2010年 03月 09日
明日は昨日の風が吹く/橋本治 |
「まえがき」で『広告批評』が2009年の4月号で終刊したことが書かれているのですが、そんな最近まで「広告批評」が刊行されていたことに、むしろ驚きました。
雑誌って、読者がいなくても続けられるんですよね。本誌に限らず...
広告が、かつては批評に値するもので、しかも、それを業界人のみならず、大学生も読んでいた時代があることなど、今となっては信じられない状況ですけど、この連載が、始まった1997年には、もうそれは終わっていたように思います。
橋本氏が、昭和が終わった段階で『’89』を書いて、その後、山の中に籠るように『窯変源氏物語』を書き続けた時期が、そんな時代が終わった頃だったということを、あらためて確認したり、「SMAP×SMAP」がとてつもなく素晴らしかったのは、1999年だったんだなぁとか、なかなか、振り返る機会がないような、小ネタから、大ネタまで、13年前から、1年前までを振り返ることができます。
今や、橋本治の解説者として、欠かせない存在の内田樹氏の文章が、最後にあります。
内田氏が明らかにした、全国紙の学芸欄に橋本治氏に言及した記事が1つもなかったという事実は、驚くと同時に、日本という国の言論の軽さを象徴しているようで、ああやっぱりという気もしました。
橋本さんは書く前に、「言いたいこと」があるので、書いているわけではない。自分が何を知っているのかを知るために書いているのである。だから、橋本さんの書くものは本質的に説明である。
という内田氏の橋本評は、どうして、新聞記者の書く文章がつまらないかの説明にもなっている。
読書中は、橋本氏のやり方では、2000年以降の時評は難しいと思っていたのだけど、読了後しばらくすると、自分の無知と偏見だったと思い直しました。特に、2001年〜2007年までの時評から、1年にひとつ、省略してピックアップしておきます。2008年と、2009年は、量が多くて選びきれませんでした。
2001年
◎その時、きみはいくつだったか?
1983年の三流大学の学生を主人公にした「ふぞろいの林檎たち」と同様の若者に、はやりの服を着せたのが、1990年代のトレンディドラマ。日本のドラマは等身大の若者を描こうとして、その試みは10年もたたない間に消滅してしまった。
1985年の「夕やけニャンニャン」の司会で一躍人気者になったとんねるずは、「三流大学出身」のふぞろい性を逆手にとった。一方での“嘆き”は、一方での“笑い”になる。
選択肢は2つあって、どっちを取るべきだったかは、過去の自分に問うしかない。
2002年
◎「国家権力」という言葉は、かなりの度合いで死語だ
日本の官僚には、「国家権力を強化し、国民を管理するため、総背番号制にする」という考え方をする力はないと思う。あるんだとしたら、「IT時代にふさわしいネット社会を作る」というまぬけな発想だけだと思う。
1980年代が終わって、「思想の時代」が「経済の時代」に移行してから、国家の力は弱まった。1980年代から始まるのは、国家の没落に伴う、官僚達の身分保全ーつまり、「俺たちは金儲けに介入して、この経済第一の世界でイニシアチブを取るぞ」だったのではないかと疑っている。
2003年
◎フランチャイズド国家
私は日本人だから、イラクの民主化は、イラクのアメリカ化である」という意義を唱えるが、「自分達は民主主義そのものだ」と思っているアメリカ人は、同じことを言って、「どこが不思議だ?」と怒るだろう。(中略)
日本の占領政策が成功したのはなぜか?冷戦構造の世界で、日本は、ソ連や中国や北朝鮮に存在する社会主義の防波堤の意味を持った。その意味があるから、「日本を押さえておくことの重要性」は、「日本をいじくり回す必要性」に勝った。
だから、日本はアメリカ的になりながら「日本」としての統一性を保つために「日本」であることを許された。日本は、アメリカによって「日本であることを許された」という不思議な一面を持っている。だから「親米でありながら国粋的で嫌米」という不思議な人達を生む。
2004年
◎組織に拠る男達の孤独と迷走
イラクで人質に取られた人達への「自己責任」発言問題から、年金改革法案の参議院での強硬突破まで、あることが一貫している。それは「批判の拒絶」である。「我々の方針に逆らうな、水を差すな」という流れは、国の中枢部で一貫している。(中略)
「小泉訪朝」が発表されてすぐ、日本テレビが「拉致問題の解決進展を図るため、日本は手土産として米25万トン支援を用意している」と報道してしまった。そうすると、総理の秘書官だかなんだかの方から、「そんな話、どこから聞いた?言わなきゃ、総理訪朝の時に同行取材をさせないぞ」という脅しが来て、一度は「訪朝同行取材団」のメンバーからはずされてしまった。
日本テレビ側が抗議して事が公になると、慌てて「なかったこと」にしてしまう。「報道の自由の侵害」とかを言う前に、平気でそんな発想が出来てしまう人間が、国家の中枢近くにいることに驚く。これはつまり、「我々のする事に水を差すな」という、警戒なのだ(後文略)
2005年
◎危険な国
「海外取材の多いフリージャーナリストが言ってたけど」という前置き付きで、こう言ったー「海外に行ってね、紛争地帯なんかで、その場所の危険度を測ろう思う時、彼はまず子供に声をかけるんですって。子供は普通に答えてくれたらそこは安全で、声をかけられた子供が逃げちゃったら、そこは危険地帯なんですって。」
それを言う彼も、言われる私も、思うところは同じである。「じゃ、日本はもう危険地帯なんだ」と。それは分かるが、では、日本はどう「危険」なのだろう?日本は別に「紛争地帯」ではない。(中略)
「大人が子供を襲う」という事件が、ここ何年もの間、やたらと多い。「小学校、中学校に、侵入者が現れて、襲撃する」というのも。(中略)
私には、その答えが1つしか思い当たらない。つまり「子供への嫉妬」である。
2006年
◎すべてはそこから始まった
5年前の9.11同時多発テロで、世界は変わった。
もしかしたらそれは、「根本的に変わった」であるのかもしれないが「世界を構成する根本要素」の側では、おそらく、それを理解していない。「根本要素」とは、例えば、「国連」という単位である。「根本的に変わった」に対して「根本的に変わらない処置」をとっても、どうにもならないだろうーそれが「現在」だ。
ニューヨークの世界貿易センタービルに旅客機が突っ込んだ瞬間の映像を見ていて、5年前の私は、「これでもう戦争は不可能になった」と思ったー5年前に、そう書いたと思って単行本になっている『ああでもなくこうでもなく3「日本が変わってゆく」の論』を引っ張りだしたら「昔の原稿をそのまんまここに載せた方がいいな」という気になった。
同時多発テロのことを2回続けてその前は「靖国問題」とはいかなる問題か」だったりするし.......
2007年
◎阿久悠が死んだので思うこと
自民党が参議院選挙で大敗して、安倍晋三が「辞めない」と言い出したら、作詞家の阿久悠さんが死んでしまった。なんだか「じんわりと来るショック」だった。「ああそうか、“現代の日本語”は1980年代の初めに死んでいたのか」と思った。
私が「安倍晋三には関心がない」と言うのは、あまりにも言うことが空々しくて、しかもきっぱりと断定してしまっているからだ。断定が先で、先に断定されてしまっているから、その後の「説明」が続かない。(中略)
「形としては成り立っていても、論理としては意味をなさない日本語は、いつからこの日本に罷り通るようになた?」と思う。前総理の小泉純一郎の「人生いろいろです」で通してしまう答弁から、その傾向は顕著になったんだけども、言葉の上に現れる変化というのは、一朝一夕には生まれないもので、「日本語を成り立たせる根本はいつからおかしくなったのかな?」とずっと思ってはいた。(後略)
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【内容紹介】橋本治氏が約11年間、『広告批評』誌上で連載していた“ああでもなく こうでもなく”。その連載からベスト・オブ・ベストを厳選。政治、経済、芸能、スポーツ、事件…など年次順に編集。橋本治氏の筆は、連想飛躍しながら、的確に時代の本質をつかまえる。例えば、松田聖子でバブルを語り、小泉内閣を家庭内離婚で語る。映画『スター・ウォーズ』でアメリカを斬ってみせる。世界金融危機を誰も言わないときに予言のように語っていたのも氏である。”ああでもなく こうでもなく”決定版!
●文庫/単行本未収録の2008年9月~2009年4月連載分8本に書き下ろし「時評の終わり」をプラス。集英社 (2009/9/25)
by yomodalite
| 2010-03-09 23:50
| 評論・インタヴュー
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