っていないのだ。こういう場合は否定的に訳さなければ論理が通らない。たとえば、a monkey as big as a mouse は「鼠と同じぐらい大きな猿」ではなく「鼠ぐらいの大きさしかない猿」なのである。

もうひとつ例をあげてみる。瀕死の黒人たちが大勢横たわっている暗い林の中で、河の早瀬の音が響いている。その音を、マーロウは、as though the tearing pace of the launched earth had suddenly become audible と表現している。それぞれの訳は次の通りである。

まるで動き出した大地の激しい足音が、にわかに聞こえだしたかのそうな(中野訳)

まるで動き出した地球の激烈な足音が、突然聞こえたかのようにね。(岩清水訳)

あたかも、猛烈な勢いで動き出した大地の足音が突然聞こえだしたかのような(藤永訳)

まるで地球がすさまじい速度で宇宙の中を飛ぶ音が、不意に聞こえ始めたかのようだった。(本書43P)

既訳はいずれも大地ないし地球の足音と解釈しているが、しかし大地や地球がどこを歩いて音を立てるのか、イメージが浮かばない。それにこの早瀬の音は、uninterrupted(途切れることのない)と形容されている。ザッーという連続音なのだ。足音なら、ズシン、ズシンという断続音だろう。

launched earth の launch は「投げる」「放つ」「発射する」という意味。つまり地球が投げ出され、あるいは発射されて、飛んでいるイメージだ。もちろん宇宙空間には空気がないので、公転する地球がザッーと音を立てるはずはないが、そういう音が突然聴こえだしたかのようだ、と言っているのだ。

突飛な解釈と思われるかもしれないが、じつはコンラッドは天体の運動のイメージをよく使う。『闇の奥』にも、「動いているとはわからないほどゆっくりと曲線を描いて降りてきた太陽が、ようやく空の低い所まで来て」とか.....もっと重要な例は『闇の奥』の姉妹編ともいうべき『ロードジム』(これもマーロウが語る物語だ)に見られる。(中略)

さて、個々の訳語でまっさきに注目されるのは、有名な「The horror!The horror!」というクルツの囁きかもしれないが、これはそれほど悩むこともなく「恐ろしい!恐ろしい!」というごく普通の選択肢をとった。藤永氏が訳註で説明しているとおり、日本語の「地獄」は幅広いニュアンスを持っているので勇み足になっているわけではないと思う。

それよりも、最後まで悩んだのは、何と言ってもwilderness(ウィルダネス)の訳語だ。結論からいうと、本書では基本的に「魔境」という古めかしくもおどろおどろしい訳語をあてることにし、その一部は、原語は wilderness の一語であるけれども、「魔境ともいうべき原始の自然」とか「緑の魔境」という説明つきの言葉にした。

しかし、どういう訳語をあてるにせよ、若干の解説が必要だろう。wilderness とは人間の手が入っていない自然の土地を指し、英和辞典には「荒野」「荒れ野」「荒地」「未開の地」「無人の地」「原始の自然」などの訳語が載っている。ただ『闇の奥』は植物が氾濫する密林が主体なので「荒野」「荒れ野」「荒地」は合わない。

一方、「未開の地」「無人の地」「原始の自然」はクルツを狂わせ、マーロウに深い恐怖を覚えさせる魔性に欠ける。人が住まない所ということでは「人外境」という言葉もあり、これと「魔境」を合わせた「人外魔境」という言葉もある。後者は小栗虫太郎の伝奇冒険小説「人外魔境シリーズ」の第1作がコンゴを舞台にしていることから捨てがたいのだが、語感があまりにも伝奇小説的すぎるので採らなかった。

ついでにいうと、漱石の『草枕』にいう「人でなしの国」は『闇の奥』の wilderness を実感するのに多少役立つかもしれない。

ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう(夏目漱石『草枕』)

どういう国なのかよくわからないが、とにかく人間的な価値尺度が通用しないのだろう。魑魅魍魎が棲んでいそうな恐ろしげなイメージがある。マーロウは「ただの人が作った人の世が住みにくい」と感じる漂泊の冒険家だが、その彼にも「人でなしの国は人の世よりもなお住みにく」いと骨身に染みたというのが『闇の奥』の話だといえなくもない。

もう1つ、聖書で wilderness といえば、パブテスマのヨハネが人々に悔い改めよと呼ばわる「荒野」(あらの)であり、人の世に汚されていない場所というイメージも持っている「原始の自然」と捉えた場所の wilderness にも無垢のイメージがあり、憧憬の対象にもなるわけだ。(中略)

14歳で日本中を震撼させたあの事件を起こした少年は、「俺は真っすぐな道を見失い、暗い森に迷い込んでいた」と作文に書いた。あれはダンテの『神曲・地獄篇』から取ったものだが、少年の「暗い森」は『闇の奥』の密林とも地続きだったかもしれない。『神曲』の英訳の中には「暗い森」を dark wilderness と訳しているものもあるのだ。(中略)

この普遍性から、ウィリアム・ゴールディング『蠅の王』、コッポラ監督の『地獄の黙示録』、ヴェルナー・ヘルツォーク監督の『アギーレ/神の怒り』、村上春樹『羊をめぐる冒険』に『闇の奥』の影響があることはつとに指摘されているが、最新作の『IQ84』にもクルツとの対面に似た場面が出てきた。伊藤計劃の『虐殺器官』は『地獄の黙示録』経由のSF版『闇の奥』である。(中略)

コンゴでの植民地支配という時代背景に押し込めれば、クルツはすでに、幽霊の正体見たり枯れすすきだろう。しかし『闇の奥』が意図的に曖昧化し普遍化した闇に目を凝らすなら、21世紀の世界でも、クルツの幽霊はまだまだ色々な所にに現われるに違いない。(引用終了)


以前に挫折経験のある『闇の奥』を、もう一度読んでみようと思ったのは、マーロン・ブランドが『地獄の黙示録』のカーツ役を、どのように創造したかに興味があったことが大きく、映画でのカーツ大佐のシーンが、原作にはない部分が大半ということを知り、実際の原作を確認したかったからというのが、最大の理由でした。

この理由は『闇の奥』を小説として味わうことにおいて、不純な動機だったかもしれないのですが、何かしら、強い思いがなければ、この作品を最後まで読んで味わうのは困難なことも確かで、2冊の翻訳本を読んで、あらためて思うのは、やっぱり、この作品は「とてももやもやとした作品」だということです。

黒原氏が、藤永本の小説終了後の解釈にある、帝国主義や植民地支配への批判から、『闇の奥』のコンラッドの植民地支配の描き方をも批判するのはどうかということも一理はあるのですが、この作品に対して「すでに正体見たり」とするのも、やはり「あとがき」の中でのことで、

本文中は、どちらも「もやもやとしている」ことには変わりはなく、黒原氏が言われるように「密林の奥で進行する奇怪な事件を語る伝奇的な冒険小説」として読むことにもストレスを感じる人は多そう。

文庫のお手軽さは魅力的なものの、手軽に読み終わったところで「もやもやした感じが一向に解決しない」ことを考えれば、藤永訳の豊富な注釈とともに、険しい密林を分け入るように、読みすすんでいく方が、読み終わった後の充実感が感じられる可能性が高く、1冊だけ読むとしたら、冒頭に解説があり、また読了後の「もやもや」に関して「アフターフォロー」がある、藤永本がもっとも満足度が高いと思われますが、

いずれにしても、1回読んだから...という作品ではないので、両方読むのがベターだと思いました。

◎[参考サイト]うただひかるまだがすかる(4人の訳の比較があります)

☆こちらのレヴューは、3者の訳本すべてに共通なのでご注意ください。
◎『闇の奥』黒原敏行訳(アマゾン)


[PR]
トラックバックURL : http://nikkidoku.exblog.jp/tb/16962804
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
名前
URL
削除用パスワード

※このブログはコメント承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでコメントは表示されません。

by yomodalite | 2011-12-17 23:17 | 文学 | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


by yomodalite