ウィキリークス アサンジの戦争(2)/デヴィッド・リー、ルーク・ハーディング (著)

ウィキリークス アサンジの戦争(1)のつづき


9. アフガニスタン戦争報告書 ー サイバースペース 2010年7月25日
「武装勢力の卑怯な行動の結果、罪なき命が失われたことを悲しく思う」クリス・ベルチャー(米陸軍少佐 アフガニスタンにて)

当時から謎が多いとされたアフガン紛争だが、2007年6月17日に発生したこの事件について米陸軍特殊作戦報道部は、こう伝えた。「空襲の初期報告で、神学校にいた7名の子どもの死亡を確認。これは罪のない一般市民を盾にして自らの身を守るという、アルカイーダのやり口そのものだ」クリス・ベルチャー陸軍少佐は語る。「武装勢力の卑怯な行動の結果、罪なき命が失われたことを悲しく思う」ところが、この3年後、ウィキリークスが入手した米軍の戦争報告によってこの事件の「真相」が明らかになる。報告書は、この空襲がただの「空襲」でなかった事実を示していた。

10. イラク戦争報告書 ー サイバースペース 2010年10月22日
「ご存知のように、我々は死者の数を数えない」トミー・フランクス大将(元・米軍中央軍事司令官)

イラク戦争報告書は“数字”がすべてを物語っている。米英両軍による、痛し痒しの「解放」がなされた後も、アメリカ政府やイギリス首相はイラクでの民間人死者の公表を拒否し続けてきた。トミー・フランクス大将の「我々は死者の数を数えない」という2002年の発言は、悪い意味で有名になり、その後何度も引用されてきた。フランクスが「自由のイラク作戦」を決行する1年前の言葉である。ところが、2010年10月、大量に流出したイラク戦争報告書のデータが公開され「存在しない」はずの民間人の犠牲者数が判明した。イラクへの侵攻以来、少なくとも6万6081名の民間人が犠牲になっている事実が明らかになった。

11. 公電 ー スコットランド ロッホナガー近郊 2010年8月
AcollectionOfDiplomaticHistorySince_1966_ToThe_PresentDay# 58文字のアサンジのパスワード

リビア、アメリカ両国間の外交上の駆け引きについて見えてきたのは、複雑で実に興味深い「絵」だった。超大国が「おだて」や裏工作、盗聴、時には弱いものいじめまでしながら外交を行っている実態が浮かび上がってきた。核開発の野望を抱き、巨万の富をもたらす石油貯蔵庫を抱える指導者の、呆れるほどに常規を逸した態度ー側近にもめったに見せない真実の姿を示されていた。また、イギリス人記者の立場からすれば、国際舞台で実力以上の力を発揮していると自負する我が祖国が、自分で選べる選択肢には限りがありそうだという実態もはっきりと見て取れた。

12. 世界 一 有名な男ーストックホルム ソーニャ・ブラウンのフラット 2010年8月13日の金曜日
「ソーニャは何度も手を伸ばしてコンドームを取ろうとしたが、アサンジは彼女の両腕を取り、脚を押さえて阻止した」(スウェーデン警察の調書より)

「ジュリアン・アサンジが強姦罪で訴えられた」という爆弾情報が飛び込んできた。リーとデイヴィスは、大慌てで国際電話を何本もかけ続け“性の対立劇”の経緯を追いかけた。この醜聞は最終的に、スウェーデン検察当局のイギリスへの「アサンジの身柄引き渡し」要求へとつながっていく。1つだけ、確かなことがある。ジュリアン・アサンジは多くの人々がその言葉から想像するような、いわゆる「強姦魔」では決してない。つまり、タブロイド紙のヘッドラインに踊る「レイプ」という言葉から想起されるような、計画的で残忍な性的暴行の罪で訴えられているわけではないのだ。

13. パートナーの不安 ー ロンドン「ガーディアン」編集主幹室 2010年11月1日
「私は闘争を好む人間だ」ジュリアン・アサンジ(オックスフォード テッドグローバル会議での発言)

ウィキリークスと提携を続ける3メディアは、ジュリアン・アサンジと会うべきときが来たと思った。すべてがとんでもなく厄介なことになりそうだったのだ。

14. 嵐の前に ー マドリッド ミゲル・ユステ通り「エル・バイス」社 2010年11月14日
「まるでスロットマシンだよ。コインの出口で帽子を持ってればいいだけだった」アラン・ラスブリジャー(「ガーディアン」編集主幹)

ボサボサ頭で画面に映る彼らの姿は、テロリストの隠れ家に捕われてた人質のように見える。そのうちの1人がカメラに近づいた。手に持った1枚の紙をことらへ向けている。そこには謎めいた6桁の数字が書かれていた。スイス銀行の秘密口座? 電話番号? あるいは「ダ・ヴィンチ・コード」と何か関係でもあるのだろうか?
実を言えば、彼らは過激派でも捕われた人質ではなく、スペインの新聞「エル・バイス」の記者たちだ。紙に書かれた謎の数字も身代金の要求額などではなく、25万以上もの外交公電の1通を示す番号なのである。すでに提携関係にあったイギリス、アメリカ、ドイツの3メディアー「ニューヨーク・タイムズ」のビル・ケラーは、これを「三国同盟」と名付けたーに後から参加した「エル・バイス」は公電データを分析する部屋を用意する時間がなかった。同紙とフランスの「ル・モンド」紙は、この“ウィキリークス・パーティー”に遅れて参加したため「Dデー」として合意した公開日まで2週間の間に公電を調べなくてはならなかった。

15. 公開日 ー スイス バーゼル パディッシャー駅 2010年11月28日
「行けっ! 行けっ! 行けーっ!」(「ガーディアン」紙ニュースルーム)

バーゼル パディッシャー駅は、その朝、この駅は別のことでその名を知られるようになる。地元局「ラジオ・バーゼル」編集長のクリスチャン・ヒープがパディッシャー駅で「デア・シュピーゲル」を見つけたのである。表紙にはセンセーショナルな見出しが躍っていた。「発覚!アメリカは世界をどう見ているのか」小見出しには「米外務省の極秘文書」とある。赤字の表紙には、世界各国の指導者の写真が、米国外交文書からの屈辱的な引用文とともに、ずらりと並べられていた。

ヒープのラジオ局はさっそくこのニュースを流し、匿名のツイッター・ユーザーが自分でそれをたしかめようとした。ブログの世界ではすぐに「地元の匿名ジャーナリスト」が思わぬお宝を掘り当てたらしい」という情報が広がった。「もう止められないとわかった。つまり我々の情報も漏洩してしまったわけだ」ラスブリジャーが皮肉っぽい口調で振り返る。

午後6時にさしかかる頃には「ガーディアン」のウェブサイト制作スタッフがコンピュータースクリーンを前に待ち構えている。制作部長のジョナサン・キャソンが訊ねた。「行くかい?」カッツが答える「行けっー」その瞬間。スタッフの口々に引き継がれ、たちまち広がっていった。史上最大の漏洩情報公開ー通称「ケーブル(公電)ゲート」ーはこうして実行に移されたのだった。

16. 史上最大の機密漏洩 ー サイバースペース 2010年11月30日
「それは歴史家の夢であり、外交官の悪夢である」ティモシー・ガートン・アッシュ(歴史学者)

私たちは、ウィキリークスから何を学んだのだろうか。通常の情報漏洩事件と同じように、意見は真っ二つに割れた。「自分は何でも知っている」と思っている保守的な都会人にとっては、今回流出した公電の内容は大して面白くないものだった。アラブがイランを好きではない?ロシア政府が腐敗?アフリカの一部は国民から搾取している?おいおい、そんなことは誰だって知ってるぞ。お次ぎは何?ローマ法王が何とカトリックだったって?

こうした人々にとって、今回公開された資料は当たり前のことが書いてあるだけで、“外交に関する退屈な睦言”に過ぎない(これは「ロンドン・レヴュー・オブ・ブックス」)誌の表現だ。学者のグレン・ニューウェイは「ニコラ・サルコジ仏大統領が“背が低くナポレオン・コンプレックスがある”と評されたって、別に何とも思わない」と語っている)

その一方で「アメリカ人のマナーの悪さはこんなものではないはずだ」と論じる人もいた。左派は大いに失望し、時に疑いさえ抱いた。公電が短いのはイデオロギー的な編集や検閲が行われたからだ。イスラエル関連の公電がなぜこれしかないのか?片や、右派や政府は、公電の公開は公共の利益になどならない、と主張し始めた。米国政府は「漏洩によって多くの人々の命が危険にさらされ、同盟国や友好国との関係を困難にし、テロリストを助けるものだ」といって非難した。

こうした議論が忘れられているのは、民主主義が完全に機能していなかったり、ロンドンやパリやニューヨークで見られるような言論の自由がなかったりする国々の多くが公電の内容を待ち望んでいたという事実である。そして、それこそがウィキリークスによる情報公開の力だった。

17. ウォンズワース獄舎のバラッド ー ロンドン ウエストミンスター治安判事裁判所 2010年12月7日
「私は他の苦しむ魂と共に歩いた」オスカー・ワイルド(「レディング獄舎のバラッド」より)

幾多の人々にとってジュリアン・アサンジはネット時代の聖セバスチャンになった。「神」を信じぬ者どもの矢に射抜かれた殉教者だ。この前夜、スウェーデン司法当局は、ストックホルムで2人の女性に暴行をはたらいた容疑に対し、アサンジの逮捕状の発布を決め、彼はインターポール(国際刑事警察機構)に指名手配された。手配書の容疑は“性犯罪”だ。ウィキリークス関係者によれば、出頭の覚悟を決めた後、ようやくアサンジはぐっすり眠ったらしい。アサンジの保釈は認められなかった。マイケル.ムーアが保釈金として2万ドルの提供を約束し“政府が生贄に手をかけようとするのに知らん顔を決め込むのは止めよう”と呼びかけた。

アサンジを擁護する者の中には彼を個人的に知っている者もいたし、そうでない者もいた。アメリカの面子を潰したという本当の“罪”のために投獄されようとしているのだと彼らは考えていた。一方アサンジは囚人としての新しい生活に適応しようとしていた。保釈申請が却下されてから1週間が経っていた。12月14日ー2度目の出廷をする頃には、アサンジの名前は天まで届きそうなほど高まり、イギリスの有力者たちも続々と彼の支援に駆けつけるようになった。傍聴席のチケットは、まるで、「チャーリーとチョコレート工場」に登場する「夢の招待券」を入手するようなものだった。

18.ウィキリークスの行方 ー イギリス ノーフォーク州エリンガム・ホール 2010年クリスマス
「年長者に辟易としているネット時代の若者にとって、ジュリアンは素晴らしいショーマンだ」ジョン・ヤング(クリプトーム主宰)

アサンジは「ガーディアン」のイアン・カッツ、そしてルーク・ハーディングと共にキッチンに腰を下ろしながら、ウィキリークスの不確かな将来に思いを巡らせていた。相変わらず不安は消えなかった。昨晩のフォックスニュースで、また1人目立ちたがりのコメンテーターがアサンジの死を要求したのだ。もしアメリカに引き渡され、刑務所に入れられたら、どうすればいいのだろう。アサンジの弁護士の味方も厳しかった。「アサンジはグアンタナモ基地に拘束されるらもしれない、死刑判決が出るリスクは現実に存在するのだ」クリスマスになると、“ウィキリークス現象”が終わってしまったのではないかとさえ感じられるようになった。膨大な量の情報をリークしたとされる、ブラッドリー・マニングは、春には軍法会議にかけられる予定で、その後は間違いなく、軍刑務所で恐ろしいほど長い年月を過ごすことになるだろう。

ウィキリークスの物語により(やや微妙ながら)すぐに興味深い“成果”が表れたのは、通常ならばあまり目立たない国だった。チュニジアの米大使が同国の支配者一族の腐敗や目に余る言動について激しく非難した公電が公開されると、何万人という抗議者が立ち上がり、ザイン・アル=アービディーン・ベン=アリーを大統領の座から失脚させたのである。きっかけは失業中の26歳の大卒者が、野菜の街頭販売を役人から禁じられ、絶望から引き起こした焼身自殺だった。

彼の死が契機となって、全国的な暴動が起こった。反乱の背後にあったのは、長い間くすぶっていたベン=アリー一族の腐敗を知り尽くしていた。その意味ではウィキリークスは必要なかった。だが、ウィキリークスの“真の効果”と呼ぶべきものは確かに存在した。チュニジアの若者が「ガーディアン」のウェブサイトによせたコメントには、生まれ育った国家体制に抱いていた、あきらめの気持ちが、ウィキリークスによって、希望に変わったという思いが綴られていた。

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《関連サイト》
◎『ウィキリークス アサンジの戦争』立読み電子図書館
◎ウィキリークス・ウォッチ・ジャパン WikiLeaksの翻訳のまとめ等
◎ウィキリークスとアサンジ-ガーディアンに「登場」(2010.12.04)
◎ウィキリークスが明らかにした問題ー英ガーディアンエッセイより(2010.12.07)
◎日刊ウィキリークス




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by yomodalite | 2011-03-31 15:31 | 報道・ノンフィクション | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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