解読「地獄の黙示録」/立花隆[2]

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解読「地獄の黙示録」/立花隆[1]のつづき

(引き続き要約して引用)コッポラが、後半30分は、神話ないし寓話として見てもらいたいと語るとき、その背景には、こういった諸材料を用いて彼自身の神話を構築しているという事実がある。この他にコッポラが巧みに取入れた材料としては、ドアーズのジム・モリソンが作った「ジ・エンド」がある。




◎Apocalypse now - “The end” - The doors

「ジ・エンド」は11分以上かかる長い曲で、映画では冒頭と、後半のクライマックス部分がカーツ殺しのシーンにかぶさってくる。歌詞は字幕には出ないが、

Come on baby, take a chance with us.

というリフレインになっている。コッポラはこの音楽を使うことによって、観客のカーツ殺しへの参加を挑発しているのである。それが見事に劇的効果をあげているのは、この歌が父親殺しと母親との姦淫願望を歌った歌だからである。

このくだりの少し前に「殺人者は夜明け前に目を覚まし、ブーツを履き、古代の仮面をかぶり.....」と歌いだされ、やがて

And he came to a door
And he looked inside
“Father” Yes, son?”
“I want to kill you. Mother, I want to ..... ”

という最も物議をかもした部分がくる。「........ 」の部分は無言だが、fuck you というセリフが入るべきものとされている。オイディプスと同じように、この詩の主人公は、父を殺し、母と通じたあと旅に出る。

家族の構造がちがうアメリカでは、若者のエディプス・コンプレックスは日本より遥かに強い。すべての若者にとって、このコンプレックスを脱することが真に大人になるための最初の階梯となる。

コッポラは「ジ・エンド」から重要なセリフを作り出している。ひとつはカーツがウィラードに会って早々に問う、

「お前は真の自由、一切のものからの自由というものを考えたことがあるか」これは、オープニングの、

Can you picture what will be so limitless and free

オリジナルでは「真の自由を考えた事は?」特別完全版では「君は考えるか?“真の自由”とは何か」に照応する。

無制限の自由は神のみが持つ。同時に神の死を確認し、神を乗り越えたニーチェの超人が持つ。同時に、人間でありながら神となった「金枝篇」の聖なる王が持つ。また、父と子の関係でいえば、父が独占していた自由の獲得過程でもある。だが、自由は重荷である。真に無制限の自由は人間には負いきれないほど重い。だから、モリソンはつづける。

Desperatery in need of some stranger's hand / In a desperate land.

オリジナルは「果てなき破壊に何を見るのか」特別完全版「心に描けるだろうか/限りなく自由なものを」

これは、神となった自由の重荷に苦しむ、カーツの心境そのままといってよい。彼はこの重荷から逃れるために必要な some stranger's hand をもっていたのである。

もうひとつの重要なセリフは、ウィラードたちが上陸するとき、それを迎えたカメラマンがいう「奴らはみんな彼の子供だ。我々はみんな彼の子供だ」(オリジナルは「全員彼の部下さ。彼の崇拝者だ」特別完全版「あいつらは皆、彼の子供だ。おれたちは皆、彼の子供だ」)

このカメラマンの役どころと、その主要なセリフは、オープニングの最後の一節、

Lost in Roman wilderness of pain
And all the children are insane
All the children are insane
Waiting for the summer rain

オリジナルは「苦痛の荒野に迷い、童達は狂おしく/童達は狂おしく/夏の慈雨を待つ」特別完全版は「果てしない苦痛の荒野に進むべき道を失いーすべての子供たちはー狂気に走る/すべての子供たちはー狂気に走る」

と照応し、Roman wilderness を、Vietnamese wilderness に置き換えればわかるように、そのまま、カーツの子どもたち、カーツの王国の民の内的状況を歌ったものとして利用されているわけだ。

こうして、コッポラは映画の大状況をきわめて暗示的に観客にすべて提出してしまうのだ。その間画面では、長い長い三重像のモンタージュがつづき、それによって、イメージを通して同じことを行っている。

オープニングの「ジ・エンド」を通して、コッポラは映画の大状況をきわめて暗示的に観客に提示する。この冒頭の意識の流れは、最終画面のウィラードの意識の流れとそのままダブるものであったことが知らされる。(註1)

映画のエンディングが、そのままオープニングになっているのである。
これは文字通り「This is the end」ではじまる映画なのだ。


(註1)オリジナルは「麗しき友よ これぞ終局/唯一の友よ これぞ終局/展望も価値もすべてが終わりを告げる/終局が確実に..../君との訣別だ」

特別完全版は「これで終わりだ 美しい友よ/これで終わりだ ただ1人の友よ/築き上げた理想はもろくも崩れー/立っていたものはすべて倒れた/安らぎは失われ 驚きは去って/もう二度と君の瞳を見ることはないだろう」

多少、詩心のある人なら、雨を待ち望みつつ、子供たちが気が狂っているという情景に、エリオットの「荒地」を想起するだろう。「荒地」と「ジ・エンド」には内的連関があり、同様にエリオットとコンラッドとの間にも内的連関がある。

コッポラはこうした作品群を利用し、換骨奪胎して用いていく。コンラッドのカーツとコッポラのカーツは決定的にちがう部分がある。コンラッドのカーツは生に異常に執着を燃やしながら、病死していく。コッポラのカーツは、逆に死ぬことを願望しており、斧をふるうウィラードに無抵抗に殺されていく。

コンラッドのカーツは貪婪にして無慈悲、背徳と堕落のきわみをきわめた人物として描かれている。しかし、そのカーツが最期の死に際の一瞬間に、カッと眼を見開き、それまでの尊大な自負を捨て、自分の根底的人間性欠如を絶望と恐怖の中で認識して、

自分の生活と自分と言う人間を、“The horror” の一言で総括する。


死の瞬間のこの一言あったが故に、マーローはそれ以前のカーツは全否定しながらも、カーツを高く評価する。その一瞬を一切の知恵と真理と誠実とが圧縮された「完全知を獲た至上の一瞬間」という。死の一瞬の認識によって、極悪人の一切が許され救済されるのである。ちょうど、イエスの隣で十字架刑にされた罪人のように。

しかし、コッポラのカーツは、そうしたものとしては描かれていない。カーツは救済されず、断罪され、殺されなければならない。ここにコッポラの核心がある。それをさらに明確に示すのが、“The Hollow Men”の扱いと、Judgement の問題の提出である。

カーツが、“We are the hollow men.....” と詩の朗読をつづける。空ろな人間の心象風景がつづられるその詩の朗読中に、先に述べた、カメラマンのおしゃべりが入ってくる。そこで少し聴き取りにくくなるが、字幕の訳が終わったあとも、

Those who have crossed With direct eyes, というところまで朗読はつづく。ここで朗読はとぎれるが、実際の詩はこのあと次のように続いている。

to death's other Kingdom Remember us - if at all - not as lost
Violet souls, but only
As the hollow men
The stuffed men

死の彼方の王国に眼を見開いたまま渡っていった人々よ、もし我々を思い出すことがあれば、狂える暴虐の魂を持った人間としてではなく、ただ、空ろな人間として、中身はワラしか詰まっていない人間として思い起こしてくれたまえ、というような意味である。

この詩で問題なのは、誰が空ろな人間であり、誰が死の彼方の王国へ眼を見開いたまま渡っていった人間かということである。

◎戦争の持つ論理の問題

さて、コンラッドのカーツが根本的に欠いていたものとは何か。コンラッドはそれを a complete want of Judgement といい、中野は Judgement に「理性的判断」の訳語を与えている。judge と Judgement がカメラマン、あるいはカーツの口を通して何度も出てくる。字幕は「裁き」の訳語を与えているが、これはほとんど誤りで、

The man is clear in mind. But his soul is mad.(あの人の心は狂っていない。魂は狂っている)(註)というカメラマンのセリフの訳もまた誤りである。mindは精神である。人間の理性の働く場である。コンラッドは同じセリフの場所で mind に代えて Intelligence を用いていることでもそれはわかろう。Judgement は判断力である。

一般に、理性と意志の間を調停して行動に結びつけるものが、判断力である。カーツは理性も、意志も持ちながら、判断力を持たない。だから狂っているのである......

☆註:オリジナル現行版では「彼の頭脳は明晰だが魂が病んでいる」特別完全版は「彼の心は狂っていない。魂は狂ってる」



(ふぅーーーーーー)

ここまでで、本書の2/1を少し過ぎたあたり。要約して紹介するつもりでしたが、字幕スーパーの問題部分など、つい気になってしまって、ガンガン書き写してしまいましたが、まだまだ引用したい箇所がありました。ただ、残念だったのは、

立花氏がマーロン・ブランドに、さっぱり興味をもっていなかったこと。

氏は、この映画が、世界文学に匹敵するレベルで作られた映画であるとし、この映画の基盤となっている、文学作品を紹介し、映画の字幕スーパーだけでなく、評者の理解の低さを問題にしている。それは、まったくそのとおりで、日本人は「世界文学」に対し、理解できない点がすごく多いと思う。

世界的にみても、日本の読書人口も、作家人口も圧倒的で、日本人は「文学エリート」であって不思議ではないはずなのに「世界文学」がわからないのは、日本人には「God」や「父殺し」が理解できないからだ。昭和天皇に関する本を、何冊も読んで、つくづく、そう思ったのだけど、、

「God」や「父殺し」がわからないということは「王」だってわからないし「国際政治」もわからない。もう、草食動物が、肉を食えないのと同じぐらい「ダメ」なんだと思う(だからといって、「ライオン」になる必要もないとは思いますが....)。

この本をマーロン・ブランドを知る前に読まなくてよかったと思う。「かつて」とか「落ちた」とか言われても、流石は元「知の巨人」有用な知識をたくさん授けてくれます。

でも、ブランドに出逢ったあとに、立花氏の知識を聞いていると、それは単なる「知識」でしかなく「文学」や「芸術」について、この人はただ「教養」として知っているだけで、全然、わかっちゃいないようにも思える。

映画は、総合芸術で、さまざまなプロフェッショナルによって、創り上げられるものなので、それぞれが興味を抱き、学べる点は数多く、完成までの「物語」には、興味深い点がいっぱいあるでしょう。だから、コッポラの映画としての評価にも、さまざまな観点はあると思う。でも、世界文学に匹敵し...という観点で見るなら、『闇の奥』のクルツを、ブランドがどう創造したかに目が行かないのは、

ダンスについて、あれこれ語っていた人が、マイケル・ジャクソンをわからないと知ったときに感じるような、決定的な「疑惑」で、それは、ことばで説明できなくても、絶対にありえない。

この映画に限らず、ブランドについて、その存在の偉大さではなく、ギャラの高さや、制作中のトラブルなど、どーでもいい情報で語っている記事は本当に多いのだけど、、もう本当にくだらないというか、そーゆー人の感覚が、わたしにはまったく理解できない。

例えば、『ゴッドファーザー』の「パート2」で、ブランドがギャラを高く要求しすぎて、作品の内容が大幅に変わり、コッポラが苦労したのなら、なぜ、彼は、難解な作品を原作とする映画を、これまでの儲けをすべて投じても完成させたいと思ったとき、またもや、ブランドを起用したのか?

なぜ、ブランドの拘束期間のギャラの高さを理解していたにも関わらず、撮影日になっても、脚本が完成されていなかったのか?

その理由を、夫人のドキュメンタリや、他の研究本を読むだけで語っているようでは、立花氏が映画についても、文学についても、本質的なことは語れない人であるのは、明らかとしか言いようがないと思う。

マイケル・ジャクソンが、どんなネガティブキャンペーンに晒されても「THIS IS IT」のオーディションに来た、ダンサーや、ミュージシャン達の、彼を見る眼差しに一点の曇りがないことと同様に、そこには、どんな情報も知識もひれ伏す「真実」があり、マーロン・ブランドは、存在そのものが「世界文学的」で、コッポラも彼の存在ありきで、映画を創っている。

その後、芸術性の高さと、映画の現実的収益に折り合いをつけること、啓示でありミューズでもあるブランドへの嫉妬....その他、さまざまな圧力もあり、映画にどう決着をつけるか、コッポラは極限まで悩んだけど、それでも、ブランドにしかカーツを創造することはできないのだ。

でも、そんなコッポラの悩みの深さにも、この手のジャーナリスティックな人は、いつもどおり、最小限の仕事による「根拠なき上から目線」でジャッジングしようとする(“The Hollow Men”の扱いと、Judgement の問題とか.....どの口で?)

立花氏は、この映画の大きなテーマである「偽善」について、「戦争の持つ論理の問題」について、深い見解を紹介されていて、それはそれは素晴らしいのですが、語っている立花氏が「わかっている」のでなく、どこかの英文記事で拾い読みしたような知識で書かれているように感じる。

たぶん、立花氏が参考にしているような高級紙の論調でも、ブランドについて、あまり真摯に論じられていなかったからでしょう。なぜなら、彼は、この映画でカーツを演じる前から、ずっーーと真摯にアメリカの偽善と向き合ってきたから。

立花氏が、それらを読んで、そこに気づかないのは、本質的にわかってないからだと思ったのだけど、それとも、角栄殺しの先鋒に立たれた氏には、ウィラードの気持ちがわかって「闇の奥」が見えるんでしょうか?

違いますよね? 

ウィラードのことを書いていて「ノイローゼ」にならないんですから・・・

で、そーゆー人に「The horror」が「地獄」でないと教えられてもね・・・

☆立花氏のこと、スゴく悪く言ってしまっているかもしれませんが、この本から全然学べていない人が言っていることは、もっともっとずっーーと気持ちが悪く「ありえない」もので、この映画が「世界文学に匹敵するレベルで作られた映画」というのは、コッポラの自負心や、立花氏の独自の見解ではなく、世界の常識であって、

それを、どうして日本人にはわからないのか?という点をわからない人が、批判していたり、低評価だったりしているので、読む価値があるかないかで言えば、本書はものすごく「学べる点が多い良書」です。


ただ、立花氏のような優秀なジャーナリストがどれだけ自分の「Judgement」で仕事をしてきたか、を考えると、私にはどうしても、氏の解読がうすら寒いものに感じられてならなかった。それでも、立花氏が書かれた、

こういう映画か、とわかったつもりになったとたん、その人のこの映画の見方は浅いレベルで完結してしまう。

には強く共感しました。






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by yomodalite | 2011-12-01 16:27 | 評論・インタヴュー | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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