スリラー/ネルソン・ジョージ (著)、五十嵐正 (翻訳) 《1》

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いつもお世話になっている、みなさまに、感謝のきもちを込めた、年末のごあいさつなどもしたいところなんですが、

自分の中で、どんどん、宿題が溜っていく一方で、また、東京から離れる気もないので、年末年始は、この本の内容を、メモしていこうと思います。

最初の方は、主に「音」の補足です。

わたしは「スリラー」に関しては、以前、“スリラー”は、なぜ高く評価されているのか?でも書いたように、

マイケル・ジャクソンにとって、通過地点でしかない「スリラー」を最高傑作とする論評の中には「スリラー」以降の彼の数々の偉業や傑作を見なかったことにしようという「意図」が隠されているような気がして、うんざりしてしまうんです。

そんなわけで、本書のタイトルを見たときも、また「スリラー」(疲)と思ったんですが、日本語で読めるMJ本は、限られていますしね(疲)。。


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▲1981年“Off The Wall”Platinum



著者は本書について
「伝記ではない。音楽評論と回顧録と文化史の混合である」と形容し、「マイケル・ジャクソンの人生はとても多くの疑問を差し出す」とし、

翻訳者は「訳者あとがき」で、日本での死後の人気の再燃に関して、
「死者を敬う態度は当然だが、彼を神様か天使扱いして、生前の業績や行動のすべてを肯定する修正主義的なマイケル・ジャクソン像が描かれがちだと思うのだ」と記しています。



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▲スリラー期のジェリー・カール(1984年“Celebration for Thriller”)



わたしは自分なりに調べた結果、現在、MJを「自分の神」のように尊敬していますけど、死後、彼の慈善活動ばかりを高く評価したり「愛」と「平和」というイメージばかりに集約されそうになったことには、強い危惧を感じました。

しかしながら、一方で、MJへの根拠に乏しい偏向報道に対して、きちんとした修正が行われていないにも関わらず「修正主義」という言葉を安易に使用する、この翻訳者のように

正確な資料の収集を怠っているにも関わらず、間をとったような態度だけで「バランスのとれた見方」をしていると勘違いし、また、それだけで、効率よく、自分が頭がいいということを見せられると思っている、常識人的態度にこそ、日々「多くの疑問」を感じています。


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▲1984年“Celebration for Thriller”



それでも最終的に、これを読もうと思ったのは、著者が、TVドキュメンタリー作家(悩)とか、ジャーナリスト(笑)とかではなく、元音楽雑誌「Bilbord」のライター(悩)で、10冊以上の著作があり、ディームズ・テイラー・アウォードを2度受賞していて、

《ディームズ・テイラー・アウォード》
ASCAP(アメリカ作曲家・作家・出版者協会)のディームズ・テイラー賞(作曲家・音楽評論家として活躍したTaylorにちなんで優秀な音楽関係の著作物に与えられる賞)。ディームズ・テイラーは、ディズニー映画『ファンタジア』の音楽顧問で、ナレーションも担当している。


90年以降は、映画、TVのプロデューサーや脚本家、監督もこなし、MJより、ひとつ年上で、同い年のスパイク・リーとは友人らしく、リーと同様に、子供のころから、MJ旋風を受けて育ち、クインシー・ジョーンズや、MJエステートのジョン・マクレーンとも、知りあいであるという情報から、

『スリラー』を語った本としては「良質」なんじゃないかという気がしたからです。

ただし、上記に書いたことから想像できるように、これは、ファン向けの本ではなくて、MJを多少「研究したい」という人向けだと思います。

◎ネルソン・ジョージ著『スリラー マイケル・ジャクソンがポップ・ミュージックを変えた瞬間』吉岡正春のSoul Searchin'

◎「ネルソン・ジョージから学んだこと」吉岡正春のSoul Searchin'

◎ https://twitter.com/#!/taddihno(五十嵐正氏(翻訳者)のTwitter )


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「オフ・ザ・ウォール」期のジェリー・カール



☆ここから本書の引用開始

《第1部》

☆2009年
84年1月、アメリカ自然史博物館でジャクソンがギネスブックによって名誉を授けられていた夜に、デルが僕の初めての本となる『ザ・マイケル・ジャクソン・ストーリー』を出版した。

その本は百万部以上売れて、『ニューヨーク・タイムズ』紙のベストセラー・リストの第3位にまで上がることになる。

僕はスパイク・リーという名前の若い映像作家と友だちになり、彼の映画『シーズ・ガッタ・ハブ・イット』の初期の編集を見た(中略)その衝撃が現在にまで及ぶ黒人映画のムーブメントを先導する映画史における事件となった。

僕は公の場で彼を追悼したくなかったし、マイケルの人生の、それについてまったく知らない面のことを話したくなかった。

これは音楽がその中心にある本だ(中略)09年秋に、VH-1が毎年放送している『ヒップホップ・オーナーズ』のセットで振付師のファティマ・ロビンソンと話していた(中略)ヒップホップのアーティストたちの間でも、マイケル・ジャクソンの名前が出てきた。


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僕らの会話の中で僕が最もよく覚えていることは、彼女の息子ズーリが20世紀の暗黒の日々に死に絶えたと思っていた髪型であるジェリー・カールにしたがったという話だった。

彼は黒人と白人、ふたりのマイケル・ジャクソンがいたに違いないと考えたのだ。そして彼自身が濃い褐色の少年であるズーリは、その両方が大好きだった。

☆ゲアリーに戻ろう

ジョーの芸能界入りした子供たちは誰一人としてフランキー・ライモンのような悲劇とはならなかった(フランキーは13歳にしてセンセーションとなったが、18歳になるまでにヘロイン中毒で自滅し、26歳で亡くなった)

◎Frankie Lymon & The Teenagers

☆その歌声

マイケルの長いレコーディングのキャリアは、美しい人間の声が子供から中年まで進化していくさまを耳にする、かけがえのない機会を僕らに提供してくれる。

“ビッグボーイ”でのマイケルのリードボーカルは、これら初期のの録音の中で最も人を惹き付けるパフォーマンスだ。その歌詞は若い少年が信用してくれない女性に自分の成熟さを主張する物語で、マイケルのヴォーカルのアプローチはモータウンの初期の録音よりももっと大人っぽい。

◎Big Boy - The Jackson 5 


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マイケルはよく「コールド・スウェット」と「アイ・ガット・ザ・フィーリング」を歌っていたけど、あの感情は偽物じゃなかった
アイズレーブラザースの「イッツ・ユア・シング」のカヴァーでは

その伴奏トラックのかみそりのように鋭いシンバルのサウンドに調和するシンコペイションをもって発音し音を伸ばすマイケルをフィーチャーしている


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フォートップスの「リーチ・アウト・アイル・ビー・ゼア」のジャクソン5版では、マイケルがジャーメインとヴォーカルを分け合うが、オリジナルよりゆっくりとしたテンポで歌われ、マイケルのヴォーカルはリーヴァイ・スタッブス(フォートップスのリードヴォーカル)のもっとオペラ的な解釈よりもブルースっぽい。

◎Reach Out I'll Be There - The Four Tops


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これらの録音の中でとりわけ素晴らしいのは、
レイ・チャールズの「ア・フール・フォー・ユー」のカヴァーだ。
テイラーには残念なことだったが、ベリー・ゴーディは持ち前の売れるものへの直感力によって、(中略)テイラーをジャクソン5のプロデューサーの座から外した。

テイラーの後任としてジャクソン5のスタジオ内での交通整理担当になったのは(中略)ディーク・リチャーズである。20代半ばの白人のギタリスト/ソングライターで、ハリウッドの脚本家の息子だった。

伝説的なH=D=Hチームが自分たちのレーベルを始めたので、リチャーズと共に、LAを本拠とするフランク・ウィルソン、パム・ソウヤー,R・ディーン・テイラー、ハンク・コスビーが、デトロイトのポンチャトレイン・ホテルに集められ、H=D=H退社以降の曲を幾つか作り上げた。クラン(訳者注:一族)と名付けられた緩い括りのアンサンブルは「ラブ・チャイルド」を生み出した。

◎Diana Ross & The Supremes - Love Child


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最初、その3人組はグラディス・ナイト&ザ・ピップスと仕事をし「アイ・ウォント・トゥビー・フリー」という曲を生み出した。この曲がどのように「帰って欲しいの」に発展していったかは、幾つかの少しばかり異なる物語を生んでいる。


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▲この当時から女の扱いが上手過ぎるMJ。
スリラー期のシャイさは、
ある意味女を知り過ぎていたからかもw



「メイビー・トゥモロウ」は、僕のお気に入りの70年代前半のマイケル・ジャクソンのヴォーカルだ。(中略)「メイビー・トゥモロウ」は恋愛への心からの熱望の歌で、即座にゲットーの古典となる曲だ。僕にはラジオで聴くよりも公営住宅の夜中のハウスパーティーでかかる方が良く聞こえたレコードであり、その部屋で最もセクシーな女の子とスロウダンスするときにかけるレコードである。90年代に、ラッパーのゴーストフェイス・キラーとプロデューサーのRZAが「オール・ザット・アイ・ガット・イズ・ユー」の土台として、その曲を用いた。

◎Ghostface Killah - All That I Got Is You

☆音/映像1

マイケルは50年の生涯でハリウッドが投資した映画には1本しか出演しなかったー78年の『ウィズ』だ(中略)



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▲1979年、MJ & Tatum O'Neal



スピルバーグのような映画監督がマイケルの演じられる役柄に言及したとしても、それはピーターパンやその他の日常の現実の外に彼を置く作品の登場人物としてだった(中略)マイケルのもうひとつの障害物は彼の話し声だった(中略)

それでもなお、マイケルの役者としての仕事は稀だったにもかかわらず、デトロイトでの最初のオーディション映像から死後に公開されたコンサート映画『ディス・イズ・イット』まで、彼ほどそのパフォーマーとしての人生の、あれだけの詳細な記録が映画、ヴィデオ、最後にハイディフィニションで残されたエンターティナーはほとんどいない。

☆ニューヨーク、ニューヨーク

スタジオ54は快楽主義の見ものだった(中略)スタジオ54でマイケル・ジャクソンがドラッグやセックスにふけっていた記録はないとしても、彼は間違いなくニューヨークのディスコ文化をそのきらびやかな影響の最盛期に目撃した。


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70年代後半のニューヨークのサウンドトラックだったサウンドと感性の独特の融合を定義したのは、ラジオ局WBLSとそこのプログラム・ディレクター/スーパースターDJのフランキー・“ハリウッド”・クロッカーだった。(中略)クロッカーの音楽のミックスは優雅で耳あたり良く、洗練されていて、そして最も重要なことには肌の色を問わなかった。

彼は黒人聴衆の関心をユーロ・ディスコに向けさせたし、ドナ・サマーの「愛の誘惑(ラブ・トゥ・ラブ・ユー・ベイビー)」や素晴らしいオルタナ・ダンス・バンドのドクター・バザーズ・オリジナル・サヴァンナ・バンド他多くの人たちをヒットさせた。

◎Donna Summer - Love To Love You Baby(1975)  
◎Dr. Buzzard's Original Savannah Band - Cherchez La Femme


ディスコの影響力はニューヨークのヒップな人たちだけに限っていなかった。映画館でもクールじゃないAMのトップ40局でも。それらの場所ではビージーズが支配していた。



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▲1980年の“American Music Awards”ドナ・サマーとMJ


☆音/映像2

マイケルのマイクの持ち方、スピンするときの上半身の保ち方、マイクを持っていない方の手を使ってのジェスチャー、踊っているときに頭を傾かせて身体の各部を分離させるやり方、これらのMJの動きのすべてに少量のウィルソン(ジャッキー・ウィルソン)がある

マイケルのヴォーカルの音域と「ホーッ」サウンドはブラウンのざらざらな唸り声よりもウィルソンの高いテナーとしゃっくりのような歌い方のずっと似て聞こえる。

☆黒人のハリウッド

70年代の初めにベリー・ゴーディがモータウンの操業をデトロイトからロスアンジェルズに移したとき、彼はジャクソン5を養成する以上のことをした。彼は黒人ポップの地理的バランスを変えた(中略)


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1981年のThe Diana Ross Special Show



LAとニューヨークは常に重要な目的地だったが、モータウンの西への移動は(中略)大志を抱くアーティストたちは(中略)どちらかの都市に行かねばならないという結果を生じさせた。この移動は他のふたつの黒人ポップ現象と時を同じくしていた。ひとつはブラックスプロイテーション映画、もうひとつはドン・コーネリアスの『ソウル・トレイン』

このダンス番組は黒人のアーティスト、スタイル、ダンスを定期的に全国に紹介し、同時期にはハリウッド・エリートの通う私立学校と公立学校への黒人の少年少女の流入があった(中略)

ジャクソン兄弟の仲間のうちの一部となった若者の一人がジョン・マクレインである。彼は痩せたハンサムな若者で、母親がジャズピアニストのシャーリー・スコットで父親はLA周辺で葬儀社チェーンを所有していた。マクレインはジャクソンズが子供のポップ・バンドから若者のバンドに進化していった年月に彼らとつきあっていた(中略)


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1981年の“Annual Academy Awards”



マクレインは80年代前半にA&MレコードにA&Rの重役として加わり、16歳だったジャネットとレコード契約を交わした。

僕がジョンと会ったのはその頃で、その直後に彼はジャクソン家の末娘を、ジミー・ジャム&テリー・ルイスと組ませて、ジャクソン家の2人目のスーパースターを作り出す。

80年代半ばにさかのぼると、ジョンは黒人音楽界で姿を現してきたばかりの人物で、僕の親友のようなものだった(中略)LAコミュニティの価値観はニューヨークで僕が知っているそれらとはとても異なっていた(中略)サンセット・ストリップの2階建てのナイトクラブ、カルロス&チャーリーズやハリウッド・ヒルズでの盛り上がっているパーティーでは(中略)激しいファンクよりもスタジオで磨かれた完璧さを褒め讃えるR&B美学を作り出した。

幾つかの例外(トータル・エクスペリエンス・レコード所属のギャップバンド、サウンド・オブ・ロス・アンジェルズ・レコードでのリーオン・シルヴァーズのプロダクションの一部)はあったが、黒人ポップの80年代前半サウンドをブッカーT&MGズと間違える人は誰もいなかった。

◎Booker T & MG's ~ Green Onione


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☆例外の方↓


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1981年、Chris Walter 撮影



☆リーオン・シルヴァーズのプロダクション(Leon Sylvers III Production)
Leon Sylversが居たThe Sylversは、ウエスト・コーストのジャクソン5と言われたグループ。その後、作曲家、プロデューサーとしても大活躍した。



☆Leon Sylvers III Productionのヒット曲(MJファンにはおなじみのシャラマーも!!!)



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1983年、Victory Tour Press Conference



(80年代前半の黒人ポップの)変化に貢献したのは、コンピューターテクノロジーの使用の増大だった。アース・ウィンド・&ファイア、キャメオ、コン・ファンク・シャンといったバンドはどれもホーン・セクションと数個のパーカッション楽器を売り物にしていたが、人間の奏者をシンセサイザーやドラムマシーンに取り替えた。

◎Cameo - Shake Your Pants
◎Con Funk Shun - Ffun
◎Con Funk Shun - Too Tight


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この社会的及び音楽的コンテクストの中で、79年の『オフ・ザ・ウォール』で始まるマイケル・ジャクソンとクインシー・ジョーンズの共同作業はミュージシャンとしての彼の作品にとってと同じくらいにハリウッドでの有力な業界人としての成長にも重要だった。


2009年のMJの旅立ち後から始まり『スリラー』以前の音楽・文化事情を記した「第1部」のメモは、とりあえず、これで終了。

「スリラー/ネルソン・ジョージ(著)、五十嵐正 (翻訳)《2》」につづく

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by yomodalite | 2010-12-28 14:00 | ☆マイケルジャクソン書籍 | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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