『闇の奥』の奥/藤永茂

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☆[1]のつづき

下記は、本書の冒頭「『地獄の黙示録』のエンディングをめぐって」より省略引用。

映画『地獄の黙示録』はベトナム戦争の、小説『闇の奥』は白人のアフリカ侵略の核心に迫った優れた芸術作品とみなされている。奇才オーソン・ウェルズは『闇の奥』をラジオドラマ化し、その後映画化しようとするものの断念して『市民ケーン』を制作。小説のクルツは丸禿げだが、ウェルズがクルツに扮した写真では髪がある。ウェルズはヒトラーをクルツに重ねて考えていた。

それから、40年後、コッポラは『闇の奥』を翻案した『地獄の黙示録』を撮影し、カーツを演じたブランドは丸禿げの男として現われる。この翻案されたクルツは映画の終わりの30分ほどの間に出てくるのだが、このエンディング、そしてブランドの演技が多数の評論家から「むしろない方がよかった」などと、散々にこき下ろされた。『ニューヨーク・タイムス』の映画評がその代表例である。

ほとんどすべての批評家が認める、この映画の最高の見せ場は、ワグナーの「ワルキューレ」の音楽を空から大音響で鳴らしながら(映画の背景音楽ではない)ベトナムの村落に襲いかかる米軍ヘリコプターの大群と、その指揮をとるキルゴア中佐の描写だ。


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『ニューヨーク・タイムズ』の映画評論家キャビーはこのキルゴア中佐をベタ褒めにし「息をのむような迫力と魅力でロバート・デュバルが演じ切ったキルゴアは、この映画の中のカーツの馬鹿臭い仰々しさの中に全く欠けている優れた資質のほとんどを備えている。カーツの方と言えば、結局のところ、彼の行動もセリフもこの映画の他の部分とはおよそ何の関係も持っていない。

米国のベトナム戦争介入を批判した著書『ベスト&ブライテスト』で有名なハルバームスタムも『地獄の黙示録』をベトナム戦争についてのベスト映画と呼んでいるが、エンディングについては「ブランドが出てくる終わりのところのたわ言はない方がいい」などと手厳しい。(yomodaliteのつぶやき:NTってどんだけバカなの?)

この映画の解説として日本でもっともポピュラーなのは立花隆『解読「地獄の黙示録」』だろうが、そのページ数の大部分が映画のエンディングを語ることに費やされているのはいささか異常である。(yomodaliteのつぶやき:立花氏が参考にしているのは、主に海外の雑誌と夫人の本だけで、国内の英語弱者のマスコミと読者に「上から目線が出来れば」それでOKだからw。

追記:立花氏の解釈については、私のマイケル・ジャクソンのショートフィルム解釈の前段「HIStoryと黙示録」の④〜⑧の中でも触れました。


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Lieutenant Colonel “Bill Kilgore” Robert Duvall



エンディングに悩みつづけたコッポラは、それから、23年もたった2001年に新たに編集した『Apocalypse Now Redux』(邦題「特別完全版」)を発表する。しかしエンディングの大きな変更はなく、この完全版の公開後もコッポラは満足できずローリング・ストーンズ誌のインタヴューで「あれは嘘のエンディングだ。僕の中には本当の結末がある」と奇妙な発言をしている。

果てしなく続くエンディングの腰の定まらなさは、一体何に由来し、何を意味するのか?アメリカの著名な文学評論家ハロルド・ブルームは、それを、コンラッドの『闇の奥』の意図的な曖昧性に求めている。

しかし、クルツにまつわる曖昧さ、晦渋さは読者向けのものであり、その創造者コンラッドの内心ではクルツの担う意味が明確にされていたとは、私は考えない。言い換えれば、多くの論者がヨーロッパの帝国主義的アフリカ侵略の核心を摘出する文学作品とみなす『闇の奥』には、本質的な曖昧さ、したがって、欠陥があると私は考えるのである。

そして、この根本的な欠陥がそのまま『地獄の黙示録』に移植されざるを得なかったことが、コッポラの終わることのない懊悩苦難の源泉であり、この映画が遂にベトナム戦争の本質の剔出に成功しなかった理由でもあると私は考える。


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映画『地獄の黙示録』の最初の脚本は、ジョン・ミリアスによって書かれているが、映画の完全版脚本とのもっとも大きな違いは、自分を殺しにきたウィラードを前にして、静かに死を覚悟し、カーツが訥々と語る告白の有無である。エレノア夫人その他の証言からも、コッポラは映画のエンディングをミリアス脚本よりも『闇の奥』に近くしたいと考えていたことが知られている。

表面的には、ミリアス脚本の方が完全版よりもはるかに小説に忠実で、コンラッドの原文そのものの科白がたくさんある。ウィラードにあたるマーロウが、クルツの死後、故国に戻ってクルツの婚約者に面会する場面が、小説の終わりにあるのだが、ミリアス脚本もウィラードがアメリカに帰って、カーツの妻に会う場面で終わっている。これは完全版のエンディングには全く欠けている。

では、コッポラが完全版の方をコンラッドの原作により近いものと考えたのはなぜだろうか? その答えはカーツ大佐の最期の告白に伏せられているとしか考えようがない。その重い告白の全文を読んでみよう。

俺はずっと恐怖を見てきた......お前も見てきた恐怖だ。だが、お前は俺を人殺しと呼ぶ権利はない。俺を殺す権利はある。お前にはそれをやる権利はあるが......しかし、この俺を裁く権利はない。恐怖が何を意味するかを知らない連中に、何が必要不可欠かを言葉で描いてみせるなんて出来やしない。恐怖。恐怖には顔がある......そして、お前は恐怖を友にしなければならぬ。恐怖と精神的な戦慄はお前の友なのだ。そうならなければ、恐るべき敵になる。恐怖と心を襲う戦慄は真に恐るべき敵なのだ。

特殊部隊と行動を共にしていた時のことだ......もう遠いはるかな昔のことのように思える......我々はある難民収容所に入って子供たちに予防接種をした。子供たちにポリオの予防接種をした後、そこから引き揚げたのだが、老人がひとり、泣きながら走って追っかけてきた。だまって見てはおれなかったのだ。すぐに取って返してみると、ベトコンがやって来て、予防接種をした腕を1つ残さず切り落としてしまっていたのだ。

山積みになってそこにあった......子供たちの小さな腕が山積みになっていたのだ。忘れもしない。俺は.....俺は.....俺は泣いた.....まるでどこかの老婆みたいに泣いた。俺の歯をむしり取って捨ててしまいたかった。何をしたいのか、自分でも分からなかった。ただ、これは心に刻んでおかなければ、絶対に忘れたくない、決して忘れてはならぬ......と思ったのだ。

次の瞬間、俺は悟った.....撃たれたように.....そう、ダイアモンドで......一発のダイアモンドの弾で額を撃ち抜かれたように.....そして思ったのだ。何とまあ、あの大した根性。あの精神。あの行為をやってのける意志。完璧で、真正で、完全で、透明で、純粋な意志。そして、ベトコンは我々より強いのだということを、俺は理解した。なぜなら、あれをやったのはモンスターではないと彼らは言い切ることができたからだ。

彼らはれっきとした人間たち......鍛え抜かれた精鋭であり、心底から戦う男たちだ。家族もあり、子供もあり、愛情にもあふれ、しかも、彼らは、あの強さ、あの残忍行為をやってのける......強さをもっていたのだ。もし、ああした男たちでできた十個師団が俺の指揮下にあったなら、ベトナムでの我々の困難は立ち所に片が付いてしまっただろう。

道義心があって......しかも同時に、無感情に、激情にも走らず、思慮もなく......そうだ、思慮分別なしに、原始的な殺戮本能を行使できる男たちが必要なのだ。なぜなら、思慮分別というやつが我々を打ち負かすことになるからだ。


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Colonel “Walter E. Kurtz” Marlon Brando


米軍最高幹部への昇進を約束されていたカーツは、その栄光のコースをかなぐり捨てて、密林の奥に分け入り、先住民に君臨する王となり、原始そのままの殺人鬼となった。その変貌の転機となった劇的事件を刺客ウィラードに語っているのである。しかし、コンラッドの『闇の奥』には、このカーツの告白に結びつけることが出来そうなクルツの発言は見当たらない。それでもなお、コッポラが完全版脚本の方がコンラッドの原作に近いと考えたとすれば、私たちはカーツの告白をさらに深く読み解く必要があるようだ。

西欧文学には、墜落(フォール)をテーマとする執拗な伝統がある。定冠詞をつけてザ・フォールとすれば、アダムとイブの物語、神の恩寵を失った人間の地獄落ちを意味する。エリオットの詩『虚ろな人々』もこの系譜に属する。人間と文明の本質的な空虚さと堕落というテーマの20世紀的寓話をコンラッドの『闇の奥』に読んだエリオットは、『闇の奥』の中の黒人ボーイの言葉「ミスター・クルツ ー 彼、死んだ」(Mistah Kurtz - he dead)を『虚ろな人々』の冒頭の題詞に選んだのである。だから、この2つの作品の内容は密接にからみ合っている。

『地獄の黙示録』のエンディングで、カーツ大佐は最後の告白の前に『虚ろな人々』の最初の二行までを読み上げる。

われらは虚ろな人間
われらは剥製の人間
互いにもたれかかり合って
頭には藁がつまっている。ああ!
われらの乾いた声
互いに囁き合うときのその声は
ひそやかで意味もない
枯れ草の中の風のように、あるいは
ワインの絶えたわれらの地下倉の中で
砕けたガラスを踏むネズミの足音のように
形のない形、色のない陰
麻痺した力、動きのないジェスチャー

ここで、一人称で語るエリオットを含めて、この詩を読む者が「われら」であり『地獄の黙示録』のカーツ大佐も「われら」の1人と考えるのが自然だろう。だから、立花隆氏も「独立王国のトップまで登り詰めたところで、発見できたのは自己の空虚さでしかないということになったのである。だから、We are the hollow men(「我らは空ろなり」)とつぶやきながら、自分の空しさを終わらせるために、自分を殺してくれる人間の出現を待つということになってしまったのだ」と結論する。

そうだとすると、カーツ大佐はコミカルな存在になる。虚ろな「われら」の1人と自覚して自己嫌悪に落ち入り、挙げ句の果てにウィラードに殺してもらうとは何とも冴えない結末ではないか。だが、別の解釈も可能のように思われる。問題は、カーツが口ずさんだ1、2行に続く次の6行にある。

真っすぐに前を見据えて
死の彼岸の王国へと渡って行った者たちが
たとえ、万一、われらを覚えていようとも
破滅した烈しい魂としてではなく
ただ単に、虚ろな人間
剥製の人間としてでしかない。


ここで、エリオットはクルツを「真っすぐに見据えて、死の彼岸の王国へと渡って行った者たち」の中に数え、虚ろな「われら」とはっきりと区別している。こうなると、1、2行まで口ずさんだところで、虚ろな言葉を並べ立てるカメラマンに本を投げつけるカーツ大佐は、人間の邪悪さと悲惨さを正面から見据えながら従容と死を迎える自分をクルツと同定していたのだと解釈できるかもしれない。

コンラッドのクルツを何らかの意味で英雄的と考えるか、考えないか ー これは『闇の奥』解釈の中核の問題である。『闇の奥』を下敷きにして『地獄の黙示録』の制作をきめた時、コッポラは同じ問題をそっくりそのまま抱え込んでしまった。カーツ大佐をある意味で悲劇的英雄として描くか、描かないか ー この決断がコッポラには最後まで下せずに終わってしまった。これが映像的には輝かしい成果を上げながら、思想的メッセージとしては『地獄の黙示録』が名作ならぬ一種の「迷作」に止まったと考えざるを得ない理由の1つである。

しかし、その失敗した根本的理由は別にあり、しかも、その理由もまた、コンラッドの『闇の奥』から必然的に移ってきたウィルスに『地獄の黙示録』が冒されたからだと考える。その症状はカーツ大佐の最後の告白の中に見ることができる。

(引用終了)


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ここから、藤永氏は『地獄の黙示録』の初期の脚本にはないカーツの告白が、どのような経緯で映画に組み込まれていったのか?という疑問を抱き、カーツが語った切り落とされた腕のエピソードの真偽に迫り、100年前のコンゴの蜜論で何があったのか?を綿密に探り、表題にある、コンラッド、植民地主義、アフリカの重荷に対して、これまで為されてきた論考から、さらに先鋭化した「闇の奥」のまさに奥を著されています。

それは、本書の核となる論考ですが、こちらにメモすることは控えます。

☆参考サイト『本と奇妙な煙』
◎『闇の奥』の奥[1]
◎『闇の奥』の奥[2]

わたしが引用した箇所は、冒頭部分の極一部で、本書は「腕切り落とし事件」の真相を追った部分や、レオポルド2世の虐殺・収奪の歴史を軸に、西欧中心の歴史の横暴の告発を主内容としたものなんですが、氏が物理化学者のためか、凡庸なジャーナリストが社会告発をするような手触りとは異なり、『闇の奥』の文学論としても、また、この作品が優れた文学作品として、長く研究対象とされてきた理由すらも見えてくる、大変な力作だと思いました。

藤永氏は、カーツ大佐を演じたマーロン・ブランド自身には触れていませんが、立花氏の本を読んだときのように、気分が悪くなることがないどころか、ここまでの藤永氏の真摯な作品追求に胸が熱くなり、

扱われているテーマのシリアスさに対して相応しくないことは、よぉく分かっているのですが、読んでいて清々しい興奮を味わってしまうのは、きっと本物の「知の巨人」に出会えたからだと思いますっ!

藤永氏は現在85歳で、紹介した著書2冊の執筆時も80歳....他にも、『ロバート・オッペンハイマー』の本も書かれてて、まだ読んでないのに...なぜか...すでに涙が...

☆追記:読了しました!『ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者』


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ちなみに、藤永氏が疑問とされている「カーツ大佐の科白はどこから来たのか?」ですが

ブランドの自伝にはこう書かれています。

1976年の夏、私は『地獄の黙示録』に出演するためにフィリピンに行った。ところが到着してみると、監督のコッポラは鬱になったかと思うと、次にはパニックに陥るという有様で、撮影は遅れ、物語の結末もきまっていなかった。脚本の出来も話にならず、全編ドラマ性に欠けていた。

そこで「このまま、脚本を使うのもいいかもしれないが、変えないと我々が損するんじゃないかな。『闇の奥』では、コンラッドはクルツという男をイメージばかりが肥大した、ほとんど神話的な人物として書いている。映画でもここを押さえないといけないよ。カーツ大佐は孤高で謎に満ちていなければだめなんだ。その姿が見えるのは、ぎりぎりまで私たちの想像の中だけにしておくのさ」

オリジナルの脚本のカーツ像にしがみついていたら、彼にまつわる不吉な謎に焦点をしぼることができないと私は主張した。私の申し出にコッポラは賛成し、私はハウスポートにこもって脚本をまるまる書き直し、カーツ大佐の風貌について思いをめぐらせた。コンラッドはクルツの特徴をこう記している。

「頭は見事に禿げている。未開のジャングルが磨きあげたのだ。見よ!あれは玉、象牙の玉である......」

私はコッポラに告げずに、頭をツルツルに剃りあげ、カメラマンと照明部にエキセントリックな照明を当ててもらい、心ここにあらずといった口調で科白をしゃべり、そうして撮影したテストフィルムをコッポラに見せて、観客の耳に初めてとどくカーツの声は、暗闇から聞こえてくるべきだと言った......

プロットを再構成するだけでなく、カーツの科白も書いた。その中の死を目前にしたモノローグは、45分間という長セリフで、自分を見失いそうになるまでのめり込んだ役といえば、このカーツ大佐ぐらいである。自分を極力コントロールしなければならなかった独白シーンは、私が演じたものでは最高の部類に入ると自負している。

即席で創りあげた演技だった......コッポラは2回撮影したが ー 45分間のアドリブ演技を2回である ー そのフィルムはほとんど使わなかった。インパクトがあると私は思ったのだけれど、映画全体のなかでは浮いてしまったのかもしれない。モノローグのフィルムは部分的にしか見ていないので、はっきりしたことは言えないが。


(上記は、P432〜P446までの文章を省略して引用。わたしは、個人的にも莫大な資金を投入し、映画製作の全責任を負わなくてはいけない監督コッポラに気遣いをしつつも、エンディングへの不満を述べた文章だと思いました)


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私は、本書を読んでいるうちに(冒頭部分だけでなく)、なぜ、ニューヨーク・タイムスや、ローリング・ストーンズ誌に映画評を書いているような人に、ブランドの演技がこれほどまでに貶されたのか?という理由とか、夫人の本に記された、コッポラの映画製作の実務的苦悩とはまた別の苦悩があったことなども透けて見えてきました。

yomodalite註:これらの感想は、個人差があり...というか、むしろ、そのような効果は、私だけに見られるおそれがありますので、ご注意ください(笑)。

また、立花氏の『解読「地獄の黙示録」』では、通常の映画製作とは比較にならないほど監督が苦悩して制作したという事実から、その苦労を「上からねぎらうような態度」で傑作としているものの、

「世界文学に匹敵するレベルで作られた映画」という意味において、そこに、世界文学が引用されていること以外、本質的なことは何もわかっていないじゃん!とか、

「闇の奥」が語られて来た文脈を多少はわかっていたなら、ブランドの「カーツ」への批判が、その議論と関係ないわけないってことに「ピン」と来て!とか、

映画『地獄の黙示録』の解読と言っても、実際の映画の解読ではなく、原作本の訳者と、字幕職人(戸田奈津子氏)への、自分の方が英語デキル自慢ばっかりじゃん!とか、

アメリカ人が、ベトナムや黒人を見る目に「日本人」をまったく感じないって(呆)などと思うのも、きっとわたしだけだと思いますが(笑)、

『地獄の黙示録』のウィキペディア「撮影中のトラブル」に記述されているような、俳優たちのエピソードは、俳優たちに責任を負わせようとする、予算に関して本来責任を負うべき人のリークと、無責任なマスコミの合わせ技で、無声映画時代に溯るほどの伝統的手法であり、そういったことに未だに無自覚で、うかつに信じてしまうのも、どんなものかと.....

☆☆☆☆☆(満点)

yomodaliteのつぶやき:今頃になって気づいたんだけど、、私が『闇の奥』を理解しようとする気持ちのほとんどは、おバカメディアやブロガーによる、ブランドへの名誉毀損が許せないからなんだなぁ。。。

◎『闇の奥』の奥―コンラッド・植民地主義・アフリカの重荷/藤永茂(著)
◎[参考サイト]さてはてメモ帳 Imagine & Think!

☆「私の闇の奥」(藤永氏のサイト)にコメントされた、
高名な理論物理学者、川崎恭治氏と藤永氏のやりとり

◎白人にも黒人にも公平にする?(1)
◎白人にも黒人にも公平にする?(2)
◎白人にも黒人にも公平にする?(3)
◎白人にも黒人にも公平にする?(4)
◎白人にも黒人にも公平にする?(5)

☆闇の奥/ジョセフ・コンラッド[3](翻訳:黒原敏行)につづく


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Commented by jean moulin at 2011-12-27 18:15 x
>「豊饒の海」片手なのかも少しわかったような気がする。
>その話聞きたいっ!
三島由紀夫って小説や、戯曲をを書くとき、最後のひとことの向かって書いていくらしいの。
例えば「わが友ヒットラー」だったら、「政治は中道をいかなければなりません」ここに向かって構成されていくのね。
それが、「豊饒の海」4巻については、輪廻転生でしょ。
流麗な「春の雪」から始まって、転生を否定され、聡子からも記憶を否定され、すかすかの描写で終わる「天人五衰」
で、それを考えていたとき「『何もない』が現れる」が浮かんだの。
これは丹生谷貴史の「三島由紀夫とフーコー<不在の思考>」という本に納められた三島由紀夫論なんだけど。
(続く)


Commented by jean moulin at 2011-12-27 18:17 x
丹生谷さんは、私が敬愛している思想家で、この人に答えるためにものを作っているところもあるのだけれど・・。
この人の話だけでも尽きなくなってしまうので、取りあえず、それはまたという事にして・・。

丹生谷さんは明晰な思想家なんだけど、なぜか三島を論じると混沌としてくところがあって・・。
「『何もない』が現れる」は、私が要約できるようなものではないんだけど、三島がずっと幼少期からとらわれていた「言葉」から解放され、そこに「『何もない』が現れる」という感じ。
少し引用させていただくと「ともあれ、『言葉の枯渇の物語』はそこで大団円を迎える。・・こうして、すでに述べたように、遂に、『言葉』は使い切られ疲弊し枯渇して、『何もない』が現れる。」
(続く)
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by yomodalite | 2011-12-09 18:06 | 文学 | Trackback | Comments(2)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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