解読「地獄の黙示録」/立花隆[1]

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今年の夏に、思わぬきっかけでやって来てしまった「マーロン・ブランド・ブーム」。それから、彼の映画を色々観ましたが『地獄の黙示録』は以前に1度観ていることと、戦争映画が苦手なこと、そして、この映画の役がブランドにとって、とても偉大な役だったのではないかと思うと、緊張して、簡単には観ることが出来ないうえに、

わたしは、通常、映画を観るまえには、情報も評判もあまり取入れないで観たい方なんですが『地獄の黙示録』は、難解とされる文学作品が原作ということもあって、そうでなくても、意味のとり違えや、省略のしすぎなどの問題をかかえる字幕スーパーを、もっとも信用できないタイプの映画なので、ある程度、注意すべき点を、事前にチェックしておきたいと思って、本書を読みました。



本書の第一部は、2002年「文芸春秋」2月号「『地獄の黙示録』22年前の衝撃」というタイトルで掲載され、同年に封切られた「特別完全版」について書かれたもので、第二部は「諸君!」1980年5月号「「地獄の黙示録』研究」として掲載され、その一部抜粋は上記の「文芸春秋」にも掲載されているもの。第三部がは、映画のパンフ、キネマ旬報、毎日新聞などに書いた文章と本書のための語り下ろし。

下記は、本書から要約して引用したもの。


(著者は)この映画が内容の深さにおいて、はじめて世界文学に匹敵するレベルで作られた映画で、見る人に挑戦するかのような重層構造になっていると言い、こういう映画か、とわかったつもりになったとたん、その人のこの映画の見方は浅いレベルで完結してしまうことになるという。

一番難解といわれたエンディングについて「諸君!」80年5月号の長文の映画評は評判を読んだ。コッポラが映画を創るにあたって、下敷きにしたコンラッドの「闇の奥」、T・Sエリオットの「荒地」と「うつろな人々」ヨーロッパに伝わる聖杯伝説、フレイザー「金枝篇」ドアーズの「ジ・エンド」を手がかりに、メッセージを読み解くという内容で、当時は深読みのしすぎと批判されたが、映画の完全版では、わたしが書いた80年論文のエンディングの骨格がより鮮明になったと思う。

「地獄の黙示録」ができるまでのすべてを記録したものとして、エレノア夫人の「『地獄の黙示録』撮影全記録」があり、製作過程を撮った私的ドキュメンタリー『ハート・オブ・ダークネス』も公開されている。コッポラは最後までエンディングに悩みつづけ、ブランドが撮影現場から去った後も、コッポラは他の役者とスタッフを動かし、残りを撮影した。

この映画だけではなく、きわめて重要なセリフの含意が、観客に正しく伝わっていないことが多い。下記は、その一例。

ウィラード大尉が、ナ・トランの司令部で、カーツ殺害の指令を、将軍から受けとる場面で、将軍はカーツという人物を説明して、カーツはアメリカが生んだ最も傑出した将校だったが、特殊部隊に入ってから、頭がおかしくなり、

his, ah ideas......methods.......became unsound.

というくだりがある。methods と unsound ということばが選び抜かれたものであることは、その間によって明らかである。将軍はこういってから、もう1度、unsound とくり返す。この場面は、映画の中ほど、バニーガールのシーンの後で、船中でカーツ関係の書類をウィラードが読んでいるところで、再び、カット・バック(字幕なし)で挿入される(註1)。また、ウィラードがカーツとはじめて出会う場面でも1度くり返される。カーツは自分を殺す必要性を将軍たちがどう説明したかを問う。

ウィラード:that your, methods, were.......unsound. といわれたという
カーツ:Are my methods unsound?

☆註1:現行オリジナル版では、字幕なし。特別完全版では「不健全だ」

ウィラード:I don't see.......any methods..........at all sir.

以上のやりとりにおいて、methods が unsound という表現は、字幕では「行動が異常になった」としか表現されていない。この訳はまちがっている。ここは字義どうり「方法が不健全である」と訳さなければならない。

その後ヘラルド映画社はこの批判を受入れて、いま流通しているビデオでは「作戦行動が異常になった」になっている。前よりマシになったが、本質的に解決していない。「方法が不健全」とは、やさしい言葉でいえば「やり方がよくない」ということである。

methods が、unsoundというのは『闇の奥』の表現そのままで、中野好夫は「やり方が悪い」の訳語をあてている。問題は「やり方」の問題、目的達成のために用いる手段の問題なのである。

カーツの場合は、自分の意志に従わないものはどんどん殺し、テロルの恐怖による支配を貫徹するということである。作戦行動の問題ではなく、作戦行動の基盤をなす考え方の問題なのである。

「彼ら(ナ・トランの将軍)は何と?」
「こう言いました。あなたが常規を逸して ー 完全に気が狂い ー あなたの ー 作戦行動が ー 不健全だと」
「私の作戦行動が不健全?」
「私の目にはー作戦行動など ー どこにも.....」(I don't see.....any methods.....)

作戦行動がどこにもないわけではない。作戦行動はあるが、その方法(method)がいけないのである。これとそっくりのやりとりは『闇の奥』にもあって、

「やり方が悪いと言うんだね、君は?」
「そうだとも、ちがうとでもいうのかね?.......」
「善いも、悪いも、全然無方法だよ(no methods at all)
「そう、そうなんだ、とにかく全然理性的判断というものがないんだからねぇ」

となっていて、後のほうのポイントでは「全然無方法」の訳語があてられている。

これは全編を貫くキーワードの1つである。この言葉を通してナ・トランの将軍たちとカーツ大佐は、その持つ目的は同じだが、その方法論がちがうだけの同じ穴のムジナであることが示される。

両者の違いは、本質的なちがいではなく、現象的なちがいである。だからこそカーツは、コッポラの言葉を借りれば「ベトナムにおけるアメリカそのものの象徴」たりうるのだ。

コッポラはくり返し、この映画のテーマはモラルの問題であり、かつ偽善の問題であるという。将軍たちもカーツと同じだということなのである。このセリフが重要なのは、これがコンラッドの『闇の奥』からほとんどそのまま取ってこられたものであるからだ。

翻訳のデタラメさだけでなく、文化的背景の違いから、作者が観客に期待する基礎的な知識が、日本の観客に欠けているのだ。一例をあげると、カーツが、T・S・エリオットの「The Hollow Men」を朗読するくだりがある。カーツが Mutt, You mutt.(バカ、アホウの意。字幕では「ノラ犬め」となっている)とののしりながら、何かものを投げつける。カメラマンは、こういいながら、すごすご立ち去る。

This is the way the fucking world ends. Look at this fucking shit we're in, man. Not with a bang, with a whimper. And with a whimper, I'm fucking splitting.

字幕の「これが、この世の終わりだ。まるで地獄じゃないか。私はあきらめている。静かに消えていくよ」は誤訳である。なぜなら、これはエリオットの The Hollow Men の最後の一節のもじりだからだ。

This is the way the world ends
This is the way the world ends
This is the way the world ends
Not with a bang but a whimper

というのが、それである。この一節はエリオットがわらべ歌を利用して、そのもじりとして書いたこともあって、The Hollow Men の中では、最も有名なくだりで、読んだことがない人でも、この一節だけは知っていて、また、このくだりは、映画のエンディングを暗示するものとなっている。


◎エンディングをめぐる問題

この映画をめぐる論争点のひとつに、映画のエンディングがある。俗説では、この映画には3つの異なるエンディングがあって、

カンヌ映画祭でグランプリを得たときのもの(編集途中という表記つき)は、カーツ殺しのあと、寺院前庭の場で終わり、

70ミリ版は、それにつづいてウィラードとランスが船に乗り、2人が闇の中に消えていく画像に、映画の冒頭と似たようなモンタージュが重なっていく。

35ミリ版は、さらにその後に寺院大爆破のシーンがあるという。

しかし、コッポラはこの映画のエンディングはただ1つしかなく、あの映画にはそれ以外の終わり方がありえないことが誰にもわかるはずだという。35ミリ版のタイトルバックとして添えられた大爆破は、現実描写ではなく、映画全体のメタファとして、火のイメージをシュルレアリスティックに処理したものだという。

70ミリ版はエンディングのあと、画面にはしばらく何も映らない。何も映らない数秒が過ぎたところで、画面が真黒に変わり、そこに白抜きで製作・監督・フランシス・コッポラのタイトルがせり上がってくる。それがフェイドアウトしてから、はじめて寺院爆破のシーンが出る。

日本の評者の中には、ウィラードがカーツ殺したのは、煩悶の末に、結局司令部で与えられた指令を実行したのだと解釈した人が少なからずいたが、これは作者の意図とは正反対の解釈である。ウィラードは自分自身の自由な意思と決断においてカーツを殺したのだ。結果は同じであっても、彼は指令とは無関係に成したのである。

ウィラードは、はじめの束縛から解放された後、何日間も、何の監視も受けず、全く自由な状態におかれる。(セリフとモンタージュによって示される)

オリジナル現行版「俺は迷った。俺は監視もされず自由だった。俺が逃げない事を彼は知っている。俺の行動を看破している」

特別完全版「数日が過ぎた。監視もされず自由だった。俺は逃げなかった。彼は俺の心を見通していた」

司令部と連絡をとればとれたのに、そうしない。ウィラードのナレーションが

They were going to make a Major for this......and I wasn't ever in their fucking Army anymore. (オリジナル版字幕では「成功すれば、俺は少佐だが、そんな事は問題じゃない」特別完全版では「これでおれは少佐に昇級。軍隊など、どうでもいい」

ウィラードはここで、自分が「奴らの軍隊」とははっきり訣別した存在になったことを語っているのであって「これでおれは少佐に昇級〜」は正しくニュアンスを伝えていない。

誤解の一因となっていたのは「全員絶滅せよ」の走り書きで、これはコンラッドの『闇の奥』を下書きにしたエピソードであって、ウィラードに与えた遺言ではない。日本の評者は、この映画の鑑賞のために、あわてて中野訳の『闇の奥』を走り読みした人が多いようだが、コンラッドは「走り読み」を許さないタイプの作家であるうえに、中野訳にも問題が多い。例えば

中野訳:コンラッドは主人公の死に際に「地獄、地獄だ!」とつぶやかせているが、コンラッドのカーツ(クルツ)も、映画でも、この言葉は、

The horror. The horror(字幕は「恐怖だ、地獄の恐怖だ」)

字幕には、何カ所も「地獄」が出てくるが、現実はそれにあたる英語は一カ所もない。

話を戻して、コンラッドのカーツは国際蛮習防止協会から、蛮習防止のために資するような報告書を書く事を求められていた。映画のウィラードにあたる語り手のマーローがカーツの死後、発見して読んでみると、燃えるような崇高なことばで、実に雄弁にもっともらしい理想主義的言辞が書き連ねられていたが、その最後のページに、ふるえる手で、たった一言、

Exterminate all the brutes !(「奴ら野蛮人を根こそぎ抹殺せよ」)

と、後から書き加えられていたのである。この一言は「いわば方法の提示とでもいったもの」と思えたと言う。コンラッドのカーツもまた、その会社当局によって、method が unsound であるとして批判を受けていた。

カーツは「いわばヨーロッパ全体が集って彼を作り上げたといたといってよい」ような超エリートであり、深い思想と理想の持主であり、内から溢れ出るもので人を魅了しさるような人物だった。


彼は常日頃、文明人は土民をただ経済的に収奪するだけでなく、彼らを教化善導してやる責務を負わされているといったことを口にしていたのだが、その心の奥底では、野蛮人を皆殺しにして根絶することだけが、蛮習防止の唯一の方法であると考えていたのだ。

コッポラのカーツも、口ではいろいろともっともらしいことを並べたてるものの、その方法論を一口で要約すれば、

Exterminate them all.

なのである。だから、コンラッドのマーローも、コッポラのウィラードも方法が健全か不健全かという議論にまき込まれないで、

Not any method at all

オリジナル版現行字幕では「まだ何も.....見ていません」特別完全版では「作戦行動など ー どこにも......」

の一言で答えている。この一例に見られるように、コッポラは濃密なシーケンスを作り出すために、幾つかの下敷きを利用して、画面ではいわばそれをほんのちょっとだけ暗示的に引用し、その1つ1つの暗示的引用の背景にある広大な原作品の意味的、思想的かつ感情的広がりを利用しながら、それを重層的に構成していって、ひとつの自分独自の世界を作り出すと言う試みをしている。

これはエリオットが、その試作において使用した方法で、この方法は下手をするとガラクタの寄せ集めとなる、又はそう見られる恐れがある。実際エリオットの『荒地』は発表されてからしばらくの間、批評家の間でそうしたものとして酷評を受けていたのである。

☆解読「地獄の黙示録」/立花隆[2]につづく




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by yomodalite | 2011-12-01 16:14 | 評論・インタヴュー | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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